なかったことにした夏
次の朝、十時を過ぎて、スマホが鳴った。
『起きた?』
それだけだった。
昨日の午後、私はこの人を神社の暗がりへ引っぱっていって、あなたは何度も死んだ、と言った。紐を外して、と泣きそうな声で頼んだ。
この人は疲れてる? と訊いて、私の頭に手を置いて、家まで送ってくれた。
そして今朝、起きた? と訊いてきた。
昨日のことには、一文字も触れていなかった。
『起きた。昨日、ごめんね』
打って、消した。
ごめんね、と書けば、昨日のことが本当になる。書かなければ、なかったことになる。
『起きた』
結局それだけ送った。
既読がついて、すぐに返事が来た。
『えらい。図書館、午後から行く?』
夏休みの市立図書館の、二階の窓際。一度目の夏も、二度目の夏も、ここで向かい合って座った。
今度は裕太がときどき、私を見ていた。
問題集から顔を上げて、何でもないふりをして、でも、確かめるように。
顔色を。目の下の隈を。ページをめくる指を。
私は気づかないふりをした。
単語帳の同じページを、三回、めくり直した。
前は黙っていても平気だった。
今は二人のあいだに、縁までなみなみと水を張ったコップが一つ、置いてあった。どちらかが少しでも机を揺らしたら、こぼれてしまう。
だから、どちらも、揺らさなかった。
帰り際、閲覧室を出たところで、私は言った。
「……今里くん、明日も、ここでいい?」
鞄を持ち直していた裕太の手が、止まった。
「……え、戻んの?」
「……え」
「昨日、名前で呼んだじゃん」
裕太は廊下の掲示板のほうを見ながら、言った。
「あれ、よかったのに」
顔が熱くなった。
昨日のことに、この人が触れたのは、それが初めてだった。
それも、よりによって、そこだった。
あの暗がりのことでも、立て札のことでも、灰色の絵馬のことでもなく。
私がこの人の名前を呼んだこと。
「……裕太」
小さな声で、言い直した。
「……うん」
裕太は掲示板を見たまま、頷いた。
それから階段を下りながら、ほんの少しだけ、鼻歌を歌った。調子の外れた、何の曲かわからない鼻歌だった。
八月の半ば、図書館からの帰り道だった。
交差点で、裕太はまっすぐ歩いた。
あの日から、この人は一度も右へ曲がっていなかった。
「こっちのが近い」と言って、近くない道を選ぶ人だったのに。
「……神社のほう、行かないね」
言ってから、しまった、と思った。
裕太は少し歩いてから、答えた。
「……なんとなく」
駅前の信号が、赤に変わった。二人で並んで、止まった。
「あの日の渚沙の顔が、さ」
裕太は信号を見上げたまま、言った。
「忘れらんないんだよな」
私は何も言えなかった。
「信じたわけじゃない。……ごめん。信じては、ない」
「……うん」
「でも、渚沙があんな顔するくらいのことが、渚沙の中にはあるんだろ。それは、わかる」
信号が青になった。
裕太は歩き出さなかった。
「だから、言いたくなったら、また言って。信じるかどうかは、そのとき考えるから」
私は首を振った。
「……もう、言わない」
裕太がこちらを見た。
「……言わなくても、平気になったから」
嘘だった。
言う相手を、待つことにしただけだった。
この人ではなく、全部を覚えている、二年後のこの人に。
裕太は私の顔を見ていた。
それから「そっか」と言って、歩き出した。
青信号が点滅し始めていた。二人で小走りに渡った。
なかったことにしたのは、私だった。
なかったことにさせてくれたのは、この人だった。
信じないまま。訊かないまま。それでも、あの日の私の顔を、忘れないまま。
九月の終わりに来た指定校推薦の話は、その場で断った。裕太には言わなかった。
冬が来て、共通テストが来て、春が来た。
同じ国立大学の、違う学部に、二人とも受かった。
合格発表の画面の前で、裕太は両手で顔を覆った。
「……っしゃ」
くぐもった声だった。
三度目の、同じ声だった。
卒業式は三月の半ばだった。
朝から、曇っていた。
校門の前で、「卒業」の看板の横に立った裕太に、スマホを向けた。
ひどく緊張した顔をしていた。
撮るたびに、裕太の顔はおかしくなっていった。亜美が後ろで声を出して笑っていた。
撮れば、あの一枚がこの世界にもできる。
二度目の私は、そう思って、画面の上で指を止めた。
今の私は止めなかった。
あの一枚が、あの人を黒い額に入れたのではない。
撮っても、撮らなくても、五月は来る。
だから、撮る。
この人が自分の顔を気に入って、見せて、と言う一枚を。
額のためではなく、この人のために。
「なあ、何枚撮んの」
「……ちゃんと笑うまで」
「ひでえ」
裕太は笑った。
首の後ろに手をやって、眉を下げて、照れくさそうに。
押した。
「あ、今の、ずるい」
「……撮れた」
「見せて」
裕太が私の手元を覗き込んだ。
「……これ、いいじゃん。俺、こんな顔してんだ」
「……いつも、してるよ」
「渚沙といるとき?」
「……うん」
「……それ、あとで送って」
あとで、ではなく、その場で送った。
二度目の私は、送信のボタンを押すまでに、一時間かかった。
今の私は裕太のポケットの中で、スマホが短く震えるのを聞いていた。
「はや」
裕太が笑いながら、画面を確かめた。
確かめて、長いこと、見ていた。
この人はこの一枚を、これから何度も見る。
見るたびに、今日の校門の前を、思い出せばいい。
それだけの一枚に、なればいい。




