第1話 第1章:数字を愛する男と、傷ついたCFO
探偵でも刑事でもないサトウは、
淡々と“業務命令”としてその依頼を受け、
財務データ・口座記録・支払い履歴という
“数字の武器”だけで医師ジェレミーを追い詰めていく。
感情ではなく整合性。
推理ではなくリスク管理。
暴くのは、人間の嘘と隠された資金の流れ。
冷静沈着な経理マンが魅せる、
ロジカルで鮮やかな完全攻防サスペンス。
第1章:数字を愛する男と、傷ついたCFO
サトウは、高級家具メーカー「Traditional Furniture」の経理部で黙々と伝票を裁いていた。
ある日の昼下がり、最高財務責任者(CFO)のフェイス・フォスターから彼女の執務室に呼び出された。
室内に漂うのは、いつもと違う重苦しい空気だ。フェイスは目の下の濃いクマを隠そうともせず、両手で包み込んだコーヒーカップの縁を指先で微かに震わせている。左手薬指のシンプルな結婚指輪を、何度も無意識に弄んでいた。 彼女はコーヒーを一口飲んだ。
「手短に言うわね、サトウ。頼みがあるの。でもちょっと…人には言いにくい内容なの。もし何か理由があって無理なら、『その話は遠慮します』で構わないから、そう言ってくれたら理解するわ」
サトウが続きを促す。
「実は、夫のジェレミーが誰かと会っているんじゃないかとかなり疑っているの。彼はご存知の通り医者で…ええと、勤務先の看護師の一人と付き合っているんじゃないかって思っているの。今朝は仕事の後に学会があるから遅くなるって言ってたけど、私にはそれが本当かどうか怪しいの。だから、彼が本当にどこへ行くのか、あなたに尾行してもらえないかしら?」
「私にジェレミーさんの浮気の調査をしろと言っているのですね?」
フェイスは視線を逸らしながら、コーヒーカップを両手で握りしめた。頬が少し赤くなっている。
「そうなの。でも、もし断ってもペナルティとかはないから。ただ…あなた以外に頼める人がいないのよ。お願い、引き受けてくれる?」
「それは、平日の勤務時間にいつからいつまでするのでしょうか?」
フェイスは机の上のスケジュール帳をちらりと見た。少し考え込むような表情で唇を噛む。
「今日は水曜日だから…金曜の夜、ジェレミーが病院を出る時間からよ。多分夕方の6時頃だと思う。終わったら報告してくれればいいわ」
「報酬については別にお話ししましょう。私がお聞きしたいのは、このお話は仕事の延長ということでよろしいですか?」
フェイスは一瞬言葉に詰まり、視線を窓の外へと向けた。コーヒーを一口飲んでから、慎重に答える。
「仕事…という形にはできないかもしれない。でも、私が個人的にあなたに依頼する形で、会社は関係ないわ。だから記録にも残さない。それでいいかしら?」
「それでは私は困ります。私は会社の規定に従って動きます。規定外の行動は、後で責任問題になりますので。時間外でも会社の仕事でないと動けません。金曜は週末ですが、経理は忙しいのです。また、社外に出ると事故に遭う恐れもあります。労災保険が必要です。だから業務命令ならお受けできます」
フェイスの表情が一瞬硬くなり、彼女は深く息を吐いた。指で机を軽く叩きながら考え込む様子を見せる。
「わかったわ。じゃあ業務命令という形にする。でも…他の誰にもこの内容は言わないで。経理部の特別調査ってことにしましょう。それでいい?」
「はい、では文書でお願いします」
フェイスは引き出しから紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。数分後、一枚の書類を差し出す。
「金曜18時より特別調査任務。内容は機密。終了後報告書提出。労災適用可。…これでいいかしら?サインして」
「時間外手当を請求します。それに特別報酬をお忘れなく」
フェイスは眉間に皺を寄せながらも、渋々頷いた。再びペンを取り、書類に追記する。
「…わかった。時間外手当と別途報酬。金額は後で相談ね。とりあえずサインしてちょうだい」
サトウは、彼女の書いた文書にサインし、コピーを取る。
「では、金曜の夜から特別勤務に付きます。ジェレミーさんの情報をください。その浮気相手の女性についてもお願いします」
フェイスは引き出しから写真を一枚取り出した。写真の女は金髪を肩まで伸ばし、白衣姿でカメラに朗らかに微笑んでいた。ジェレミーの勤務先病院の看護師だという。
「彼女の名前はサラ・ハーパー。ジェレミーと同じ病院の外科病棟看護師よ。二人は半年前から妙に親しげなの。住所は…これ。あと、彼の車は黒のBMW、車種は5シリーズ」
フェイスはさらに一枚の紙を渡した。そこにはジェレミーの勤務先病院の住所と、サラの住所が記されている。彼女の表情は複雑だ。
「金曜の夜、病院を出た後の行動を追って。もしサラと会っていたら…写真とか、証拠が欲しいの。お願いね、サトウ」
「わかりました。では、仕事に戻ります」
フェイスは小さく頷き、机に肘をついて額に手を当てた。疲れた様子で溜息をつく。
「ええ、ありがとう。…金曜までに何か準備が必要なら言って。あと、この件は本当に内密にね」
サトウは思い出した様に立ち止まる。そして、メモ用紙に何か書きフェイスに見せる。
「この内容のものをご用意ください。できるだけ早くお願いします」
フェイスはメモを一瞥し、無言でうなずいた。




