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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第五章 最後の願い

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外せない

 立て札の前に立った。


 灰色に褪せた板。墨で書かれた文字。ところどころ、かすれていた。


 この社は、古くより——


 縁を結ぶ神を祀る。


 人の願いを聞き届け、その縁を結び、守る。


 願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり——


 あの夜、ここから先は、字の輪郭が溶けていた。光を近づけても、遠ざけても、読めるのは、ところどころの一文字だけだった。代。日。命。それから、一番下の、覚。


 私は、その続きに目を落とした。


 今度は、目が滑らなかった。


 あの夜の私は、あの灰色の一枚を知らなかった。今朝の私は、知っていた。違うのは、それだけだった。


 


 願いを掛けし者は、その願いの続くかぎり、縁を結ばれ、守られる。


 ただし、縁は、代なくして結ばれず。


 定めの日来たらば、縁の内より、代を召す。


 代は、命ひとつ。


 


 読めた。


 読めてしまった。


 一文字ずつ、指でなぞるように、目で追った。墨はかすれていたのに、字は、一つも溶けなかった。


 縁の内より、代を召す。


 代は、命ひとつ。


 


 定めの日。


 五月七日。


 あの人が、全部を思い出す日。


 一度目も、二度目も、あの日のあとで、あの人が、いなくなった。三度目は、私が。


 縁の内より。


 縁を結んだ、二人のうちの、どちらかから。


 


 膝が、また、崩れそうになった。


 立て札の縁に、手をついた。


 次の行が、目の前にあった。


 


 願いに背きし者は、守りを離る。


 


 背く。


 一度目も、二度目も、私から離れていったのは、あの人だった。三度目は、私が、あの人から離れた。


 離れたほうが、守りを外れる。


 外れたほうが、召される。


 


 最後の三行が、残っていた。


 


 願いは、返すこともできる。


 掛けし者、その手にて、心より手放すとき。


 返されし願いは、重ねし日々の覚えを、掛けし者より連れて去る。


 


 返すことも、できる。


 私は、その行を、何度も読んだ。


 返せる。


 掛けた者が、自分の手で。心から、手放せば。


 あの夜、一番下に一文字だけ読めた、覚。


 そのかわり、重ねた日々の覚えを、持っていかれる。


 あの人が、何度も戻ってきた日々を。


 


 でも、今のあの人は、まだ何も思い出していない。


 持っていかれる覚えを、まだ、持っていない。


 今なら。


 


 立て札から、手を離した。


 振り返った。


 絵馬掛けの一番奥。灰色の一枚。


 あれを、あの人が外せば。


 


 昼過ぎに裕太にメッセージを送った。


『今日、会える?』


『神社で』


 既読はすぐについた。


『いいけど。昨日も行ったじゃん』


『来てほしい』


 少しして、返事が来た。


『わかった。三時』


 


 三時少し前に裕太が鳥居をくぐってきた。


 Tシャツにハーフパンツで、眠そうな顔をしていた。


「おはよ。……いや、もう昼か」


 私の顔を見て、首を傾げた。


「……どした。顔、真っ白だけど」


「……こっち」


 私は裕太の手を取って、本殿の脇の暗がりへ歩いた。


 裕太は何も言わずについてきた。


 ついてきながら、少しだけ足取りが重くなった。


 


 絵馬掛けの前で、立ち止まった。


 今朝寄せた絵馬を、もう一度脇に寄せた。


 一番奥の灰色の一枚が、現れた。


「……見て」


 裕太は覗き込んだ。


 眉を寄せた。


「……渚沙とずっと一緒にいたい」


 読み上げて、それから目を丸くした。


「え、なにこれ。……誰が書いたの」


「……あなたの字」


「は?」


 裕太はもう一度覗き込んだ。


 眉間の皺が深くなった。


「……いや、似てるけど。俺、こんなの書いてないし。昨日だって、渚沙とずっと一緒にいただろ」


 


 私は息を吸った。


 全部、話すと決めていた。


 今朝、灰色の絵馬の前でしゃがみ込んだときから。


 何も知らないこの人に、全部を。


 


「……裕太」


 


 呼んだ。


 裕太が動きを止めた。


「……今、名前で呼んだ?」


「……うん」


 今までに声に出した「裕太」は、どれも、零れたか、叫んだか、縋ったかだった。


 選んで、呼んだのは初めてだった。


 この人に全部を話すために。


「……聞いて」


 


 私は話した。


 高三の四月の教室で、何度も目を覚ましたこと。


 一度目の周で、あなたは大学二年の五月に、バイクの事故で死んだこと。


 二度目の周で、あなたは海の町の民宿に住み込んで、トラックとぶつかったこと。


 三度目の周で、私が刺されて死んだこと。死ぬ前に、あなたが何度も過去に戻っている、と言ったこと。


 この神社の立て札に、願いには代が要る、と書いてあること。代は命ひとつ、と書いてあること。


 そして、願いは、返すこともできる、と書いてあること。掛けた人が、心から手放せば。


 話しながら、裕太の手を引いて、立て札の前に立たせた。


 裕太は私の指さす行を、目で追った。


「……縁の内より、代を召す」


 小さな声で読み上げた。


「……代は、命ひとつ。……願いは、返すこともできる。……心より、手放すとき」


 それから首を傾げた。


「……古い言い回しで、よくわかんないけど」


 裕太の目は一度も滑らなかった。


 それなのに、この人の顔には、何も浮かばなかった。


 私は裕太の手を引いて、絵馬掛けの前に戻った。


「……だから、外して」


 声が震えた。


「この絵馬、外して。お願い」


 


 裕太は長いあいだ、口を開かなかった。


 私の顔を見ていた。


 境内の楠の上で、蝉の声が急に大きくなった。


 それからゆっくりと、絵馬のほうに目をやった。


「……渚沙」


「……うん」


「疲れてる?」


 


 優しい声だった。


 心配している声だった。


 信じていない声だった。


「……本当なの」


「うん。わかった」


 わかった、と言ったこの人は、何もわかっていなかった。


 当たり前だった。


 昨日の夜、花火の下で好きだと言って、好きだと言われたばかりの人に、あなたは何度も死んだ、と言われて。


 信じられるはずがなかった。


「……外して」


 もう一度言った。


「……信じなくていいから。外して。それだけで、いいから」


 


 裕太は絵馬掛けに手を伸ばした。


「……まあ、いたずらだったら、外しちゃってもいいよな。俺の字に似てんの、なんか気持ち悪いし」


 灰色の絵馬の紐に、指をかけた。


 引いた。


 


 紐は動かなかった。


 


 裕太の指は紐にかかったまま、止まっていた。


 力を込めているのか、込めていないのか、わからなかった。


 紐がほどけないのか、指が動かないのか、わからなかった。


 裕太は自分の手を見ていた。


「……あれ」


 もう一度引いた。


 動かなかった。


 色の褪せた、毛羽立った紐が、何年も前からそうであったように、そこに掛かっていた。


 


「……固っ。結び目、固まってんのかな」


 裕太は手を離した。


 指先を見て、首を傾げて、それから私のほうを見た。


「ごめん、無理っぽい。……なんか、変な感じ。指に、力入んなかった」


 


 私は灰色の絵馬を見ていた。


 掛けし者、その手にて、心より手放すとき。


 心より。


 昨日の夜、花火の下で好きだと言ったばかりの人だった。


 その人に、ずっと一緒にいたい、を手放せと言っても、手放せるはずがなかった。この人の指が止まったのは、この人があの絵馬の言葉を、今も本気で思っているからだった。


 信じていない人には、手放す理由がない。


 この願いが何をしてきたのかを知っている人にしか、これは手放せないのだ。


 


 あの人が全部を思い出すのは。


 五月七日。


 大学二年の五月七日の朝。


 


「……渚沙?」


 裕太が私の顔を覗き込んだ。


 私は首を振った。


「……ううん。ごめん。変なこと、言った」


「いや、いいけど」


 裕太は私の頭にぽんと手を置いた。


「昨日、寝てないだろ。……帰ろ。送るから」


 


 鳥居をくぐって、坂を下りた。


 裕太の手は温かかった。


 何も知らない人の手だった。


 あの紐を外せなかった手だった。


 


 待たなければいけないのだと思った。


 あと、二年近く。


 この人が全部を思い出す朝まで。


 そのとき隣にいて、知ってる、と言う。


 それからあの絵馬の前に、この人を連れてくる。


 


 角を三つ曲がって、家の前に着いた。


 裕太は手を振って帰っていった。


 角を曲がる前に、一度だけ、振り返った。


 何か言いたそうな顔をして、何も言わずに、角の向こうへ消えた。


 


 私の頭に置かれた手の重さが、角を曲がって見えなくなってからも、髪に残っていた。

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