第5章 接触
「マルタイは緒方 楓、26歳、女性、B型、11月24日生まれ。現在、都内のパン屋で契約社員として勤務中。過去に目立った前歴はなし。生活パターンは規則的で交友関係も極端に狭いです」
「……普通のお嬢さんにしか見えんがな」
岬朔弥の報告に、鬼島は眉をひそめた。
「それで、動きは?」
鬼島の声はいつになく低かった。公安第七課のブリーフィングルーム。壁一面に貼られたモニターには、対象者の行動ログと映像記録が映し出されていた。
「店への出入りは規則的です。彼女は基本的に無口で、他の客ともほとんど接触がない。ただ……この数日、わずかに態度に変化があります」
報告するのは岬朔弥。スーツの上からでも分かる鍛えられた体つき。だが、語り口は静かで冷静だった。
「えっ、マジっすか?」
三國陽介が食い気味に問い返す。
「こちらに気づいたと仮定して——彼女は“ごまかしている”。必要以上に笑い、言葉を足し、目を逸らす。無意識か、意識的かまではまだ判断できませんが」
「さすがっすね、岬さん。やっぱ“規律の番犬”って異名は伊達じゃない」
三國が小声で感心したように呟く。その口調には、素直な尊敬が滲んでいた。
「……で、確証は?」
鬼島の視線が鋭くなる。
「この程度の変化だけなら、他の被疑者の調査を優先した方が合理的なんじゃないのか?」
岬は鬼島に正面から向き合う。
「確証はまだありません。だが、捨てきれない」
「お前がそう言うなら、続けてもいい。ただし——早めに成果は出せよ」
岬は無言で頷いた。
*
翌朝、パン屋。
楓はいつものようにレジに立っていた。だが、胸の奥にはわずかな緊張が張りついていた。
その日も、岬はいつもの時間に現れた。
並んでいるパンを一瞥すると、迷いなくジャムパンをトングで掴み、トレイに乗せる。
レジに差し出されたそのパンを見て、楓はつい声を漏らした。
「……またジャムパンですか」
口にしてから、少し軽すぎたかと後悔した。
岬は少しだけ口元を緩めた。
「甘いものは、案外落ち着くんです」
「……そうですか」
袋詰めを終え、パンの入った袋を手渡す——その瞬間。
指先と指先が、ほんの一瞬、触れそうになった。
その一秒にも満たない間、時間が止まったようだった。
お互いに何も言わず、目も合わせなかった。けれど、そこに確かに沈黙があった。
岬が店を出たあとも、その余韻は残り続けた。
*
夜。楓はモニターの前にいた。
『今日のジャムパン攻防戦、拝見しました』
アールの軽口に、楓はキーボードの上で指を止める。
「……見てたの」
『当然です。手が触れそうになった瞬間、脳波に0.8秒の乱れが確認されました』
「分析しなくていい」
『ですが、視線のぶつかり方と心拍の上昇は実に興味深いデータで——』
「アール」
『……黙ります』
その瞬間、室内に響いていた冷却ファンの駆動音が、わずかにトーンを落とした。
処理が一段落し、空気が静まる。楓は息を詰めたまま、画面を見つめ続けた。アールが分析を終了したのは、澪の研究時代に関わる古い記録データだった。
『完全な状態ではありませんが、一部の音声が復元できました』
「音声……再生できる?」
『はい。ただし断続的です。加えて、音声の一部に楓さんの声紋と非常に近いパターンが検出されました。澪さんの可能性があります』
楓の手が止まる。
『再生しますか?』
期待と不安が、胸の奥でせめぎ合った。
「……うん。お願い」
再構成されたログの中に、一件だけ音声ファイルが含まれていた。
ノイズ交じりの音声。澪の声。
『……お姉ちゃんに、言いたいことがあるの』
——そこで切れていた。
楓は拳を握りしめた。
「続きを、知りたい」
『この記録の出所は不明瞭ですが、同系列のログが他システムに残存している可能性があります』
「じゃあ……そこに潜る」
楓の声には、ひとかけらの迷いもなかった。指先はすでにキーボードにかかっている。
その反応に、アールの返答はどこか冷たく、機械的だった。
『高リスクです。公安の目が強まっています』
「知ってる。でも、引けない」
あの声の続きを知るためなら、どんなリスクでもかまわない——そんな決意が、楓の表情を固く締めていた。目の奥に宿る光は、ただの執念ではない。それは、澪という名の真実を手繰り寄せるための、痛みを伴った確信だった。
*
閉店後、掃除を終えた厨房で、安達が笑いながら声をかけてきた。
「なんかさ、最近よく話すようになったな!」
「……そうですか?」
楓は戸棚の奥からトングを取り出し、無言で拭きはじめた。
「別に悪いことじゃないぜ。誰かとつながるのは、悪くないって」
冗談めかした言葉に、楓は頷くこともせず、ただ黙ってトングを磨き続けた。
「もしかして、恋とか?」
安達の軽口に、楓はピタリと動きを止めた。
「違います」
声は低く、乾いていた。
空気が一瞬だけ張り詰める。
「……お、おう。からかいすぎたな、ごめんごめん」
安達は慌てて笑ってごまかし、楓は再び無言で手を動かし始めた。
けれど、布巾を握る手が、ほんの一瞬だけ止まる。
(好きになってはいけない)
心の中で、そっと繰り返した。




