第十章(上)
ちょっと短いのですが、ここで切ります。
その眠りは突然、覚まされた。
午前三時。
荒松はそのけたたましく鳴るムーバフォンのアンテナを伸ばし、相手がまどかであることを確認すると、通話ボタンを押した。
"もしもし、親父?"
「どうした。」
"ごめん、遅くに。ちょっとびっくりしてもうて、電話した。"
向こうのまどかの声は、確かにあわてているというか、よほど驚愕したことがあったのか、早口でまくしたてていた。
「まどか。落ち着け。ゆっくり息を吸わんか。」
"う、うん"
受話器を外して素直にやるあたりが彼女のかわいいところである。
「どや。落ち着いたかえ。どうした。」
"玲奈から電話があった。今"
「おお。」
それは驚いたことだろう。こちらでも、いくら調べても行方がつかめなかったのだ。―とある理由で、あまり、心配はしていなかったのだが。
「元気そうやったか。」
"うん。三人共、無事やって。"
「それは良かった。で、それだけやないな。お前がそこまでになっとるのは」
"うん、親父。うちら、とんでもない思い違いをしてるかも。明日会えへんかな"
「それは丁度ええわ。わしも、お前とすり合わせなならん事がある。」
その後、二人は打ち合わせて明日(日付では今日)本部で、顔を合わせることとなった。
翌朝。
案の定、まどかは一睡もできなかったようだった。
別室で何も知らなかった入谷は、びっくりして、話を聞いた。
すると、話を聞くうちに、入谷の顔はみるみる厳しい顔つきになって、こう言った。
「…まどかさん。よく、お一人で応対されました。」
こうして二人は正に、関西へと飛んで帰ってきたのである。
"久しぶり。"
―通話ボタンを押すと、玲奈の低めの声が聞こえてきて、安堵のあまり、まどかは腰を抜かしそうになった。
しかし、その口調は元のしっかりしたものに戻っていた。まどかは改めて、彼女の芯の強さに心の中で脱帽したものである。
聞くと、今、菅原玲奈、そして養父の隆正、由紀子ご夫妻は三人で、高知へと移ったのだという。
高知―。
高知に菅原家、またその親族のあらゆるところにも縁のある者は一人も居ないはずである。
これでは足取りがつかめなかったはずだ。
理由は、至ってシンプルなものだった。
隆正の所属していた役所で突如、緊急で出向の辞令が出たのである。
そして、この出向辞令は仕組まれたものだった。
出向先の企業。
そこは小さな、主に漢方薬を扱う会社だったのだが、やはりこれも母体が大河内製薬だったのである。
聞いた瞬間まどかは取り乱した。
「え?!え。それ、大丈夫なん、」
"大丈夫もなにも。私ら全員ピンピンしてるんやで。それが何よりの証拠やん"
玲奈は、完全に信頼しているようだった。
それが余計にまどかを焦らせた。
しかし、話を聞くうちに考えが変わった。
聞くと、大河内製薬の者が、こう言ったそうなのである。
「この度は、大変なことでしたね―…。実は、私共は菅原先生と合同研究でお付き合いがございました。その矢先、あのような事件が起きるとは思ってもみませんで…。
私共も、あの方が自殺をされるなどとは到底、思えません。いつも、玲奈さんの事も、ご一緒するお酒の席のたびに自慢されて鼻高々とされていたあの方が、心中などと。そんな事をするはずがございません。
ともかく、今、皆さんが兵庫に居るのは危ない。勝手なことを申し上げて、誠に申し訳ないのですが…、ここは私共を信用して、身元をお預かりさせてはいただけないでしょうか。」
担当の男性はこう言って、やつれた顔を必死になって、下げたそうだ。
"それで今、大河内さんの手配で、マンション借りさせてもらって住んでるんよ。すごいんよ、下の階には綺麗な制服着た方が常駐してて。"
それはコンシェルジュと言うんではなかろうか。
"警備員さんも別でいはって、見回りもしてはるんやて。すごいセキュリティなんよ。"
それは確かに凄そうだ。
"…で、引っ越しの時もそれはすごくて。まどか。ほんまに夜逃げ屋さんっていはるんやね。あたし知らんかった…カッコ良かったんよ。"
玲奈の声が朗らかに言う。
「…へぇ。」
まどかはまだ、呆然としていた。
その後も話を聞いたが、大河内製薬側のその担当者…後にその男はかつてまどかに尾行を依頼していたあの、尾上一郎であることが判明した…は、終始、丁重な扱いをしてくれていたそうだ。
そしてさらに、驚愕の事実が玲奈の電話口で放たれる。
何と、先月5月になって、突然大河内清偵が自宅を訪れたというのである。
"なんや、会長さんや言うてたけど。いろいろと気にかけてくれはってね。良く(よう)してくれはったんよ。で、気になったんやけど、そのおじいさん、まどかに会って謝りたいて言うとった。ちょっと、よう分からんかったんやけど、何?あの人まどかに何かしたん?"
玲奈の声が笑って、"とにかく、電話やと長なるし…会いに来れへんかな。うち泊まりでもええし。"
それは全くもって渡りに船だ。
こうしてまどかは、来週の土曜日に、高知に行くという仮約束を取り付けたのである。




