↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第四章 君のいない世界

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/60

知らない街

 大学の正門をくぐると、桜はもうほとんど葉桜になっていた。散った花びらが、アスファルトの溝に薄く溜まって、人に踏まれて茶色くなっていた。


 門の脇には、サークルの勧誘の机が、どこまでも並んでいた。


 テニス、軽音、写真、映画、落語、登山。色とりどりの看板と、声を張り上げる上級生たち。チラシを差し出す手が、四方八方から伸びてきた。


 私は一枚ずつ受け取りながら、人の波に押されて歩いた。


 誰も、私を知らなかった。


 


 一人暮らしの部屋は、大学から電車で二駅の古いアパートの二階だった。


 六畳の部屋に、ベッドと、小さな机と、実家から送った段ボールが三つ。窓を開けると、隣の家の壁と、細く切り取られた空が見えた。


 台所は、玄関を入ってすぐの、コンロが一口だけの流しだった。蛇口をひねると、最初の少しだけ鉄の匂いのする水が出た。床のフローリングは、ところどころ色が褪せていて、前に住んでいた人の家具の跡が四角く残っていた。


 最初の夜、ベッドに寝転んで、天井を見ていた。


 知らない天井だった。


 この部屋には、何もなかった。あの人と歩いた道も、あの人と座った石段も、あの人の声が残っている教室も。


 窓の外で、知らない電車が、知らない駅へ走っていく音がした。


 


 息が、楽だった。


 初めて、そう思った。


 実家から通えない距離ではなかった。一時間半、電車に揺られれば着く。それでもこの部屋を選んだ。あの町から、あの駅から、あの坂から、毎晩、ちゃんと離れていられる場所を。


 高三の一年間、私はずっと息を止めていた気がする。廊下側の前から三番目の席で、背中の遠くの笑い声を聞かないようにして。交差点で左に曲がって。夏祭りの花火を、屋根のあいだから見て。


 ここには、それがなかった。


 息を吸っても、あの人の気配がしなかった。


 息を吐いても、誰も、それを聞いていなかった。


 


 次の日から、大学に通った。


 講義は面白かった。文学部の教室は、古い木の床がきしんで、窓の外に大きな欅が立っていた。


 朝の講義室は、まだ少し寒かった。後ろのほうの席に座ると、遅れて入ってくる学生の足音が、床板のきしみで、一つずつわかった。欅の若い葉が、窓ガラスに、薄い緑の影を落としていた。


 一年生向けの概論の授業で、教授が明治の小説家の手紙を読み上げた。好きな人に宛てた手紙で、肝心なことは何一つ書かれていなかった。


「書かれていないことのほうが、ずっと多くを語っていますね」


 教授はそう言って、眼鏡を押し上げた。


 私はノートを取りながら、ほんの少し笑った。


 言葉にしてないとこのほうが、ちゃんと聞こえてそう。


 あの人の声が一瞬だけ、耳の奥で鳴った。


 私はシャーペンを握り直した。


 


 昼は、学食で食べた。


 大きな学食だった。隣の県の国立大学の学食の、倍くらいの広さがあった。窓際の端の席は、いつも埋まっていた。


 券売機の前で、指が止まった。


 カレーのボタンが、一番上の段の、左の端にあった。


 押さなかった。


 隣の、日替わり定食のボタンを押した。


 日替わりは白身魚のフライだった。衣が少し湿っていた。


 トレーを持って、真ん中のあたりの空いている席に座った。トレーを置く音と、椅子を引く音と、食器の触れ合う音が、高い天井に溜まっていた。周りでは、知らない人たちが、知らない話をして笑っていた。


 大きな声で笑う人がいた。隣の人の肩を叩いて、手を叩いて。


 私はその人の顔を見なかった。


 知らない人だとわかっていても、見なかった。


 


 帰りの電車は、夕方になると混んだ。吊り革につかまって、二駅ぶん、知らない人たちの肩のあいだに立っていた。誰かのイヤホンから、小さく音楽が漏れていた。


 アパートに帰ると、まず窓を開けた。隣の家の壁に夕日が当たって、そこだけ橙色に光っていた。


 駅前のスーパーで買ったお惣菜を、机の上で、一人で食べた。テレビは、なかった。冷蔵庫の低い唸りだけが、部屋の中で鳴っていた。


 


 四月の終わりに、写真のサークルの新歓に行った。


 勧誘の机で、背の高い男の人が、チラシを渡してくれた。三年生だと言った。


「一眼、持ってなくても大丈夫。スマホでもいいし、部室のカメラ貸すから」


 低くて、落ち着いた声だった。


 なぜ写真のサークルを選んだのか、自分でもよくわからなかった。


 たぶん撮る側にいたかったのだと思う。レンズの向こうの誰かを、こちらから見ているだけでいい場所に。


 


 新歓の飲み会は、大学の近くの、安い居酒屋の座敷だった。


 畳は、ところどころ擦り切れていて、座布団が薄かった。焼き鳥の煙が、天井の近くで白く溜まっていた。


 私は隅の席に座って、ウーロン茶を飲んでいた。周りの一年生たちは、すぐに打ち解けて、出身地や学部の話で盛り上がっていた。私は話を振られるたびに、少し遅れて答えた。


「山吹さん、だっけ。出身どこ?」


 向かいの席の男の子に訊かれた。


 私は言葉を探した。


 町の名前を言えば、それで済む。でも、その町の名前を口にすると、坂の上の神社や、交差点や、角三つの帰り道が、一緒に出てきてしまう気がした。


「……えっと」


 言いよどんでいると、隣から声がした。


「関東の、海のほうじゃなかったっけ。さっき、そう言ってたよね」


 


 勧誘の机で、チラシを渡してくれた人だった。


 いつのまにか、私の隣に座っていた。


「……あ、はい」


 言っていなかった。


 でも、訂正する前に、向かいの男の子は「へえ、海いいなあ」と言って、次の話題に移っていった。


 隣の人が、私のほうを見て、小さく笑った。


「言葉、探してたでしょ。助け舟」


「……ありがとうございます」


「相良。相良将生(さがらまさき)。三年」


 その人は、ビールのジョッキを軽く持ち上げた。


「山吹さん、あんまり、しゃべるの得意じゃない?」


 


 私はウーロン茶のグラスを見た。


 しゃべるの遅いよね、と言われたのは、何年前だっただろう。


 あのときの人は、そのあとに、待ってると、ちゃんと来るじゃん、と言った。


「……遅いんです。言葉が、出てくるのが」


「そっか」


 相良さんは頷いた。


「じゃあ、困ったら、俺が代わりにしゃべるよ。そういうの、わりと得意だから」


 


 その夜、アパートに帰って、ベッドに倒れ込んだ。


 代わりにしゃべるよ、と、あの人は言った。


 違う。


 相良さんは、と言い直した。


 楽だった。


 言葉を探さなくていい。探しているあいだに、誰かが、先に答えを出してくれる。待たせる相手もいない。待ってもらう必要もない。


 それが、ひどく楽だった。


 楽なことが、なぜだか、少しだけ寂しかった。

お読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると励みになります。

感想も、一言でもうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。