第五十話 ー安全運転の重みー
この日は、朝から雨だった。
雨の多い地域ではあるのだが、真冬の海鷲は雨になる日はそう多くはない。
雪が積もる事は滅多にない、10年に一度程度。降っても山から風に乗り、雪が舞う程度である。
冷たい雨だった。
康一の乗るトラックは、冬場はスタッドレスタイヤに替えられている。峠越えをするからだ。
朝から野口さんに、いろいろ注意事項を教えられた。
「康一、海鷲峠越えて、弓山トンネルの手前で一旦止まって後続車両を行かせるんやで。大又トンネル越えたら銀世界やでな。速度落として走行するように。この時間はすでに交通量も多いでな。凍ることは滅多にないけど安全マージン取らなあかん。」
康一は不思議そうな顔をして『安全マージンってなんやろ』と思っていると心を読まれたように続ける。
「うん。わからんと思うで、ちょっとだけ説明するな。運転する時は常にかもしれない運転をするように何回も言うたと思うけど、それも安全マージンの1つなんさ簡単に言うと、事故を起こさないための『ゆとり』を確保するって言うことなんさ。安全マージンは大きく分けて3つある」
野口さんの説明によると運転の安全マージンは3つに分けて考えて今日みたいな日にはその3つともしっかりやるべきだと言うことらしい。
その3つとは
1、空間の安全マージン(車間距離と側方感覚)
車間距離は前方車両が急ブレーキを踏んでも止まれる距離
側方感覚は停止車両などを追い越す場合など、ドアを開けたとしても当たらない距離
2、時間の安全マージン(認知、判断、操作)
人は機械ではないので、危険を察知してから ブレーキが効き始めるまでにどうしても『空走時間』と言うタイムラグが出来てしまう。それを加味して補う時間的な『ゆとり』を取る事。
そのためには時刻、天候、周囲の状況に応じた、速度調整と危険予測が必要となる。
3、車両性能の安全マージン(摩擦の限界)
車両重量やカーブの大きさによってたタイヤが制動できる摩擦に限界があることを知る必要がある。
つまり、より重い車またはより大きなカーブには大きな制動が必要つなるために速度を大幅に落とす必要がある。
またブレーキに頼りすぎるとタイヤがロックして制動不能に陥ることもあるため、エンジンブレーキを主に使う。
また路面の状況により、タイヤが滑ることは雪、雨共に頻繁に起きる事と認識し減速して制動不良に対処する。
「はい。これらを踏まえて今日は『急』という動きを封印しろよ。車間距離はいつもの5倍。トンネル出口、橋の上は、絶対に滑ると思って事前にゆっくりと超減速。ブレーキはエンジンブレーキとポンピングブレーキでじんわり踏む。駐車する際はサイドブレーキの2段引き、輪止め。これをしっかりやってくれな。午後から天気は回復する見込みやで、帰りは大丈夫やと思うけど、いつも言うようにハンドル握ったら『絶対に気を抜かない』を、徹底してこい」
と野口からいつもより厳しい目で伝えられた。
野口が安全運転に対してうるさく言うのには実は訳がある。
入社して5年が過ぎ、営業成績も常時上位に位置していたある日、所長から社内指導員の資格を取得するように促され、1週間ほど研修を受けて取得した。
それから1年、新人を指導するのも慣れて4人目が独り立ちしたその日に悲劇が起きた。
熊野の山あいにある中学校の近くをその新人が走行中、右から勢いよく自転車で駆け下りてきた中学生に気づいたものの避けきれず、衝突し死亡させる事故を起こしてしまったのである。
状況的には優先道路を減速して走行中、右からの飛び出しなので、こちらに一方的に非があるという訳ではないものの、トラックなので分が悪い。
妹尾所長と野口とその新人の3人で中学生の家に謝罪に向かった。
泣きじゃくり、自分達を罵るお母さんの姿は、野口にも目に焼き付いた。
謝罪のしようがない、謝りようがないのだ。
そのドライバーは、「もうハンドルは握りたくない」とかなり落ち込んだ。
そして葬儀が終わったその夜に自殺した。
この衝撃的な事実に野口は思い悩み、退職を決意し所長に相談した。
妹尾所長は言った。
「お前の責任の取り方がそれか?違うやろ。2度と事故を起こさないドライバーを育てる事こそが亡くなった人に返せる責任じゃないんか。もっと深堀りしてしっかり向き合うんや。一緒にやろう」
それからというもの海鷲営業所の安全運転に対する取り組みは全国を牽引するほどの体制となった。




