↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/64

撮られる側

 五月七日は、何事もなく過ぎた。


 大学一年の五月七日。あの日が来るのは、一年後だった。


 それでも朝、目が覚めた瞬間に、カレンダーを見た。体が勝手にそうした。


 スマホには、何も来ていなかった。


 来るはずがなかった。あの人の連絡先は、この世界の私のスマホには、最初から入っていなかった。


 


 写真のサークルには、毎週通った。


 部室は、古い学生会館の三階の、窓の小さな部屋だった。棚にカメラがいくつも並んでいて、壁には部員が撮った写真が、隙間なく貼られていた。


 窓の外の中庭から、軽音サークルの練習の音が、途切れ途切れに上がってきた。部屋の隅の暗室からは、現像液の酸っぱい匂いが、かすかに漏れていた。


 相良さんはいつもそこにいた。


「山吹さん、今日はこれ使って」


 部室のカメラを貸してくれて、使い方を教えてくれた。露出、絞り、シャッタースピード。私が設定を迷っていると、横から手を伸ばして、ダイヤルを回してくれた。


「ほら、これで撮ってみて」


 ファインダーを覗くと、世界が、四角く切り取られていた。


 その枠の中にいるものだけを見ていればよかった。


 


 六月、サークルで、近くの公園に撮影に行った。


 紫陽花が、斜面いっぱいに咲いていた。前の晩の雨で、土の道がぬかるんでいて、スニーカーの先が、すぐに黒く濡れた。


 私はしゃがみ込んで、雨上がりの花びらに残った水滴を撮った。


「上手いじゃん」


 背中から、相良さんの声がした。


 振り返ると、相良さんが私にカメラを向けていた。


 シャッターの音がした。


「……え」


「ごめん、勝手に。……いい顔してたから」


 相良さんはカメラの液晶を私に見せた。


 紫陽花の前で、振り返りかけた私が写っていた。


 笑っていなかった。


 驚いたような、少し怯えたような顔だった。


「……変な顔」


「そんなことないって。……山吹さん、撮られるの苦手?」


 


 苦手だった。


 撮る側でいたかった。


 レンズの向こうにいる誰かを、何枚も撮り直して、最後の一枚だけがちゃんと笑っている、というのを、見ている側で。


「……はい」


「そっか。じゃあ、慣れるまで、俺が撮るよ」


 相良さんはまた、シャッターを切った。


 今度は、私は顔を背けていた。


 相良さんは液晶を見て、満足そうに笑った。


「これもいい」


 


 七月の終わりに、相良さんに、好きだと言われた。


 サークルの飲み会の帰り、駅までの道を二人で歩いていたときだった。


「山吹さんのこと、ずっといいなって思ってた。……付き合ってくれない?」


 街灯の下で、相良さんは立ち止まった。


 まっすぐ、私を見ていた。


 私は答えを探した。


 探しているあいだに、相良さんが言った。


「すぐ答えなくていいよ。……でも、たぶん、山吹さんも、嫌じゃないでしょ」


 


 嫌じゃなかった。


 相良さんは、優しかった。言葉が遅れる私を、いつも助けてくれた。困ったときには、先に答えを出してくれた。私を見ていてくれた。


 好きかどうかは、わからなかった。


 わからないまま、頭のどこかで、別のことを考えていた。


 七月の最後の土曜日。


 今夜は、坂の上の神社の、夏祭りの日だった。


 あの人は今年も、あの石段に座っているのだろうか。


 誰かの袖を、見ているのだろうか。


「……はい」


 私は、言った。


 声が、自分のものではないみたいだった。


 相良さんは目を細めて、私の頭に手を置いた。


「よかった」


 


 アパートに帰って、ベッドに座った。


 スマホが震えた。亜美からだった。


 高三の夏から、亜美とはほとんど連絡を取っていなかった。それでも亜美は、月に一度くらい、短いメッセージを送ってきた。私はそのたびに、短く返していた。


『今日、神社のお祭りだったよ』


『朔と、朔の彼女と、あと今里と行った』


『今里、なんか、ずっと上の空だった』


『渚沙、元気?』


 


 私はその四行を、しばらく見ていた。


 今里、なんか、ずっと上の空だった。


 指が、画面の上で止まっていた。


 何を打てばいいのか、わからなかった。


『元気だよ。彼氏できた』


 打って、送った。


 送ってから、なぜそれを書いたのか、わからなくなった。


 既読が、すぐについた。


 少し間があって、返事が来た。


『え、まじで! おめでと!』


『今度、写真見せて』


 私はスマホを伏せた。


 


 秋になった。


 相良さんはよく、私を撮った。


 大学の中庭で。駅のホームで。アパートの近くの商店街で。私が気づかないうちに、シャッターを切っていた。


「山吹さんって、撮られてるの気づいてないときが、一番いい顔してる」


 相良さんはそう言って笑った。


 私は自分が写った写真を、ほとんど見なかった。


 講義室の窓の外で、欅が、少しずつ色を変えていった。床は、相変わらずきしんでいた。窓際の席に座ると、乾いた葉がガラスに当たって、落ちていく音がした。


 


 冬が来て、春休みになった。


 アパートの部屋は、窓の隙間から風が入った。電気ストーブの前で、膝を抱えて、本を読んだ。


 実家には、帰らなかった。


 父とは、推薦のことで言い合いをしてから、あまり話していなかった。母からは、ときどき野菜や缶詰の入った段ボールが届いた。一番上に、短い手紙が入っていた。


 元気にしてる? ちゃんと食べてる?


 私は手紙を読んで、段ボールを押し入れにしまった。


 


 四月。私は二年生になった。


 相良さんは四年生になって、就職活動を始めた。サークルには、あまり顔を出さなくなった。


 代わりに夜、電話がかかってくるようになった。


「今日、何してた?」


「……講義と、バイト」


「誰と?」


「……一人で」


「そっか。ならいいけど」


 ならいいけど、の意味を、私は深く考えなかった。


 


 連休が終わった。


 五月七日の朝、目が覚めた。


 カレンダーを見た。


 水曜日。


 布団の中で、足の指が、縮こまった。


 あの人は今朝、どんな顔で目を覚ましたのだろう。


 地元の駅の、あのホームで。隣の県の国立大学へ向かう、七時四十分の電車を待ちながら。


 その隣に、今年は誰も立っていない。


 私はスマホを手に取った。


 あの人の連絡先は、どこにもなかった。


 


 その日の夜、相良さんから、電話がかかってきた。


「今日さ、四限のあと、誰と話してた?」


 声が、いつもより低かった。


「……え」


「中庭で。男と話してたでしょ。見えたんだよ、通りかかったとき」


 ゼミの男の子に、プリントを渡しただけだった。


「……プリントを」


「ふうん」


 電話の向こうで、相良さんが長く息を吐いた。


「まあ、いいけど。……山吹さんさ、自分が可愛いって自覚、ないよね」


 


 褒められているのだと思った。


 思おうとした。


 電話を切ったあと、窓の外で、知らない電車が走っていく音がした。


 この部屋で、息が楽だと思ったのは、いつまでだっただろう。


 思い出せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。