最終章(上)
やっと…最終章にこぎつけました…。
うすぐらいホテルの一室は、カビと、下水の臭いがすえて漂っていた。
窓の外からは、パチンコ屋のネオンの光と、酔っぱらいらしきダミ声と女の声がギャハハハハ…と笑っている。
そのベッドに、およそ似つかわしくないダークブロンドの髪の男が、すらっとした足を縮めるようにして座っていた。その顔からは疲労がにじみ出ている。着ている服も、もうボロボロだ。
大河内製薬であれだけの余裕をかましていた男とはとても思えなかった…これが、イサーク=ペトローヴィチ=イグルノフであった。
それは、わづか2日前の事だった。
あの逮捕劇により柳枝会との間に大きな亀裂が生じ、さらに通訳の野村が行方不明となり、足掻いたもののもはや修復は不可能なまでとなったその矢先。突如、カネで買収していた領事の人間がやってきて、こう言ったのである。
『リブニツキと日本の警察がお前たちの身柄引き渡しを求めてきている。これまで守ってきてやったが、もう限界だ。』
(嘘をつけ。実際は、再買収されたに決まってる。)
多分、リブニツキだ。あの逃走から2年。どこからバレたか。
『本来なら、首ねっこ掴んで引き渡すところだがな。とくにあんたには色々と借りがある…5分足止めしてやる、今すぐここから出ていけ』
その領事の職員は、ぶよぶよに太った腹を揺らし、蒼い目を細めて言った。
「兄さん…!」
ユーリが細い体を震わせ、イサークを見た。
「…。」
潮時だ。この一ヶ月、逃げる為の準備をしておいて正解だった。イサークは考えを巡らせた後、こう言った。
『勇敢なる同士諸君…見ての通りだ。我々は、今回失敗に終わった。上手く行っていた道もあったが…残念だ。今回はこれらは捨て置き、一からやり直すとしよう。私のやり方に不満がある者は申し出て欲しい。』
『大丈夫だイサーク。失敗は付き物だ、そうだろう?』
黒髪の大柄な男が、暗めの青い目を細め、えらの張った輪郭とともにイサークを見下ろした。セルゲイ・カシヤノフだ。
『兄貴。早く指示をくれないか。時間が無い。』『大丈夫だ、ここまでで日本でたんまり稼げたんだ。充分やり直せるよ兄さん。』
マルクとユーリが口々に言った。
『皆…すまない。では計画名を伝える。今回、コードはEで行く。』
『E…だと…!』
セルゲイが目をむいた。
『すでに先方は了承済みだ。時間が稼げたのが幸運だったよ…。』
イサークは三人に、紙を一枚ずつ手渡した。
『…了解。』
あの社長室でふんぞり返っていたマルクが、不敵に笑った。
5分後。
そのでっぷりの領事職員が部屋を再び訪れると、もうそこはもぬけの殻だった。
四人は、散り散りになって逃げた。
そして、二つもある巨大な捜査網をかいくぐり…内、三人が無事、神戸を脱出したのである。
翌朝になって、逃げおおせなかった一人の遺体が発見された。
ユーリ=キリーロヴィチ=オルロフスキーであった。
彼の遺体は奇しくも、神戸市垂水区放火殺人事件の巻き添えで亡くなった、近藤勲の遺体発見現場のすぐ近く…和田岬で発見された。心の臓を鋭利な刃物で一突き…即死と思われた。
しかし、その隣にもう一体の遺体が見つかると、警察と、一帯をなわばりとしていた暴力団関係者の間に衝撃が走った。
その亡くなっていた者の名は、小野田祐人。
あの"指の無い男"…小野田隆之の、息子である。
小野田祐人の首には、深々と注射器が刺さっていた。
次に事態が動いたのは、あの逃亡劇から数日が経った、9月上旬のことだった。
この頃には、黒ウサギの実行犯、第四班は実行直後ということで完全にその活動を休止。一方、彼らを手伝っていた第二班は丁度再始動として、動き始めたところであった。
そう…。二班は実行準備のため、一時的に拠点を東京に移していたのである。
そんなある日。森雪乃は、信じられないものを見た。
JR、中央線。高円寺駅のガード下の、破けた赤提灯を背に酒を飲む外国人の男。
(マルク・ギリャロフスキー…!!!!!)
間違いない。あの豊かな金髪は黒に染められ坊主な上、目にも黒のカラーコンタクトに黒ぶちの眼鏡、ひげも黒く染めたか付けひげか、それがぼさぼさに伸び、薄汚れた作業服に身を包んでいるが、大河内製薬本社で何度もその顔を見ていた雪乃の目はごまかせない。
雪乃は素知らぬ顔でその場を離れた。そして、潜伏していたアパートへと入るとすぐ、震える指で携帯を操作し、班長の伊藤貴志へ電話をかけた。
森雪乃。第四班の案件、出戻りのその瞬間だった。
9月8日。
マルク・ギリャロフスキーは警視庁によって、その身柄を拘束された。
そして、その翌日にはその身柄は捜査本部のある大阪へと移されることとなり、マルクは拘置所から東京駅へと護送された。
東京から大阪までは、新幹線である。
その日、東京駅、新幹線ホームは野次馬と、マスコミ関係者で大変な騒ぎとなっていた。
あの事件の主犯の一人が護送されるのである。
警備の人間の数も物凄かった。
その職をはく奪されているとはいえ、この者は元外交官、そしてロシア人である。何かあったら、外交問題に発展するおそれがあったのだ。
そのさなか、手錠をはめられたマルクが、そのやつれた顔でホームへと姿をあらわした。
その時だった。
マスコミ関係者と思われていた、重そうなカメラを肩に背負った若い男のそのカメラから突然、「パァン」と乾いた音がした。
とたんに、マルクの身体が崩れ落ちた。
カメラに銃が仕込まれていたのだ。
警護の人間がその若い男を取り押さえるも、もう遅い。
マルクの腹から、血がどくどくとふき出してきた。
数日後。
マルク・ギリャロフスキーの、死亡がマスコミによって公表された。




