第二章 『隣にいる人』その二
「もう買ったんじゃなかった?」
棚から本を抜き取る。
「電子版」
美緒は隣に立ったまま私を見る。
手には、さっき選んだ二冊を抱えていた。
「だから?」
「紙は別」
手に持った本を裏返す。
シュリンクには店舗特典のシールが貼られていて、その横に絵柄の見本が小さく印刷されている。
一人は自販機の前に立って、まだボタンに手をかけたまま。
もう一人は、すでに缶を一本差し出している。
受け取ったほうは相手を見上げて、うれしそうに笑っていた。
数秒見る。
「それに、これもある」
美緒が寄ってきた。
「この絵?」
「うん」
「それで、もう一回買うの?」
「これだけじゃない」
「ほかに何があるの?」
この巻の後半には、紙でもう一度読みたいところがいくつかあった。
特に、一か所。
前のページには人物の背中だけが残っていて、表情はページをめくらないと見えない。
スマホで読んだときは、指を滑らせたらそのまま通り過ぎた。
内容が減ったわけじゃない。
でも、そこへ行くまでが少しだけ早かった気がする。
ほんの少しなのに。
その少しは、あったほうがいい。
「紙で読みたいところがある」
「どこ?」
「後ろのほう」
「どれくらい後ろ?」
「三分の二くらい」
「何があるの?」
「言えない」
「なんで?」
「美緒、あとで読むかもって言ってたでしょ」
美緒が止まった。
「あ、そっか」
自分からネタバレを聞くところだったらしい。
「とにかく、そこはスマホで読んだときと、めくった感じがちょっと違う」
「紙のほうがいいってこと?」
「そこは」
「そこだけ?」
「ほかにも何か所かある」
「そんなに違う?」
「少しだけのところもある」
「少しでも気になるの?」
「気になる」
続きを話そうとしたところで、美緒が先に口を開いた。
「ちょっと待って」
「何?」
「私、なんでまた買うのって聞いただけなんだけど」
「だから説明してる」
「分かってる」
二秒くらい見られた。
「続けて」
ならいい。
「前のページは、わざと一回そこで止まるようにしてある。で、めくったら――」
急に肩が重くなった。
美緒がそのまま顎を乗せてきた。
髪が首に触れる。
くすぐったい。
一歩横へずれる。
美緒も一歩ついてきた。
「重い」
「重くないよ」
「重い」
「特典見たい」
「自分で一冊取れば」
「花梨が持ってるほうが近い」
……。
本を少し美緒のほうへ傾けた。
すぐにまた寄ってくる。
美緒は昔からこうだ。
学校帰りに電車に乗ったときも、座席が一列まるごと空いているのに、まず私の隣に鞄を置いて、それからそこに座った。
一度、ほかにも空いてるのに、なんでわざわざここに座るのか聞いたことがある。
美緒は本当に少し考えてから、
「花梨がここにいるから」
と言った。
そのときも、それが何の理由になっているのか分からなかった。
今も別に分かっていない。
ただ、そのうち聞かなくなった。
「じゃあ両方残すの?」
美緒が聞いた。
「うん」
「電子版、もういらなくない?」
「寝転がって読むならそっちのほうが楽」
「紙は?」
「紙は紙」
美緒が私を見る。
「何?」
「別に」
ようやく顎が肩から離れた。
本を籠に入れる。
二歩も進まないうちに、美緒が別のシリーズの新刊を手に取った。
「これは?」
「まだ読んでない」
「ほんとに?」
「昨日出たばっか」
「花梨、だいたい発売日に読むじゃん」
「昨日は時間なかった」
「昨日、私より早く授業終わってたよね? 校門のところで見たよ」
「あれは授業が終わったとき」
「ああ」
美緒はそれ以上聞かなかった。
美緒が同じ大学に入ってから、前より顔を合わせることは確かに増えた。
学科は違うし、毎日会うほどキャンパスも狭くない。
食堂のときもある。
生協のときもある。
一度、自販機で水を買って振り返ったら、後ろに美緒がいたこともある。
偶然だと言っていた。
たぶん。
美緒が手に持った新刊をぱらぱら見る。
しばらくして、そのまま私の籠に入れた。
下を見る。
「何?」
「あとで買うでしょ」
「まだ買うって言ってない」
「じゃあ戻す?」
一度見る。
ちょうど前から続いていた話が、この巻で一区切りつく。
表紙も前の巻よりいい。
「……とりあえず入れといて」
「うん」
返事だけは素直だった。
もう口元が笑っている。
会計するときまで笑わないでほしい。
結局、その本も一緒に買った。
美緒は隣で一言も言わなかった。
ずっと笑っていただけ。
「うざい」
「何も言ってないけど」
「顔がうざい」
「それはどうしようもない」
もっと笑った。
店を出ると、美緒が聞いた。
「このあとどうする?」
「帰る」
「分かった」
返事が早すぎる。
横を見る。
「美緒も来るの?」
「うん」
「誘ってないけど」
「でも花梨んちのほうが近いし」
「関係ないでしょ」
「あと、さっき買った本見たい」
「自分も本買ったじゃん」
美緒が自分の袋を見る。
「これは家帰ってから読む」
「うちも美緒の家じゃないけど」
少し考える。
「うん」
そのまま隣を歩き続ける。
……もういい。
本当に来てほしくなかったら、さっきの時点で帰ってって言ってる。
家に着くと、美緒は先に靴を脱いだ。
鞄もいつものように、壁際の椅子の横へ置く。
初めて来たときは、廊下の真ん中に置いた。
邪魔だからどけてと言った。
二回目も同じところに置きかけた。
三回目でようやく覚えた。
今はもう言わなくていい。
買った本を部屋へ持っていく。
「喉渇いた」
「冷蔵庫」
「何ある?」
「自分で見て」
すぐに冷蔵庫が開く音がした。
上着を掛ける。
後ろが急に静かになった。
振り返る。
やっぱり。
美緒が一番上の段に置いてあるボトルを持っていた。
「だめ」
「まだちゃんと見てないじゃん」
「それ、私の」
「一口だけ?」
「だめ」
「全部飲まないって」
「それでもだめ」
じっと見られる。
「けち」
「下の缶ならいいよ」
美緒が下を見る。
「これ?」
「うん」
「花梨が好きじゃないから?」
「そう」
「せめて『美緒のために取っといた』って言うくらいしてよ」
「取ってない」
私のボトルを元に戻す。
何か小さく言っていたけれど、聞こえなかった。
結局、下の缶を取った。
グラスも勝手に棚から出している。
私はしゃがんでスピーカーをつけた。
前回途中で止めたプレイリストが、そのままの位置に残っている。
イントロが流れる。
グラスを持って戻ってきた美緒が、途中で止まった。
「あれ」
「何?」
立ったまま少し聴いている。
「花梨、最近こういうの聴くんだ」
「うん」
「前は流してなかったよね」
「最近聴き始めた」
「自分で見つけたの?」
「友達に勧められた」
「へえ」
一口飲む。
次の瞬間には、もう机の上の紙袋を見ていた。
私も何も続けなかった。
「特典は?」
包装を開けて、先にカードを取り出す。
美緒がすぐ寄ってきた。
最初に肩が触れる。
そのあと、ゆっくり重さがかかった。
「貸して」
「折らないで」
「分かってるって」
「前もそう言った」
「あれは事故」
「じゃあ今回は気をつけて」
カードを渡す。
いつもより少しだけ丁寧に受け取った。
「おおー」
美緒がじっと見る。
「ほんとにいい絵だね」
「うん」
「こっちの子、まだボタン押してないのに、隣の子はもう買ってる」
「うん」
「相手が何飲むかまで分かってるんだ」
もう一度カードを見る。
「うん」
美緒が返してきた。
カードをしまって、今度は本を開ける。
やっと、さっきのところを見られる。
前のページまで来たところで、少しゆっくりになった。
紙はスマホの画面より暗い。
でも、ここはむしろそのほうがいい。
前のページに残された余白が、画面みたいに明るくならない。
めくる。
視線がちょうど、その顔に落ちた。
少し止まる。
戻す。
もう一度。
うん。
これだ。
「どう?」
美緒が横から覗き込む。
「これがさっき言ってたところ?」
「うん」
本を真ん中へ寄せる。
「まずここ見て」
「うん」
「それからめくって」
美緒がそのとおりにする。
少し止まった。
「ああ」
美緒を見る。
「違うでしょ」
「違う」
「かなり違うでしょ」
「……花梨にとっては、かなりなんだろうね」
「普通にかなり違う」
美緒が自分でもう一度戻して、めくった。
今度は笑わなかった。
「分かった」
「何が?」
「花梨が紙でも買う理由」
それならいい。
少なくとも、さっき説明した意味はあった。
本を取り返す。
「でも電子と紙で両方買うのは、やっぱりちょっと面白いけど」
……。
前言撤回。
「もう見せない」
「えー」
「自分で買って」
「そこまで好きじゃないもん」
「じゃあ見なくていい」
「でも花梨がそうやって語ってるの見るの、けっこう面白い」
一度止まった。
「何が面白いの?」
「だって花梨、普段こんなに喋らないじゃん」
手元の本を見る。
そう?
さっきも別に、そんなに喋ってない。
少なくとも私はそう思う。
「花梨」
「何?」
「ほんとにこの漫画好きなんだね」
「うん」
何を今さら確認しているんだろう。
好きじゃなかったら、二回も買わない。
しばらく読んでいると、美緒が急に立った。
顔を上げる。
「どこ行くの?」
「充電」
そのまま机のほうへ歩いていく。
聞く必要もない。
延長コードがどこにあるか、どの差し込み口がたまに接触が悪くなるか、ケーブルをどこに置いているか。
全部知っている。
「花梨」
「うん」
「このケーブル、そろそろ駄目じゃない?」
「どれ?」
「短いほう」
「まだ使える」
「ここ曲がってるよ」
「充電できるならいい」
「そのうち切れたらケーブルなくなるじゃん」
「もう一本ある」
「どこ?」
「美緒が持ってる」
二秒くらい静かになった。
美緒が下を見る。
「あ」
今持っているのが、そのもう一本だった。
何を心配してたんだろう。
充電器につなぐと、また戻ってきた。
今度はベッドの端に座る。
「花梨」
「うん」
「寝転んでいい?」
「だめ」
「なんで?」
「外で着てた服だから」
自分の服を見る。
「上着脱いだら?」
「中のも外で着てたでしょ」
「厳しい」
「自分のベッドなら好きにしたらいいけど、それ私のだから」
美緒が後ろを振り返った。
本当に寝転がることはしなかった。
こういうところは昔からちゃんと聞く。
「じゃあ服貸して」
「やだ」
「ちょっとだけ」
「やだ」
しばらく見られた。
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
だめなものはだめ。
それはずっと前から知っている。
美緒はベッドの端に座ったままスマホを見始めた。
三十秒くらいすると、体が少しずつ横へ傾いていく。
本から目を上げる。
美緒がすぐ止まった。
もう半分くらいベッドにつきそうだった。
「何してるの?」
「寝てないよ」
「もうすぐ寝るでしょ」
「まだ寝てない」
「ちゃんと座って」
ため息をつく。
それでも座り直した。
今度はしばらくちゃんとしていた。
次の話まで読み進めたころ、美緒がベッドから下りて、また私の隣に座った。
膝が腕に当たる。
少し横へずれる。
しばらくすると、また当たった。
もう一度ずれる。
三回目で、顔を向けた。
「わざと?」
美緒も自分の膝を見る。
「そう?」
「そう」
「気づかなかった」
たぶん本当だ。
くっつきたいときは、むしろ最初からそのまま寄ってくる。
こうやって少しずつ近づいてくるときは、本人が気づいていないことのほうが多い。
昔、一緒に宿題をしていたときもそうだった。
机は広いのに、美緒の教科書はいつの間にか私の前まで移動してくる。
本人も一緒に寄ってくる。
気づいて顔を上げるころには、二人とも同じ側に固まっていた。
美緒の膝を横へ押す。
「そっち、まだ場所あるでしょ」
「ああ」
座り直す。
今度は本当に膝が来なかった。
もう一度本を見る。
一ページめくる。
肩にまた重さが乗った。
……。
少なくとも、膝ではない。
放っておいた。
そのうち部屋が静かになった。
私は漫画を読む。
美緒はスマホを見る。
たまに見つけたものをこっちへ見せてきた。
形の崩れたケーキ。
二歩走ったところで滑って転ぶ犬。
どこで撮ったのか分からない、一文字だけ抜けた看板。
全部見た。
保存したいものは一つもなかった。
それでも全部送ってくる。
スマホが三回続けて震えた。
「隣にいるじゃん」
「あとでも見られるでしょ」
「なんであとでもう一回見るの?」
美緒が考える。
「確かに」
四回目も震えた。
もうスマホは取らなかった。
美緒は一人でしばらく笑っていた。
催促はしてこない。
曲が次に変わる。
美緒があくびをした。
今度は「疲れた」とは言わなかった。
本当に疲れているときは、むしろあまり言わない。
「疲れた」「もう無理」と何度も言っているときは、まだしばらく歩ける。
本当に力がなくなると、急に静かになる。
それから、寄りかかれるものを探し始める。
ページをめくる。
肩にかかる重さが少しずつ増えていった。
やっぱり。
「美緒」
「ん」
まだ起きている。
声はもうかなり小さい。
「寝るなら帰って寝て」
「寝ないよ」
「そう」
そのまま読む。
少しすると、美緒が持っているスマホが下がり始めた。
一度止まる。
また少し下がる。
床に落ちる直前で抜き取った。
美緒はまったく反応しない。
寝てる。
……。
さっき寝ないって言ったのに。
スマホを脇に置く。
美緒の頭が、私の肩と腕の間に挟まっている。
あまり楽そうには見えない。
少し体を動かす。
美緒が眉を寄せて、自分で位置を変えた。
それからまた寄りかかってくる。
二秒見る。
まあいい。
本は見える。
少し高く持ち直す。
続きを読んだ。
「……花梨」
「ん」
「何時?」
スマホを見る。
「六時四十七分」
美緒が二秒黙った。
「あ、ご飯」
一気に起き上がる。
「なんで起こしてくれなかったの?」
「起こした」
「いつ?」
「寝る前」
「そのときまだ寝てないじゃん」
美緒を見る。
「だから寝ないでって言った」
少し考える。
「……あ」
手で髪をかく。
私に寄りかかっていた側がぺたんこになって、反対側だけ変に跳ねている。
「髪」
「何?」
「乱れてる」
適当に二、三回押さえる。
もっとひどくなった。
「直った?」
「直ってない」
「じゃあ花梨やって」
「やだ」
「ちょっとだけ」
「鏡あっち」
指したほうを見る。
「知ってる」
「じゃあなんで聞くの?」
「花梨のほうが近いから」
無視した。
仕方なく自分で鏡の前へ行く。
自分の髪を見て、ようやく少し目が覚めたらしい。
「ひど」
「うん」
振り返る。
「ほんとにうんって言うんだ」
「自分で言ったでしょ」
引き出しのそばに置いてあるブラシを取る。
最初に来たときだけ、どこにあるか聞いた。
それからは聞かない。
髪を直すと、ブラシを元の場所へ戻した。
少し斜めになっている。
もう美緒は鞄を取りに行っていた。
手を伸ばして、まっすぐに戻す。
玄関で、美緒は靴を履きながらポケットを触った。
左。
右。
それから鞄の中を探し始める。
だんだん動きが速くなった。
私は壁にもたれて見ていた。
十秒くらいして、ようやく顔を上げる。
「スマホどこ?」
「机」
「あ」
また部屋まで走っていく。
スマホはまだ充電ケーブルにつながっていた。
美緒が抜いて、玄関へ戻ってきた。
「忘れるとこだった」
「うん」
「なんで先に言ってくれなかったの?」
「聞かれてないから」
「もしそのまま外出てたら?」
少し考える。
「呼び止める」
美緒の、靴を履いていた手が止まった。
顔を上げる。
「ほら」
「何?」
「やっぱり言うじゃん」
「じゃないとスマホずっとうちにあるでしょ」
「ほらね」
急に笑った。
「昔からそう」
「何が?」
「私が忘れ物しても、最後は花梨が気づく」
毎回じゃない。
たぶん。
少し考える。
傘はあった。
学生証も。
イヤホンも、たしか二回。
充電ケーブルはもっと多い。
……。
結構ある。
「美緒が忘れなければいいだけでしょ」
「でも花梨が教えてくれるじゃん」
「それは忘れていい理由にならない」
「分かってるよ」
返事だけは早い。
直す気はなさそう。
美緒が立ち上がった。
「どうせ花梨が言ってくれるし」
当然みたいに言う。
私は答えなかった。
本当に忘れていたら、たぶん言う。
エレベーターの中で、美緒は一番奥の壁にもたれた。
「唐揚げ食べたい」
「前もそれだったじゃん」
「おいしいから」
「じゃあさっき、どこで食べるって聞いた意味ないでしょ」
「店を決めるのと何食べるかは別じゃん」
「そう」
「それに今日、あれも追加したくて――」
スマホを出す。
通知欄にあるのは、美緒がさっき送ってきたものだけだった。
新しい通知はない。
そのまま画面を消そうとした。
指が少し止まる。
LINEを開いた。
一番上には、まだ水野さんの名前がある。
最後のやり取りは昼で止まっている。
新しいメッセージはない。
二秒見る。
「花梨」
顔を上げる。
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「じゃあ今、私何て言った?」
「唐揚げ」
「それ前の話」
そのあとは、確かに聞いていなかった。
美緒がじっとこっちを見る。
もう一度画面を見る。
やっぱり何も増えていない。
それからスマホをポケットにしまった。




