五曲目
【縺曲目 ~One turned record~】 302
世界の最果て。世界の終わり。
見える物は、何もない。
何も見えぬが、たしかに在る。
土と石と、わずかな湿り気。
世界の最果て。世界の終わり。
ひっくり返った坂渓基。
ちっとも美味しくない土を、
泣き叫びながら魔王は食む。
全花も埋もれた、孤独の地に、
天も地すらも、もはや無い。
土気色の世界の終わり。
天地がひっくり返った。
それは例えでも、脚色でもない。
天地がひっくり返った。
ひっくり返った時に、魔王は見た。空を飛ぶ鳥たちが、更に上空から落ちてきた大地に衝突していた。
激しい衝撃、圧力。
その後に残った生物は、おそらく魔王以外は存在しないだろう。
いしのなかにいる。
何も見えず、何も聞こえない。
いつも乾き、飢えていた空腹も、今は感じることがない。
それもそうだろう。腹から下が、たぶんない。どうやら圧し潰されてしまったようだ。確かめたくても、身動き一つ取れない。確かめてしまったら、痛みを認識してしまうだろう。
身動きが取れない。魔王となる前、まだ『ワルイコ』と幼名で呼ばれていた頃、巫山戯た姉が覆いかぶさってきたことを思い出した。
あれ以来、魔王が誰かに抑えつけられることはなかった。
魔王を抑えつける力を持つ者が現れることはなかった。
姉と異なり、覆いかぶさる地からは、血の温もりや、肌の柔らかさを感じられない。
冷たく固い大地に閉じ込められた孤独の魔王を、幼き日の温かい記憶だけが慰める。
「レンカ姉さん……」
気が遠くなっていく。見ることは叶わないが、視界も、身体も土気色に染まっているだろう。
滲む涙のまま、目を閉じた。
もう二度と、魔王が目を開けることはなかった。
【縺曲目 ~End of One turned record~】 301
【五曲目 ~オモテ面~】 196
大魔法使いを目指すヨシヒトと、その姉のカレンは、盗賊のウイロウとクスイを退治した。もとより盗賊などやる気のなかったウイロウは、ヨシヒトたちの旅路に加わる。魔族と人間のハーフであるクスイは、幼い弟との安住の地を求め、姉弟が提案した西の最果て村へ行くことにしたようだ。
麓の街までクスイを送ろうと姉弟は提案したが、クスイは首を横に振った。
「これ以上、迷惑は掛けられないっす」
「彼女は地属性の隠密魔法に長けている。心配せずとも問題ないでしょう」
ウイロウが砂埃に汚れた眼鏡に、水魔法をかけて洗い流しながら言った。
「元王室付き魔法使いのお墨付きももらいましたし、大丈夫っすよ」
希望に満ちた笑顔で手を振って、クスイはあっと言う間に谷へと消えていった。彼女が悪に手を染めることは二度とないだろう。
ヨシヒト、カレン、そしてウイロウが加わった一行は、川に沿って下っていく。ヨシヒトはカレンを肩車し、岩場の段差も軽々と越えていく。
ウイロウは決して若くはない。老人と言うにはまだ早いものの、尋常ではないヨシヒトの歩みに追いつくのは大変なことだった。ウイロウは、息を切らしながらついていくのが精一杯で、ヨシヒトの手を借りることもあった。
「ヨシヒト氏、さっそく足手まといになってしまい恐縮です」
「ふふ、恐縮か。悪くない」
恐ろしい姉、大魔法使いレンカに憧れ続けるヨシヒトにとっては、恐れは称賛と同義だった。
「ヨシ君も喜んでるし、気にしないで?」
大きな弟の頭上から、小さな姉のカレンが言った。
「わかりました。ふぅ……。ところで」
やや平らな場所に出て、ウイロウが向かう先を眺めている。左側に夕陽が沈んでいくのが見えた。
「次の目的地は、もしかしてカシの国でしょうか?」
「そうだよ~。ヨシ君がどうしても寄りたいみたいだからね」
ヨシヒトが口元の涎を拭ったのを見て、ウイロウは眉間に皺を寄せた。
カレンがウイロウの様子と、落ちる夕陽を見て、弟の頭をてしてしと叩く。
「ヨシ君、今日はこのあたりで野宿しようか」
「ん。そうだな」
鞄から天幕を取り出す。
「ウイロウさんは休んででいいからね」
「はぁ、はぁ。申し訳ない」
疲れ切ったウイロウは小岩に座り、天幕を貼ろうとする姉弟の様子を眺めていた。布の片側を抑えていたカレンが、風に煽られてふわふわと浮かんでいる。
「姉さん。ちゃんと抑えててくれないと」
「む、無茶いわないでよ~」
今度は、ヨシヒトが金属の棒を繋ぎ合わせていた。二階建ての家くらいに高い棒ができあがっている。
「これ、棒が足りなくないか?」
「短くしないと本数が足りないんだよ~。ヨシ君の体格には、この天幕は少し小さいかもね」
姉弟は明らかに野宿に慣れていない。とても見ていられず、ウイロウは腰を上げた。
「手伝いますぞ」
ウイロウがテキパキと指示を出し、あっという間に天幕が組み上がった。
その後、焚火から釜土をこしらえ調理まで、ウイロウが執り仕切ってくれたおかげで、陽が沈みきる前に腰を落ち着けることができたのだった。
「ウイロウは旅慣れているんだな」
ヨシヒトが感心しながら言った。
すかさずカレンが呼び捨てにしたことをたしなめる。
「こら、年上には「さん」を付けなさい」
「私が弟子なのですから、呼び捨てで構いませんよ。旅に慣れているわけではありませんが、隊の指揮経験もあるゆえ、基本的な野営教練は身に付けております」
「そういえば元王室付き魔法使いと言っていたな。どこの国にいたんだ?」
ウイロウがまた眉間に皺を寄せる。
カレンの大空色の瞳が、中年の魔法使いを捉える。
「もしかしてカシの国?」
元王室付き魔法使いが頷いた。
「はい。隠しておく理由もないですし、お話しいたしましょう。現在の大魔法使いケオ・マキアにも関わることです」
姉弟は無言で耳を傾ける。
焚火を囲み、宵闇が三人の影を伸ばす。火花がパチリと爆ぜた。
「五年前、王室付き魔法使いの私と、女王……当時はまだ王位を継いでいなかった王女の前に、あの『黒いカラス』は現れました……」
ケオ・マキアは当時、四大魔王軍団長の一人になっていて、当然ながらウイロウと王女は警戒した。が、ケオは「この国を豊かにする。代わりに……」と王女に契約を持ちかけたのだった。
はじめこそ王女は拒否していたが、ケオが国を豊かにする計画をプレゼンし、王女はそれに酔心してしまった。催眠魔法の類かと思われたが、警戒していたウイロウに魔法を感知できなかった。実際、そのプレゼンは素晴らしいもので、結局は王様まで説得し、ケオは王室付き魔法使いの二人目として迎え入れられた。
「契約の内容は、王室付きになることだったのか?」
「違います。ケオは『魔王軍と対立せず中立であること』を求めたのです。魔王軍からも手を出すことはしないと……」
カシの国はどんな種族にも拘らず、菓子を外交の要とする国であったこともあり、中立な立場となることは都合が良かった。
その後、ケオは計画に基づき、たしかに国を豊かにした。
世界一の『菓子の国』であることを盤石なものにしたのは、ケオなしではありえなかった。
「ヤツは天才です。私が半年かけて考えた立案を、見たその場で改善案を出してくる。別案を出され、私の案が丸々なくなることも少なくなかった」
ウイロウの過去を懐かしむ穏やかな顔から、ケオを恨む様子は感じられなかった。
「悔しくなかったの?」
「ええ。劣等感はありましたが、彼女の案に文句の付けようが無かったですし、国のため働いて、成果が次々と表れることに満足していました。ですが、半年前、国王が急逝された後から、様子が変わったのです」
王女が王位を継ぎ、女王となった後から、国外の食材を多く輸入するようになった。魔族向けの菓子や、レーションのような保存食も多く作り始めるようになる。まるで、大きな戦争を始める準備のようだとウイロウは感じていた。
国王の急逝された原因もハッキリ調べられず、ウイロウだけが不信感を募らせていた。女王を含め、他の誰もがケオを信用しており、ケオを疑うことはなかったのだった。
「そんなある日のこと、私の立案に対して、ケオが出した対案を、どうしても受け入れることができなかった。女王はケオの案を支持したので、私は王室付きを辞め、国を出たのです」
焚火の炎が小さくなってきた。ヨシヒトは枝を折って火中にいれた。
「その案とは?」
「他者から見ればくだらないこと、話すほどのことでもありません。とまあ、国を出た私は行き場もなく、クスイにそそのかされて盗賊稼業に手を染めてしまったのです。我ながらなんと愚かなことか」
ウイロウが苦笑しながら眼鏡を外し、ため息をひとつ吐いた。
「しかしながら、ヨシヒト氏に出会えた幸運には感謝せねばなりません。と、長くなってしまいましたが話は以上ですぞ」
ヨシヒトの頬が赤いのは、炎に照らされたからだけではない。
「ケオは今、カシの国にいるのか?」
太い幹の部分を軽々と裂いて、火に入れる。水分が多かったのか、パチパチと何度も火花をあげている。
「伝達は使い魔を通じて行うのがほとんどで、カシの国にいることは稀です。年に数回しか顔を見せません。ケオにとって王室付きであることは、国内で立ちまわるための役職に過ぎません」
「そうか。やはりケオに会うには、北の果てに行くしかないか」
ヨシヒトの言葉を聞いて、ウイロウは眼鏡を掛けなおした。
「どうして北の果てへ?」
ウイロウは、姉弟とケオとの因縁、約束をまだ知らない。
カレンが弟に代わって説明した。
七年近く前に、ヨシヒトの姉レンカが魔王と共に消えたこと。
ケオが現れ、ヨシヒトが殺されかけたこと。
ヨシヒトが「二十歳になる頃に北の最果てまで来い」と言われたこと。
大魔法使いになり、レンカを取り戻す、という願いを叶えたいこと。
大魔法使いになるために、ケオを越える必要があること。
「そういうことでしたか。しかし、ヤツが北部の魔王軍団長とはいえ、常冬更夜の酷寒地で、何ゆえ時期まで指定したのかわかりかねますな」
ヨシヒトは過去に首を落とされた事を思い出し、首筋を撫でる。
「待っていると言いながら、殺されかけた理由もわからない。ケオに会えたら、それらの理由も聞くつもりだ」
三人がそれぞれ考え込んでいると、魔除けの鈴が、音も立てずに震えた。
【五曲目 ~Forecast~】 7
魔除けの鈴は、音で魔物や動物を寄せ付けないだけでなく、危険な生物が迫ると、持ち主だけにわかるように震える機能がある。
「……!?」
周りを見渡すと、近くの草むらから、白い毛並みの足が見える。音も気配もまるで感じられなかった。
「魔除けの鈴を持っているとは、気づかれてしまったか」
雪のように白い狼が現れ、言葉を話した。
「ヨシヒト氏、あれはケオの使い魔ですぞ!」
狼の声を聞き、姿を見つけたウイロウが言った。
「ウイロウ君も一緒とは、どうやら私たちは腐れ縁のようだね」
「…………」
ウイロウはなんとも言えない表情をしている。
「ちょうどいい。どうせ盗み聞きしていたのだろう? 色々と答えてもらおうか、ケオ・マキア!」
ヨシヒトが白狼に向かって身を乗り出す。
白狼がわずかに立ち止まったあと、月を見上げて思案を始めた。
「……ふむ。使い魔を通して、私に勝てたら教えてやってもいい。君の現在の力量を知りたいからね」
白狼が闇に溶け、形を変えていく。鳥のような無駄のない流線形の身体。広げた羽のような影色の外套。闇色の瞳と髪。『黒いカラス』と形容される人の姿に変化した。
「ウイロウ。あの辺りの丘まで離れてくれ」
50mほど離れた丘をヨシヒトが指さす。丘は月光で青白く輝いていた。
「承知しましたぞ。カレン殿も……いない?」
ウイロウが小女を探すが見つからない。すでに遠くに離れたのだろうか?
「使い魔は本体へ情報が伝わるまで、わずかな遅延があります。が、決して、指を7回、鳴らさせてはいけませぬぞ!」
小女を探すのを諦めたウイロウは、離れながらヨシヒトに助言する。
「どうしてだ?」
「なあ、ウイロウくん。ネタバラシは止めてくれないか? 今すぐ黙らせてもいいのだが?」
ケオが指を一度鳴らす。地面に、無限円連環魔法陣が広がる。ウイロウの足元の円陣が鈍く光る。離れていく彼を、光る円陣が追跡した。
ウイロウが目を見開く。が、すぐに魔力を練り始める。
「ケオ、貴様は敵には容赦しないやつだったな」
ウイロウが逃げながら対抗魔法の準備をする。が、魔力消費のもっとも少ないヨシヒトが、誰よりも早く現象を起こす。
「不出の坩堝」
ヨシヒトが魔法を宣言すると同時、親指の〝爪に火を灯す〟
地面をどこまでも広がっているように見えた無限円連環魔法陣が、ヨシヒトを中心に、一定の距離から空に向かって折れ曲がる。球状の空間が出来て、ケオとヨシヒトを取り込んだ。
「ウイロウに手を出すな」
ケオが二回目の指を鳴らす。
「ふむ、『ワ―スリーワーズ』か。選択も悪くない」
ヨシヒトは星肉を取り出し、口を開いて放り込む。
「二人三脚、四肢五体」
ヨシヒトの詠唱にわずかに遅れてケオが気づき、彼女も詠唱を始める。
「一石二鳥、三寒四温」
ケオが三回目の指を鳴らす。
(詠唱が遅れた上に、〝数え〟も少ない。押し切れる!?)
「六花七虹、千変万化」
「五光六甲……、千里万雷」
ケオが四回目の指を鳴らす。
ヨシヒトが火の灯る指先で、坩堝の空間をかき混ぜる。
「疑似立方体 有限円連環魔法陣」
球状体の中で、既に生成されている無限円連環魔法陣を流用し、疑似的な立方体を形成する。
ヨシヒトが星肉を咀嚼する。どこか遠くから歌声が幾重にも響いていた。
「譜面ではなく、小節か。限定空間にすることで、密度を集中させるのが目的のようだな」
ケオが五回目の指を鳴らす。
「余裕みせやがって! 『初級 着火 Lv.1』」
限定された空間内が大量の着火に輝いた。
5040発の灯し火が、余すことなく黒いカラスを狙い撃つ。
『六甲 蓑亀』
ケオが六回目の指を鳴らす。
ランクを宣言しない言葉ののち、七色に透けた六角形の障壁が何枚も組み合わさってケオを包む。命中した多数の灯し火をすべて打ち消した。
煙が坩堝に充満する。
ケオが七回目の指を、鳴らそうとした時、
『上級 甲羅砕き Lv.1』
丸太のような腕が、障壁をぶち抜いた。
拳は、煙と障壁で狙いが外れ、ケオの頭の横をかすめただけだった。
「君のそれは魔法ですら無いだろう? どういう理屈で魔法障壁を壊せるのか、ぜひ知りたいねぇ」
わずかに反応が遅れながらも、ケオは軽やかに跳ねて距離を取る。黒いカラスが白い煙の中に紛れていった。
「そっちこそ、属性混合の魔法を宣言していないのに、障壁に全属性耐性があったのは何故なんだ?」
ケオを追いかけ、ヨシヒトが腕を横に払うと、煙がケオまでの道を開けた。
「火属性しか防ぐのを見せていないが? 壊す時に、障壁の性質まで見抜いたとでも言うのかい」
丘の上まで退いたウイロウが、息をきらしながら叫ぶ。
「ヨシヒト氏! ケオは先の詠唱で、属性混合を同時に宣言していたのですぞ。それより、七回目の指を鳴らさせてはなりませぬ!」
「ああ、わかった。『初級 落ち葉拾い Lv.1 × 180』」
小質量移動の魔法を多重に発現し、自身の巨体を一息でケオの前まで転移させる。
『上級 甲羅砕き Lv.1』
ケオの姿が煙のように消えたので、ヨシヒトは拳を止めた。
「君が出した煙と熱で空間が歪んで見えただろう? 魔法を使うまでもない」
数歩先にケオが居て七回目の指を鳴らした。
『破級 千里万雷算 Lv.1』
「……っ!?」
ヨシヒトは身構えた。が、何も起こらない。
「なるほど、障壁を壊したのも君自身の性質、力によるものか。さあ、君はどこまで私の『予測を裏切ってくれる』のかな?」
ケオは焦点の合わない瞳で遠くを見つめながら、ニヤリと笑う。猫の顎を撫でるように手招きし、ヨシヒトを挑発した。
『初級 石動 Lv.1 × 360』
わずかな電流を操る魔法を自身にかけて、俊敏に肉体を動かす応用編。動きの鈍る海中で、魚を追いかけるうちに身に付けた、ヨシヒトの得意な魔法の一つだった。
『上級 迅雷 Lv.1』
ケオが、円連環魔法陣であらかじめ蓄積していた魔法を発現する。同様に肉体を動かす魔法だった。
ヨシヒトが一息に近づいて腕を振るう。大振りの腕は、ケオが身をかがめてやすやすと躱される。歌声の一部が変調する。
『初級 落ち葉拾い Lv.1 × 20』
ケオの背面に転移して、振るった拳をそのまま背中に打ち下ろす。
遅延のあるケオに、それは回避できない。はずだった。
ケオは身をかがめたままに、前方へ手をついてひねりながら回転し、ヨシヒトの方向を見ながら立ち上がる。
ヨシヒトがまた距離を詰めて、フェイントをかけながら拳を連打する。
ケオは風にそよぐ木の葉のようにそれらを全て避けた。
『中級 連火 Lv.1 × 4』
前後左右から芋虫のように炎が這い寄る。死角から拳も交えての同時攻撃。
『上級 波撫で Lv.1』
さらに連火を撫でて、軌道を変える。
その連続攻撃のすべてを、ケオはカラスが地を跳ねるような足取りで回避していく。
「な、なんで遅延があるはずなのに、反応できるんだ?」
ヨシヒトが距離を取り、呼吸を整える。
「ウイロウ君。ネタバラシを任せるよ」
二人の戦いを見ていた元王室付き魔法使いに、ケオが声をかける。
「千里万雷算。超精度の予測『先見のメイ』です。ランクが破級であるのは、その分析力と先見で、加護のある城壁すらも素手で破壊してしまうからです」
「素手で? そんなことできるはずが……」
ウイロウが眼鏡を直しながら眉間に皺を寄せているのが、離れた場所からでもわかった。冗談ではないようだ。
「君だって、私の障壁を素手で壊していたじゃないか」
ケオの黒い外套がたわんで細くなる。カラスが羽を閉じるように構えを解いて、ため息をついた。
「なあ、君……。姉のレンカから何を教わってきたんだ?」
「何だって?」
憧れの大姉を小馬鹿にされたように聞こえ、ヨシヒトの頭が熱くなった。
「私はレンカよりも先見のメイに長けている。それでも、彼女より遥かに劣っていたがために、大魔法使いではなかったのだ。何故かわかるか?」
魔王が来た夜。家の窓から見ていた姉の魔法を思い出す。
「数えきれない無限の連歌と、夜すら食い尽くす規格外の魔法」
「そうだ。ついでに、恐ろしいほどの頑丈さだ。いくら攻撃しても、まるでダメージを与えられない。その上、膨大な手数と威力で一方的に蹂躙される。先見もクソもあったもんじゃない。とんでもない『クソゲー』だったよ」
ケオが言い進めては肩を揺らす。どうやら笑っているようだ。
レンカが魔王との戦いから家に戻ってきた時、姉が自身で捧げたと言った『夕焼け(片瞳と光)と、星天(毛髪)』以外に、外傷らしきものが無かった事を思い出した。
「だが、君は……。最初こそ、こちらの手の内も探らず全力を見せてくれていたのに、遅延の間隔がわかるや否や、そればかり狙っていた」
——パチンッ♪
ケオが指を鳴らす音に驚いて顔を上げる。戦いは終わっていないのに、下を向いていたことにヨシヒトは気づかされた。
「もう一度、聞こう。『レンカから何を教わってきた』?」
「Lv.1の魔法をいくつか教わったり、調理魔法を見せてもらった。あとは、一緒に歌いながら、ボードゲームの、賢者の譜面を毎晩していただけだ」
もっと教えて欲しいことがたくさん有ったが、姉は姿を消してしまった。
——パチンッ♪
また俯いていた。
「だったら、ソコに全てが詰まっていたのではないか?」
頭に昇っていた熱が、全身を巡った。
「少しだけ待ってくれ」
二つの意味を持つ、一つの言葉を伝える。
「あぁ、今すぐレンカに並べとは言っていない。先に言った通り『君の現在の力量を知りたい』のさ」
その意味を、最強の予測者は漏れなく汲み取った。
ヨシヒトが星肉をまた一つ、口に含む。
祈るように、願うように、目を閉じて噛みしめる。
多重の歌声が止んだ。
「連歌を止めて何をするんだい? 君の全力は、一度に5040発の着火と、上級並みの体術だろう?」
ヨシヒトが口角を引き上げた。
「わからないってことは『予測を裏切ってる』ってことだよな? 姉さん、 手伝ってくれ!」
「任されたよ~」
巨体の弟の背をよじ登り、小姉カレンが顔を出す。
姉という存在は、弟が求める時、その背に現れる者である。
「二人がかりとは、ウイロウも手を出す様子がなかったし、さすがに予測していなかったよ」
ケオの顔は、薄暗くハッキリ見えないが、声が明らかに動揺していた。言葉にしていなくとも「どこから出てきた?」と言いたいのがわかった。
「ただ、それは君の力量と言えるのかい?」
カレンがヨシヒトの三角帽子を脱がせて、自分の頭にかぶせた。
「私たちは、ふたりでひとつの大魔法使いだからねっ」
「面白いことを言う」
肩車した姉弟の大きさを見て、ケオの中に小さな感情が沸く。
その小さな〝恐れ〟は、入道雲のようにモクモクと大きくなっていく。
「「破級 積乱雲 Lv.1」」
二人の姿が消える。
ケオが見上げてもてっぺんが見えないほど巨大な雲が、ヒトの形を成す。
カレンがまるで巨大化したようだった。
「おい、おいおいおい。そんな魔法は見たことない」
ケオの肩がクツクツと震えていた。
カレンの姿をした雲が片足を上げる。
風が吸い寄せられ、ケオの身体は地に足もつかないまま、大きな足の裏まで引っ張られた。
「いっくよ~」
声で空気がビリビリと震え、巨大な足が落ちてくる。
「六甲 白雪亀」
薄白の亀甲障壁がケオを包む。巨足の裏と地面の間で、雷が大量に発生し、障壁を何度も打つ。
(威力はたしかに破級だが、規模は災禍に近しいじゃないか)
そして、轟音と衝撃。ケオの視界は真っ暗となり、月明かりも見えなくなった。
いしのなかにいる。
雲のように見えていた足は、堆積した土や石のように硬く、全方を埋め尽くしている。障壁を解除すれば押し潰される圧力を、壁を通してケオは感じていた。
「降参する? する?」
いしのなか、小女の声が響く。
「まさか。力量を見たいから対抗しなかっただけさね」
「む~」
「さて、そろそろ離れてくれないかい?」
「イーヤ!」
ケオがため息をついた。
『破級 岩盤手引 Lv.3』
「レベル3っ!?」
旧式の無限円連環魔法陣で使える魔法はLv.1だけのはずだった。
「すでに魔法陣は無い。私が現代の魔法を使えないはずないだろう?」
天地の一部がひっくりかえった。
ウイロウの立っていた丘の近くまで地面がえぐれて、パンケーキを返すかのごとく、積乱雲を乗せたまま天地が返る。
「うわあっ!」
石や土砂が振ってくるので、ウイロウは慌ててさらに距離を取る。
『上級 水牢 Lv.4』
ひっくり返って浮かぶ地に流れている川から水を引き寄せ、周囲に水牢のバリアを貼る。落ちてきた岩を、水の流れで互いにぶつけて砕いたり、受け流して直撃を避けた。
「きゃあぁっっ!?」
ひっくり返った岩盤がオニギリを握るように、白雲の巨体を握りつぶしていく。ただ岩盤を落としただけでは、破級 ―加護のある城壁を破壊する― には至らない。操作された岩盤そのものに、魔法や加護を打ち消す効果が付与されているようだ。
やがて、何事もなかったかのように元の大地に帰る。
近くを流れていた川も、建てた天幕も、即席の釜土も、料理も。何事も無かったように元に戻っていた。
【五曲目 ~ウラ面~】 96
オニギリを割るように地面が割れ、具の中身……障壁に護られたケオと、倒れた姉弟が出てきた。
「私の勝ちだ」
ケオは障壁を解き、白狼の使い魔の姿に戻る。
ウイロウが倒れた二人に駆け寄る。
「ヨシヒト氏ぃ、カレン殿ぉ。貴様、まさか殺したのか?」
ウイロウが二人の手を取り、脈をみる。
「弟の方はショックで気絶してるだけさ。レンカに似て頑丈で良かったねえ。カレンという女は急激な魔力欠乏で気絶してるだけ……、なぜかダメージを受けていないのが不思議だが」
脈も呼吸もちゃんとあるようで、ウイロウは安心して息を吐いた。
「ケオ、何を企んでいる? ヨシヒト氏に何をさせようとしている?」
ウイロウから見た彼女の行動や発言は、ヨシヒトを何かに導こうとしているようにしか見えなかった。
「北の最果てに来れば教えるさ。見た所、彼らの同行者なのだろう? ついでに、それまで彼を鍛えてやってくれ」
「私はいずれ大魔法使いになるヨシヒト氏の一番弟子。教えることなど……何も……」
ウイロウが語尾を濁しているのを、ケオは見落とさなかった。
「西の最果てで引き籠っていたから、現代の魔法をほとんど知らない。岩盤手引もまるで対処できていなかった。ウイロウ君も気づいていただろう?」
ウイロウが何か言いたそうにしているが、唇を噛んで耐えている。
「彼には強くなってもらいたいが、私には協力したくない。と?」
「あぁ、そうだよ。千里万雷算は私も対象だったのだろう? わかっているなら聞くな。貴様の能力の高さだけは認めている。だが、そういう所が嫌いなのだよ」
白狼が再び、ヒト型の『黒いカラス』の姿に変わる。
ケオが、姉弟の傍らでしゃがむウイロウの肩に寄り添う。
低めの声で、なまめかしく耳打ちする。
「私は君のおせっか……、教え上手な所が大好きだよ。君には優秀な部下が多かった。教える能力は私より遥かに上手いこと認めているんだ。だから、頼むよ」
ケオの身体は凹凸が少ないが、男性よりはずっと柔らかい。
ウイロウが耳まで赤くする。
国のため一途に働いてきた男に、女性への耐性があまりないことは、今更分析するまでもなく、ケオは知っていた。
「で、弟子なのだから、師の役に立とうとするのは当然のことだ。き、貴様に言われるまでもない」
思わず「おせっかい」と言いかけたのは耳に入っていないようだ。
「チョロい……」
ケオは顔を逸らしニヤリと笑った。
「だが、貴様の協力などするつもりはない。人間と魔族の対立に興味はないが、ヨシヒト氏の道程を邪魔する企みであるなら全力で潰す。それに、私はまだ『あの案』を決して許していない」
「あれは……、ウイロウ君が正しかったのかもしれない。あっ、そうだ」
ケオが何かを思い出して指を鳴らす。
「カシの女王が、ウイロウ君に戻って欲しい、と探していたんだった」
「私は自ら国を出たのだ。もう王室付き魔法使いに戻るつもりはない」
「だから『あの案』のことで、私も女王も考えを改め始めている。わだかまりはないはずだよ?」
ウイロウは首を横に振る。
「私はヨシヒト氏が大魔法使いになるまでついて行くと決めたのだ。それに、鍛えてくれとお願いしたのは貴様であろう?」
表情は見えないが、黒いシルエットの中、ケオの口角が上がるのが月明かりによって見えた。
「そうだったな。女王にはうまく伝えておく。だが、次の目的地はカシの国だろう? 女王もとても心配しているのだから、顔くらい見せてあげてくれ」
「承知した」
『黒いカラス』が使い魔の白狼に戻り、振り返って歩き出した。
「北の最果てで、君たちが来るのを待っているよ」
白狼が草木の間に消えていくのを、ウイロウは様々な想いを巡らせながら見送った。
【五曲目 ~リプレイ~】 197
ケオ(使い魔)が去った後、ウイロウは倒れた二人を介抱するため、天幕へ運ぶことにした。
まずは状態の悪そうなカレンを抱き上げる。雲のように白くふわふわとした髪に、支えた手が深く埋もれてしまう。歩き出すとそれがふわふわと跳ねて、手からこぼれ落ちそうになる。
(重さはあるはずなのに、髪のせいでそれを感じさせない。なんとも不思議な方だ……)
ウイロウは決して小女趣味はないが、初めて会った時から、カレンという存在の不思議さが気になって仕方がない。人間であるはずだが、その性質は人並外れている。
カレンを天幕の中に横たわらせる。
雪こそ降っていないが、山を越えて寒気が強くなっている。このままでは凍えてしまうだろう。ウイロウは申し訳なく思ったが、鞄を漁って寝袋を取り出した。
「これでヨシ」
カレンを寝袋で包み、自身の杖を彼女の上に置いた。杖の先の魔石が、欠乏した魔力を少しずつ補ってくれるはずだ。
青白かったカレンの顔色が少しだけ良くなった。
「次は、ヨシヒト氏を……」
この巨体を手で運ぶのは無理がある。幸いなのか、彼は穏やかに寝息を立てている。多少は手荒に運んでも問題ないだろう。
ウイロウは少しだけ思考したあと、ヨシヒトに向かって手の平を向ける。
『初級 落ち葉拾い Lv.1』
地属性の小質量転移魔法を宣言する。初級レベル1を一度きりでは、ヨシヒトの身体はまったく移動しなかった。
ウイロウは集中してもう一度、宣言する。
『初級 落ち葉拾い Lv.1 × 2』
それでも、ヨシヒトの身体が移動する気配がない。
ウイロウは更に集中する。顔は紅潮し、狙いを定める右手が震える。呼吸が荒くなり、額から汗が流れた。
『初級 落ち葉拾い Lv.1 × さんっ !!』
ヨシヒトの腕が、ほんの少しだけ上がり、すぐに落ちた。
「はぁ、はぁ……。ほとんどの魔法使いは、魔法を一度に一回しか使えない。あの『七色の大魔法使い』との異名を持つケオですら七回が限度。なのに、ヨシヒト氏は同時に5040回も、平然と連歌している……」
その姉のレンカは数えきれない連歌ができると彼は言っていた。
背筋に冷たいものが流れた。
「もはや、大魔法使いというより、大魔王ではないのか?」
空想上の物語に出てくる大魔王を思い出し、恐怖が湧いてくる。
魔王を遥かに越える存在が時空を越えた別世界にいるのではないかという、作り話にすぎない。
「空想上の存在と思われていた海女も、実在していたのだ……。いや、いやいや。何を小馬鹿な事を考えているのだ私は」
ウイロウは首をブンブンと振り、恐ろしい思考を振り払う。大きな師を運ぶため、再び手を構える。
『中級 猫車 Lv.2』
地面が盛り上がり、猫の形をした土くれが二匹現れる。
二匹の猫が地に沈み、ヨシヒトを前後に背負って立ち上がる。
「ニャー、ニャー」
ヨシヒトを乗せると、鳴き声をあげながら動き始めた。
土くれに空洞と発音機構を造り、運ぶ揺れを利用して猫の鳴き声に似た音を出す。鳴き声は、安全のため周囲に移動を呼びかける警報を兼ねている。
「ニャー、ニャー」
「ウミネコの声!? 漁に出なきゃっ」
でっかい素潜り士が猫車の上で飛び起きた。
「気が付きましたか」
「あれ? ウイロウ……? そうか、俺はケオの魔法に潰されたのか」
ヨシヒトが猫車に驚きながら立ち上がろうとしたので、手を貸した。
「お身体は大丈夫ですか?」
「どこもかしこも痛いが問題ない。カレン姉さんは?」
「天幕の中です。魔力欠乏で倒れていますが、大事ないでしょう」
天幕を開けると、カレンがスヤスヤと寝息を立てていた。ウイロウが運んだ時より、顔色がだいぶ良くなっていた。
「俺も姉さんも、大きなケガがないのは、きっと姉さんが咄嗟に魔力をふり絞って護ってくれたんだ。無茶をさせてしまった……」
「ヨシヒト氏も、今日のところは休みましょう。ケオは、とりあえず去りました」
「アイツが何を企んでいるか聞き出せなかった……。悔しい。もっと……、もっと強くならないと、大魔法使いに成れない!」
大きな体が震え、音が鳴るほど歯噛みしている。
「なあ、ウイロウは王室付き魔法使いだったんだよな? 人並み以上に魔法に長けているんだよな?」
「ええ。昨今の魔法大全や資料集に載る中級までの魔法なら、試していないものもありますが、一通りできます」
「それがどの程度なのかもわからない。Lv.1とLv.2以上って何が違うんだ? ケオやウイロウは、波撫でや、甲羅砕きを魔法じゃないって言ってたよな? ケオがランクもレベルも宣言せず使っていた障壁は何なんだ? 『ワースリーワーズ』って何だ? どうしてガルテススコアは使われなくなったんだ?」
迷子になった子供のように、ヨシヒトの砂虎色の瞳が揺れている。
「いっぺんには答えられません。落ち着いて・・・・・」
「ぜんぶ答えられるのか! ぜひっ」
「明日お答えします。今はまず休みましょう」
「……わかった。でも、ひとつだけお願いしたい」
ヨシヒトが、七重の膝を八重に折る。
「たしか、クスイはこうやって……」
頭に角は無いが、地に擦るような動作をする。
九十九折から百折不撓の想いを乗せ、願いを伝える。
「ウイロウ先生! 世間知らずな俺に、魔法を教えてください!」
「え、ええええええぇぇっっ!?」
一晩と経たぬうちに、師弟が交代したのであった。
【五曲目 ~Northern Wind and Suit Sweet Fire~】 16 × 2
月明りは舞い散る粉雪に散乱し、夜を灰色に染めている。
灰色の空に突き出した高い塔の上。風雪が入り込む最上階の部屋に、一人の少女がいた。
足は冷たい枷と鎖で繋がれている。
枷が足に擦れたのだろう。傷から血が滲んでいる。
少女は高い塔から遠くを見るのが趣味だった。
趣味というより、他にやれることがなかった。部屋に書棚と本は用意されていたが、本は凍り付いて読むことができない。
少女にはもうひとつ、趣味があった。
「ラーー ラララ -ラー ラーラ」
歌うことが趣味だった。
「ラーー ラララ -ラー ラーラ」
足の傷が塞がった。
少女は目が良かった。毎日、塔から遠くを眺めてるうち、どんどん遠くがハッキリ見えるようになっていた。
遠雷が聞こえる。
少女は何かを期待するかのように、窓に身を乗り出した。
遥か南の方で、大きな雲が意志を持って動いているようだった。
雷光が何度も空を照らし、遅れて音が届いた。
「もしや、勇者さま?」
勇者と呼ばれる存在は、光の剣を持ち、雷鳴を操ると言われる。
「あぁ、勇者さま。どうか早く、ワタクシを救ってくださいマシ」
少女はわずかに届く雷の音にあわせて歌う。
勇者に届くよう願いながら、歌声を高い塔から北風にのせた。
大きな城の高い塔。
塔の最上階に、少女はいた。
白狼の腹に寄りかかり、その頭を撫でながら、甘い板チョコレートをかじっている。部屋は気密性が高く、魔法で暖かく保たれている。
「ねえ、ケオ。先日みえた入道雲が、例のオトコノコの魔法でしたのでしょう? 如何だったのかしら?」
「規模はなかなかでしたが、破級のLv.1どまり。連歌も5040回で、かつての大魔法使いレンカには遠く及ばず。ですが、ウイロウ君も一緒でしたから、これからもっと伸びるでしょうね」
チョコレートの板がパキリと割れた。
「もぅ、そんなことを聞いてるんじゃないわ。カッコよかった?」
「ウイロウ君のことは気にならないんですね……」
「臣下からあなたの報告はすでに聞いているわ。ウイロウは、オトコノコと一緒に、この国に来るのでしょう?」
「えぇ」
「あなた、そのコの容姿については、身体が大きい、以外は何も報告してなかったらしいじゃない。ちょっと変身して見せてよ?」
少女は白狼の腹から頭を起こし、立ち上がった。
「はぁ、わかりました」
白狼が面倒くさそうに少女から離れ、姿を変えた。
2m近い大きな体。砂虎色の髪に、宵闇色の髪が爪で頭を握るように後ろから伸びている。髪と同じ砂虎色の瞳は鋭く、瞳孔が猫のように縦に長い。
変身したケオの姿を見て、少女は雷に打たれたように固まった。
手に持っていたチョコレートを落としたが、ケオが床に落ちる前に身をかがめて拾い上げる。
「どうぞ」
大きな体で片膝を着き、チョコレートを渡す。
オトコノコを模した野太い声を聞き、少女は耳介から全身を震わせた。
「……結婚しよ」
「は?」
少女は差し出されたチョコレートではなく、太い腕を取る。だけではなく、しがみつき始めた。
「デッカ……ふっと……。なにこれ、丸太みたいじゃない。硬さも再現してるのよね? 身体の大きな上位魔族でも、こんな筋肉はそうそういないんじゃない?」
「カコア様?」
ケオは意図せず少女の耳元で名前を呼ぶ。少女が再び震えるが、行き場が見つからない震えが鼻から出た。つまるところ、ハナヂが出ていた。
「大丈夫ですか?」
ケオがハンカチで少女の鼻を押さえた。
「だ、大丈夫。慣れているからすぐ止まるわ。それよりケオ。今日はその姿でワタクシと添い寝しなさい」
「え? イヤです」
「女王の命令が聞けないの?」
「契約は『この国を豊かにする』こと。王室付き魔法使いは国内で名乗る為の役職。カコア様との関係は中立対等ですから、命令を聞く義務は……」
「もぅ、貴方、頭は良いけど硬すぎるのよ。だからウイロウも愛想をつかして国を出ちゃったのよ」
「ウイロウ君は私に愛想、好意など持って無かったですよ?」
少女が腕に頬を擦りながら、うんざりした様子でため息をついた。
「いい歳した男が、優秀な妙齢の女性に劣等感を感じながら、それでも前向きに食らいついて五年も過ごしたのよ? 何も思わないわけないでしょう?」
「つい先日、本人から「そういう所が嫌いなのだ」と断言されましたが」
「好きの反対は無関心よ。貴方、なんでも予測できるのに、そういうのには疎いわよね」
ケオは、不信感を露わにするウイロウの顔を思い出した。
「さすがにカコア様の妄想だと思います」
ケオの言葉はすでに耳に入っていないのか、少女は腕からさらにすり寄って、腹に抱き着いている。
「あー、ヤバいぃ。頭の中になんかヤバい汁が出てる。匂いまでは再現してないのね。狼くさいわ。チョコを返して頂戴」
少女がチョコレートをひったくり、ニオイをチョコで上書きしてから再び腹に抱き着こうとする。
「いいかげん離れてください」
太い腕が少女を持ち上げる。
「そのまま、高い高い、して?」
「それくらいなら……」
腕を上に伸ばすと、少女の頭が照明器具に当たりそうになった。
「ねぇ、そのオトコノコの名前、なんて言うのかしら?」
報告は聞いたはずでは? とケオは思ったが、彼のことを「レンカの弟」と称して報告していたことを思い出した。
「ヨシヒトです。ヨシヒト・イスルギ」
「へえ。イスルギ……。たしか東国の古い、雷の系譜だったかしら? それに、ヨシヒトって……、ふふふ」
少女が笑いだす。
「空想上の『大食いの怪異』が、そんな名前じゃなかった?」
「……初耳ですね」
「貴方にも知らない事があったのね」
「空想の話は好みません。存在しないものに銘を打てば、時にそれは運命も歪めてしまう」
「あー、なんでしたっけ? 貴方が話していた、予言がなんたら、とか?」
ケオが少女を床に降ろした。
「予測言行。大禍を予言し、人々の意識に根付かせ、それを回避する運命に変える。だから大禍の予言はほとんどが当たらない。予言者への信用が高いほど外されます」
「それは良いコトなのでは?」
「怪異に銘を与えると、其れを恐れ、神と崇め、信じすぎると終にはありもしない存在に生贄を捧げるという愚行を犯します。今でも世界のどこかで行われているでしょう。存在を認識することで人々の意識を変えてしまう点は、似ていますが、信用による効果は予測言行とは真逆です」
少女が再び笑う。
「でも、空想上の存在だった海女は、貴方のお知り合いでしたのでしょう?」
「知性を持つ生物にとって『認識しないモノは存在しないと同義』です」
「それっておかしいわ? ありもしない存在を認識したら、存在することになるのでしょう?」
「だから、ありもしない怪異に銘を打つのは危ういのです」
少女がチョコレートに嚙みついた。
「ケオの話で頭が痛くなってきたわ。罰として、今夜はその姿で……」
「イヤです」
少女の口から涎が垂れていたのは、きっとチョコレートのせいだけではないだろう。
「ケチ! ケチケオ! こんな頭の硬い偽物ではなくて、本物の筋肉が御硬いヨシヒトさんが、早く来てくれないかしら」
カシの国の女王 カコア・ショコラ・カフィオレットは、甘い妄想に心を燃やしていた。
【五曲目 ~Fine.~】 32




