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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第五章 最後の願い

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なかったことにした夏

 次の朝、十時を過ぎて、スマホが鳴った。


『起きた?』


 それだけだった。


 昨日の午後、私はこの人を神社の暗がりへ引っぱっていって、あなたは何度も死んだ、と言った。紐を外して、と泣きそうな声で頼んだ。


 この人は疲れてる? と訊いて、私の頭に手を置いて、家まで送ってくれた。


 そして今朝、起きた? と訊いてきた。


 昨日のことには、一文字も触れていなかった。


 


『起きた。昨日、ごめんね』


 打って、消した。


 ごめんね、と書けば、昨日のことが本当になる。書かなければ、なかったことになる。


『起きた』


 結局それだけ送った。


 既読がついて、すぐに返事が来た。


『えらい。図書館、午後から行く?』


 


 夏休みの市立図書館の、二階の窓際。一度目の夏も、二度目の夏も、ここで向かい合って座った。


 今度は裕太がときどき、私を見ていた。


 問題集から顔を上げて、何でもないふりをして、でも、確かめるように。


 顔色を。目の下の隈を。ページをめくる指を。


 私は気づかないふりをした。


 単語帳の同じページを、三回、めくり直した。


 


 前は黙っていても平気だった。


 今は二人のあいだに、縁までなみなみと水を張ったコップが一つ、置いてあった。どちらかが少しでも机を揺らしたら、こぼれてしまう。


 だから、どちらも、揺らさなかった。


 


 帰り際、閲覧室を出たところで、私は言った。


「……今里くん、明日も、ここでいい?」


 鞄を持ち直していた裕太の手が、止まった。


「……え、戻んの?」


「……え」


「昨日、名前で呼んだじゃん」


 裕太は廊下の掲示板のほうを見ながら、言った。


「あれ、よかったのに」


 


 顔が熱くなった。


 昨日のことに、この人が触れたのは、それが初めてだった。


 それも、よりによって、そこだった。


 あの暗がりのことでも、立て札のことでも、灰色の絵馬のことでもなく。


 私がこの人の名前を呼んだこと。


「……裕太」


 小さな声で、言い直した。


「……うん」


 裕太は掲示板を見たまま、頷いた。


 それから階段を下りながら、ほんの少しだけ、鼻歌を歌った。調子の外れた、何の曲かわからない鼻歌だった。


 


 八月の半ば、図書館からの帰り道だった。


 交差点で、裕太はまっすぐ歩いた。


 あの日から、この人は一度も右へ曲がっていなかった。


 「こっちのが近い」と言って、近くない道を選ぶ人だったのに。


 


「……神社のほう、行かないね」


 言ってから、しまった、と思った。


 裕太は少し歩いてから、答えた。


「……なんとなく」


 駅前の信号が、赤に変わった。二人で並んで、止まった。


「あの日の渚沙の顔が、さ」


 裕太は信号を見上げたまま、言った。


「忘れらんないんだよな」


 


 私は何も言えなかった。


「信じたわけじゃない。……ごめん。信じては、ない」


「……うん」


「でも、渚沙があんな顔するくらいのことが、渚沙の中にはあるんだろ。それは、わかる」


 信号が青になった。


 裕太は歩き出さなかった。


「だから、言いたくなったら、また言って。信じるかどうかは、そのとき考えるから」


 


 私は首を振った。


「……もう、言わない」


 裕太がこちらを見た。


「……言わなくても、平気になったから」


 嘘だった。


 言う相手を、待つことにしただけだった。


 この人ではなく、全部を覚えている、二年後のこの人に。


 裕太は私の顔を見ていた。


 それから「そっか」と言って、歩き出した。


 青信号が点滅し始めていた。二人で小走りに渡った。


 


 なかったことにしたのは、私だった。


 なかったことにさせてくれたのは、この人だった。


 信じないまま。訊かないまま。それでも、あの日の私の顔を、忘れないまま。


 


 九月の終わりに来た指定校推薦の話は、その場で断った。裕太には言わなかった。


 


 冬が来て、共通テストが来て、春が来た。


 同じ国立大学の、違う学部に、二人とも受かった。


 合格発表の画面の前で、裕太は両手で顔を覆った。


「……っしゃ」


 くぐもった声だった。


 三度目の、同じ声だった。


 


 卒業式は三月の半ばだった。


 朝から、曇っていた。


 校門の前で、「卒業」の看板の横に立った裕太に、スマホを向けた。


 ひどく緊張した顔をしていた。


 撮るたびに、裕太の顔はおかしくなっていった。亜美が後ろで声を出して笑っていた。


 


 撮れば、あの一枚がこの世界にもできる。


 二度目の私は、そう思って、画面の上で指を止めた。


 今の私は止めなかった。


 あの一枚が、あの人を黒い額に入れたのではない。


 撮っても、撮らなくても、五月は来る。


 だから、撮る。


 この人が自分の顔を気に入って、見せて、と言う一枚を。


 額のためではなく、この人のために。


 


「なあ、何枚撮んの」


「……ちゃんと笑うまで」


「ひでえ」


 裕太は笑った。


 首の後ろに手をやって、眉を下げて、照れくさそうに。


 押した。


 


「あ、今の、ずるい」


「……撮れた」


「見せて」


 裕太が私の手元を覗き込んだ。


「……これ、いいじゃん。俺、こんな顔してんだ」


「……いつも、してるよ」


「渚沙といるとき?」


「……うん」


「……それ、あとで送って」


 


 あとで、ではなく、その場で送った。


 二度目の私は、送信のボタンを押すまでに、一時間かかった。


 今の私は裕太のポケットの中で、スマホが短く震えるのを聞いていた。


「はや」


 裕太が笑いながら、画面を確かめた。


 確かめて、長いこと、見ていた。


 この人はこの一枚を、これから何度も見る。


 見るたびに、今日の校門の前を、思い出せばいい。


 それだけの一枚に、なればいい。

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