見世物の結果
この皇国では一般に『乙女』と呼ばれ、恐ろしい女として忌避されがちだが、隣国では『魔女』と呼ばれ見つけ次第処刑されている。かと思えば別の国では『巫女』や『聖女』と呼ばれたり、女神の代弁者、寵児として神殿にて女神が現し身を得たがごとく崇拝されたりしている所もあるらしい。
彼女達の共通点は『超常の力を操れる』事と――もう一つ『その力を操るためには何らかの重大な代償を払わねばならない』事だ。
この前に隣国で焼かれた魔女は、己の愛する者を失った時にのみどのような怪我も病をも完治させる力を持っていたそうだ。異国の巫女は、常に重篤な心臓の病に苦しむ代わりに雨雲を自在に操るらしいので、王冠や御璽よりも重んじられていると有名だ。大昔に居たと言う遠国の聖女は大量の人の血を浴びた時だけ、次の年に起きる災害をぴたりと言い当てる託宣を下したと伝わっている。
男を愛した瞬間にその愛のために狂気に陥るクレーティアだが――その『男を愛する間の己の理性』を代償に何らかの人外の力を操っていたとしても、何の不思議も無いのである。
「愛に飢えたお前は、いったい誰に従うの?」
最低で――己が『乙女』である事をジュリアにこの時点で知らせたと言う事は、クレーティアは今だけはジュリア達に敵対するつもりは無く、今しばらくはジュリア達に従うつもりなのだろう。
しかし完全な味方だとの保証も無ければ、情勢次第では裏切る可能性もある。
「私は旦那様を愛しております。何があろうと戦地に向かった旦那様のお背中を守ると約束いたしました」
ならばジュリア達の敵になる事は、しばらくの間は無い。ジュリアの夫である第二皇子アレックスは、正にこの宴会の時とその後のために支度と覚悟をしてきたのだ。目的を同じくするが故に、クレーティアは、彼女が持つ乙女の力を有効活用して欲しいとの意味を込めて、ジュリアにこの瞬間に知らせたのだろう。
そう、とジュリアは小さく言って、僅かに頷いた。
「まもなく宴会も始まります。クレーティア、先に行っていなさい」
「承知いたしました」
同時刻。皇国城内で国賓が滞留する『カサブランカ・パレス』では、第二皇子アレックスから内々に派遣された密使2人、第一皇子から派遣された仲裁人が10人と少し、そして隣国の王太子オスカルの側近達が激しい応報を繰り広げていた。
「直ちに『見世物』のご予定を中止して頂きたい。貴国と我が国では『見世物』に対する観点が遺憾ながら大きく異なっておりますが故!」
密使達は冷静だが、憤っていた。何せ『見世物』の対象が対象だったのだ。
「国境を突いても何も出来ぬ弱小の国の者が何を言っているのだ?」
隣国の王太子オスカルは側近に好き放題言わせながら、本人だけは優雅に窓から夕焼けを眺めている。
「我が国への侮辱は!宣戦布告に等しいと思われよ!」
「たったの1万しか戦える者がいないのに?宣戦布告と?これは何と笑える冗談なのだ!そうだな、この国の名が変わったらこのような下らぬ冗談も静まるであろうよ」
密使はなおも強い言葉で反論を続けたが、ここで役に立たないばかりか足を引っ張る事しかしないのに、数ばかりが多い仲裁役が彼らを取り囲んでしまった。
「まあ、まあ、この場でそのようにいがみ合うのはお止めなされ」
「どうせ、たかが『見世物』なのですから、貴公らも穏便に――」
「では、そろそろ始まりますので」
密使2人は抵抗したが、
「何をする、放せ!」
「貴様らも内通者か!?」
……扉が閉ざされてその声も遠くなると、王太子は振り返ってとうとう笑い出した。
「見たな、あの連中の腑抜けを!腰抜けの臆病者が相手だ!この戦、もはや我らが勝ったも同じだぞ!」
「はい、殿下。今や我らの勝利は目前でございまする!」
「その意気だ、良いぞ。
そうだな、この国を属州とした頃には私が王となっているだろう。その折にはお前達の戦功によってめいめい領地を加増してやろうぞ!我が国の騎士の一人に至るまでだ!」
側近達は全員が応える。
「「有り難き幸せ!」」
宴が始まってしばらくは何事も無かった。数多の灯りに照らされて、大広間は昼間のような明るかった。そこにひしめく誰もが和やかな雰囲気の中で、この宴会を――急ごしらえのため珍味は少なかったが――楽しんでいた。
それが真冬の霜よりも冷たく凍り付いたのは、いよいよオスカル達が従える騎士達によって『見世物』の対象が運ばれて来た時だった。
「――きゃああああああああああああっ!?」
令嬢や夫人達の口から、次々と絹を引き裂くかのような悲鳴が放たれる。気分を悪くして、倒れた女も続出した。
「あれは!?」
「せ、セレス姫殿下だぞ!?」
男達とて顔は真っ青である。
その頃合いを見計らって、オスカルの側近が大声を張り上げた。
「皇国の諸君よ!これは偉大なる我らが王国の無二の者であらせられる王太子殿下が考案なさった、またとない『見世物』である!その目でしかと見るのだ!」
罪人の姿をさせられ、自力では歩けぬほど衰弱したセレス第一皇女――仮にもオスカルの正妻であるはずの姫君が、鎖に繋がれて首輪を引きずられて、宴会場の大広間に設えられた舞台の上に出されたのだ。しかも垂れ幕が外された舞台の上には、首を乗せるための台と大きな斧が、これ見よがしに置かれていたのだから。
「この女は大罪人である!王太子の妻でありながら他の男との不義を働いたのだ!よってこの場にて処刑とする!またその罪は我が王国の王族の名誉と威厳を毀損したものである!これほどに重大であるが故に、我が王国は貴国に賠償としてダイヤン平野一帯の領有権を割譲する事とする!」
「はて、そんな条約は聞いた事が無いが」
真っ先に進み出たのは第二皇子アレックスであった。涼しい顔をしながら、
「王国と我が皇国との条約にそのような文言は一つも無かった。セレスの降嫁した日より50年の間トラルテ河を国境とする事、セレスの持参金としてトラルテ河の水利の優先権を王国に渡す事。そしてセレスが嫁いだ日から50年、互いの領土は一切の軍事不可侵とする事。――これだけだったはずだが?」
「止めろ!どうしてお前はそうやって事を荒立てようとするのだ!」
第一皇子ティボルトがやって来てアレックスの腕を掴んだ。しかしアレックスは振り払い、
「既にセレスの降嫁に伴う一連の条約はこうして一方的に破棄された上、王国軍によるトラルテ河を越えた侵略行為が辺境伯から何十度も報告されている。先に条約はそちらが破棄した事に加え、この公の場で挑発を兼ねた侮辱をもした。
そもそもセレスは濡れ衣でこの4年の間、隣国にてこれほどまでに虐待されていたのに、兄上、貴方がその助けを求める声や辺境伯の訴えを黙殺させたのだな?
ハッ、それが『賠償』?
ましてや人の命よりも重大な我が皇国の国土の『割譲』?」
その威圧感に一瞬だけティボルトや王太子達が怯んでしまった、この千載一遇の『隙』をアレックスは外さなかった。この野心家の第二皇子アレックスは、この事態に絶句している『皇帝派』――第一皇子と第二皇子とどちらに付くべきかを今も決めかねている、病で余命間もない皇帝を取りあえずの盟主としている、皇国の派閥の中での最大の数を相手に訴えた。
「我が皇国の高貴な血を引く諸君!皇国で生まれ育ち、皇国を愛し、皇国のために尽くしてきた諸君!
その諸君に私は一つの話をしよう。
それは、とある古代の亡国の話だ。その亡国は異民族の侵略を受けて滅んだ。歴史書では、亡国の民は皆殺しにされたと記述がある。だが私は密かに調べた結果、この真実を知っている――歴史とは、現実とは、もっと私と諸君にとって耐えがたい事実が第一に起こるものなのだと!」
アレックスは息を呑む彼らを一望して、告げた。
「その亡国の民は揃って黒い目と亜麻色の髪の毛をしていた。父から亜麻色の髪の毛を、母から黒い目を受け継ぐ体質であったと記述されている。対して異民族は男も女もおしなべて青い目で、白色の髪の毛だったそうだ。
さて、この亡国の地を支配していた異民族が我らの父祖に討たれた時、その大半が黒い目に白い髪をしていたと歴史書には書かれている……」
何が起きたかを理解した令嬢や夫人達がわなわなと震えだした。泣き出す者もいた。その家族らしい男達は憤怒と悲壮が半々の、とても険しい顔をしていた。
「もう止めろ!!!!アレックス!!!!この場ですべき話ではないぞ!!!!!」
ティボルトは必死の大声を出したが、アレックスは止まらなかった。
一世一代の、大広間の何もかもが震えるような、腹の底からの凄まじい大声を張り上げた。
「諸君!!
私はここにいる諸君全てに聞く!!!!
皇国の諸君らは蹂躙と絶望の歴史の再現を望むや否や!!!!!!!!!!!!!?」
「否です」
水を打ったかのように静まりかえった大広間の片隅で、とても小さな声がした。
しかしそれが堤防に空いた蟻の穴となって――瀬戸際まで溜まっていた全てが奔流となって流れ出す。
「否だ」
「そうだ」
「否だ」
「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」「否!!!!」
「誰がそんな屈辱を望むか!」
「否だ!!!」
「否だ!!!!」「否だ!!!!」「否だ!!!!」「否よ!!!!」「否しかない!!!!」
「私達は奴隷じゃない!」
「栄えある皇国の由緒正しき貴族だ!」
「そうだ!!!!」
「断固として否だ!!!!!!!」
「第二皇子殿下万歳!」
「そうだ、皇国万歳!」
「アレックス殿下万歳!皇国万歳!」
アレックスはティボルトを少し見つめた。異母兄は言葉が出せないまま震えていた。
しばらく王太子オスカルは絶句していたが――我に返って、熱狂して湧き上がる貴族達に向かって喚くように怒鳴り散らした。
「7万の我が大軍を相手にして!もう一度そう言えるならば言ってみせるが良い!!!!
その勇気がある貴族など、ここに一人もいない癖に!」
湧き上がっていた貴族達は、途端に静まりかえるが……。
「います」
オスカルは目を剥いて声を上げたその男を見つめた。
何とも冴えない地味な、凡庸な青年である。しかもこの宴会の場に不釣り合いな、薄汚い格好をしている。
「誰だ!」
「ユージンです。ええとユージン・セブランです」
「お、お前!?どうして!?」
セブラン伯爵が素っ頓狂に叫んだ。するとちっとも気合いの入っていない声で、
「だって、『国中の貴族で都にいる者は全員、何があろうと出席するように』って……」
「王太子殿下、あの男が恐らく『綴じ蓋』です」
側近から耳打ちされた王太子は笑ってしまった。失笑だった。
「衆愚たる『国防軍』の無能な『綴じ蓋』に何が出来ると言うのだ?丁度良いだろう、貴様、私の部下と戦って見せろ!」
王太子から目で合図されて、隣国の騎士の中でも屈強極まりない一人が剣を抜いて進み出た。
けれどユージンは前に進み出ながら、いつもの調子で言うのだ。
「弱者を虐めると国防軍の恥さらしとして吊されるから嫌だ。せめて全員でかかって来て欲しい。それなら吊されずに済む」
おい……、おい……、と貴族達はお互いに顔を見合わせた。
この青年は大馬鹿か?それとも自殺したいのか?
ユージン本人は挑発ではなく、とても真面目に言ったつもりだったが、額に青筋が浮かんだのは王太子だけではない。王太子率いる騎士全員がそうだった。冷静な側近達でさえ明らかな苛立ちを顔に浮かべている。
「ハッ!では貴様が負けたら貴様から処刑してやろう!」
「ああ」ユージンは納得した顔をする。「何だ、これは宴会の『見世物』じゃ無かったのか。そうか、だったら問題ない」
そんな事を呟いている間に、ユージンは抜き身の剣を構えた騎士、それも10名以上に隙間無く囲まれた。
貴族達が少し離れて生唾を飲み込んで見守る中、ユージンはゆっくりと愛用の短剣を抜いた。
その二つの目が光った。
――ようやく騎士達が反応できたのは3人目が絶命した後である。が、彼らがすぐさまユージンに対処しようとした時には、倒れかけた4人目の骸を蹴ってユージンは宙を飛び、5人目を手にかけていた。
おかしい。騎士達は一気に脂汗が出た。ユージンの動きは、鈍い。とても緩やかで遅いように見えるのだ。なのに必死に剣を振っても全く当たらない。否、彼らには『どうしようもない』のだ。この男は、だって『人間の目』をしていない。戦争を戦い抜くために、敵意ある者を必ず殺すために、徹底して磨かれて研がれて完成した『怪物の目』をしている。きっと歴史書に記された古代の英雄や名将、高名な戦士もこのような目をしていたに違いない。が、彼らにはそれ以上の事は考えられなかった。
恐怖と断末魔が止まぬ絶叫となってこだました。瞬く間に最後の一人となった騎士はたまらず逃げようとした所を足をすくわれて、無様に床に這いずる。
「しまった、もう切れないな」
こんな時でも何処か間の抜けたやる気のない声だったのが、逆に涙が出るほど恐ろしくて、震えながら命乞いをしようとしたのに、
「後でしっかり研いでおくか」
背後から首に手が巻き付いて――鈍い音とともに、その騎士の人生は終わる。
到底、王太子は目の前で起きた事が現実とは思えなかった。
『綴じ蓋』と彼らが嘲っていた男は手傷一つ負ってさえいなかった。せめて息を荒げていれば良かったのに、血脂をぬぐった短剣を仕舞った後で大きなクシャミをした。
なのにだ、大広間の床に倒れる騎士達は悉くが血まみれで、その温かな血の臭いでむせ返るようだ。誰よりも先に我に返った側近の一人が、力で引きずってでも王太子をこの場から連れ出そうとした所為で、王太子は血で滑って転んでしまった。足が震えて腰が抜けて立てなかったのだ。その転ぶ有様で正気に戻った側近達も我先に助け起こそうとしたが、全員がそのまま血に滑って仲良く転倒する。
「次はどうすれば良いんだ?おい、『鍋』、教えろ」
『割れ鍋』と悪し様に言われていた女が背筋が震えるほどに艶麗な微笑を浮かべ、見とれるほどに優美な所作で『綴じ蓋』に寄り添って頬に触れる。まるでサクラの木の妖精が、己の木の元で昼寝している男を愛し、その頬に手を伸べて陶然と愛おしむかのようだった。
「愛しの旦那様。それが、辺境伯様がお怒りのようなのです。『それでも国防軍の兵士か』と」
「ああ、確かに良くなかった。こんなに弱いのに数だけ多いなんて予測出来なかったのは。ここに俺の部下がいたら(俺一人だけの時よりは)もっと早く出来たんだが。
ご下命を聞きに行くぞ」
「はい」
二人は自然と割れた人集りの道を通って、車椅子の辺境伯とそれを押している夫人の元に付くと、共に頭を下げた。
夫人はもつれた舌の辺境伯の口元にしばし耳を寄せていたが、軽く頷くと、顔を上げてはっきりと『割れ鍋』ユージンにこう告げた。
「辺境伯様はこのように仰せですわ――『何をしている愚か者。総大将を先に仕留めろ』と」
弾かれたように、全ての衆目が血まみれで藻掻いている王太子達を一斉に捉えた。
その中からユージンの目が一際どう猛に輝いたので、王太子が引きつった悲鳴を上げた。
そこに待ったをかけたのはアレックスである。
彼は、まずこの『見世物』に盛大な拍手を送った。続いてジュリア、バルドー公爵、側近達……やがて『皇帝派』の貴族までそれに倣って地を揺るがすような喝采と拍手をしたのだ。
さっとアレックスがその右手を高く掲げると、拍手喝采はぴたりと止む。
「辺境伯よ、彼を止めさせるのだ。公的な宴の場で隣国の王太子を殺害してはこの皇国の国際信用に関わる」
辺境伯ヘンリーは、震える左手を苦労して上げる。ユージンは従った。
「さて」
威風堂々とアレックスはジュリアと共に転んでいる王太子達の前に進み出た。側近や騎士達をずらりと率いて。
宴会前にアレックスの元からわざと密使を2人だけしか派遣しなかったのは、残りの大勢で急ぎやるべき事があったからだ。
バルドー公爵家以下にも暗躍してもらって、ようやく整ったのである。
「オスカル殿下、『見世物』の観劇にもお疲れのようだな。御休息も必要だろう、こちらに『特別室』を用意してある。落ち着くまで『ゆるりとお休みになる』とよろしい」
ティボルト達は止めさせようとしたが、『皇帝派』の貴族達がアレックスにすり寄るには今しか無いと我先に押し寄せたため、失敗に終わった。
……王太子オスカルが隣国にやっとの思いで帰れたのは、その日から半年以上はゆうに過ぎた、秋も終わり頃の事である。
彼らが軟禁されている間――秋口には、辺境伯領に3万の援軍が到着していただけでなく、合計4万強の大軍を余裕綽々で1年は持たせられる程の兵站が揃っていた。
とは言え、隣国も勢力の衰えた王太子派とは逆に、勢力を強めた王弟派と第二王子派で分裂して紛糾しつつも、依然としてトラルテ河を越えた侵略行為をする構えを見せていた。7万もの大軍を集めてしまった以上、戦を仕掛けないと言う事は出来ないのである。秋も終わったのでもはやダイヤン平野一帯にぬかるみもなく、トラルテ河も渡りやすくなった事も彼らには味方していた。更に収穫が終わったため、7万の大軍を維持する兵糧も継ぎ足されている。
秋の収穫も終わったため、周辺の町村の民は、新たな辺境伯となったウィリアムの治める城塞都市に避難していた。そのためクレーティアも城塞都市の中にいる。
脅すようにユージンはああ言ったものの、実際は文字の読み書きが出来て、頭も良い彼女はとても重宝がられて、城塞都市の方で事務処理を任されていた。
「旦那様、こちらが周辺町村より移送した食料と分配についてまとめた書類。避難民の仮住居振り分けについて。彼らからの要望の中で優先順位が高いものを選んで表に。それとこちらは商人から聞き出した隣国の情勢の速報です」
朝、大量に渡した仕事を見事にまとめ上げ、その報告として渡された書類をめくって、ぼそりとユージンは呟いた。
「『鍋』、お前が味方じゃなければ、俺は殺さなきゃいけなかった」
彼女は敏感にユージンの態度から悟った。
「ダイヤン平野……」
「商人からも仮設橋の話が上がった。後は斥候や間諜の報告を聞いた司令官がどう判断されるかだ。黒い狼煙が見える前には出なきゃならんが」
黒い狼煙は、本格的な隣国の一斉侵攻が確認出来た場合に、トラルテ河沿いに点在する『国防軍』の管理する見張り塔から上げられる手はずになっている。
「……」クレーティアはぎゅっと目を閉じる。「私が、彼らの心に『火種』を落としましょう」
「案の定『乙女』だったんだな、鍋は」ユージンはクレーティアの顔を軍用手袋越しに撫でた。「どうも奇妙だと思っていたんだ。いくら戦に勝てるからって、王太子が敵国のど真ん中でその敵国の姫の処刑を考えるなんて、『普通』ならあり得ないだろう」
恐る恐るクレーティアは目を開けて、不思議そうにユージンの顔を見上げた。
「『案の定』……?」
ユージンは、彼に出来る精一杯に優しい顔をしていた。そうすると、ふにゃっとした印象になった。
「俺には分かるんだ。話を聞く限り、俺の母親も『乙女』だったらしい。多分、その所為だろう。母親は『己の残りの命の代わりに狙った男を我が物とした』ようだ。
俺はそんなのより愛が欲しかった。でも鍋が俺にその分も愛をくれた」
今までの男であれば既に満たされていたが、『母の愛』にずっと飢えていたユージンにとっては、クレーティアの狂気的な愛とその態度が本当に嬉しかったのだ。
「そう、でしたの……」
「戦が終わったら二度と力を使うな。鍋だってどうせろくでもない代償だろう」
「旦那様を愛し、愛して下さるように望む事の歯止めが、これまでのように消えるだけですから」
「そうか。それは俺は嫌だ。俺はただ鍋に愛されるだけじゃ嫌だ。俺だって鍋を愛している。もっと鍋は沢山のものを沢山のその愛で愛せばいいんだ。俺だけじゃ人生つまんないだろう。家族だったり、犬のジョンだったり、馬のブルートだったり、綺麗なものや面白いものや楽しいものを全部全部まとめて愛せばいい。きっとその方が何かと楽しいぞ」
「それが出来たら……!誰も傷つけずに済みました」
ぽろりとクレーティアの目から涙がこぼれた。
「じゃあ俺の子を産め。子と言うのは無償の愛を注いでくれるものを死ぬまで愛する。鍋が俺を愛する以上に、俺が鍋を愛する以上にだ。
色んな愛で『鍋』がごとごと煮えて溢れかえったら、きっと割れている事なんてどうでも良くなるさ」
ようやくクレーティアは笑った。
泣きながらも笑って、頬を撫でるユージンの手をそっと白い両手で包んだ。
「私達はそうやって生きていかねばならないのですね」
「死ぬまでな」




