1 イーラの森
春になると、グウェン伯爵家の庭園は、数多くの花々で彩られる。
柔らかい陽射しを受けながら、伯爵の娘であるルナリアは足早に庭をぬけ、屋敷の裏手にあるイーラの森へと向かった。
十六歳になったばかりの彼女は、豊かなダークブラウンの髪とエメラルドのように鮮やかな緑の瞳の持ち主だったが、今は右の頬が赤く腫れ上がっている。
手を上げてくるのはたいてい義母か、義妹だが、今日は義母のほうだ。
右頬は熱を持って痛むが、長々と罵詈雑言を聞かせられるよりも叩かれたほうが早く解放してもらえる。
ようやく外へ出られたことにほっとしていた。
草に縁取られた小道をたどり森に入ると、いつもながら空気が変わるような気がする。
身の内がひきしまるような緊張感を覚えながら、さらに奥へと進んだ。
しばらく歩くと、陽当たりの良い開けた場所に出る。
小川が曲線を描いて流れるその地には、変わった姿をした木々が何本も点在していた。
樹高はおよそ三メートルで、この森の中では低いほうだ。だが、どれも皆、根元から一メートルほどの高さまで、幹が樽のように大きくふくらんでいる。
枝は幹の上部から四方に伸び、楕円形の明るい緑の葉を茂らせていた。その葉の間から、五枚の花弁を持つ白い花と、薄いオレンジ色の丸い実が、いくつも顔をのぞかせている。
〝イルド〟と呼ばれるこの木は、四季を問わず一年じゅう花を咲かせ、果実を実らせる。
ノルン大陸の各地に自生しているが、これほどひとところに密集しているのは、この森の中だけだ。
木々の間を歩きながら様子を見てまわると、一本だけ、幹に細い亀裂が走っているものがある。
(もうすぐ生まれるのね)
ルナリアはその木の前に立ち、祝福の言葉を贈る。
「新しくこの地に来たる命を歓迎します。願わくはその旅路が幸多きものでありますように」
しばらく待っていると、裂け目はどんどん大きくなっていき、そこから薄茶色の大きな塊が転がり出た。
塊は全体が粘り気のある樹液でおおわれている。
あらかじめ用意しておいた布でそれを包むと、小川で水をくみ、丹念に洗う。
樹液がすべて洗い流されると、人間の子供の姿をしたものがあらわれた。
イルドの木から生まれたものは皆〝リドル〟と呼ばれる。
彼らは人間の子供と同じ姿をしてはいるが性別を持たず、これ以上成長することもない。
個体差はあるが、二十年ほどこの姿で過ごし、その後、樹木に姿を変える。
新しく生まれたリドルは、ゆるやかに波打つ豊かな金色の髪と、深い海のような青い瞳の持ち主だった。
磁器のようになめらかな白い肌をしており、リドルを見慣れているはずのルナでさえ、思わずため息をついてしまうほどの美しさだ。
(本当に綺麗な子だわ)
イルドの木はリドルとして生まれ、樹木に変化した後は百年以上生きるが、五、六年に一度の割合で子供を産む。
新しく誕生したリドルの容姿を見て、ルナは用意してきた衣装の中から、飾りのない、淡いピンク色のシンプルなドレスを着せた。
親である木から果実を採って与えると、リドルはそれをしげしげとみつめてから、皮ごと口の中に入れた。
生まれ落ちたリドルは、イルドの実を食料とするが、動き回らずじっとしていれば、水だけで生きていくことができる。
「ルナ」
突然、背後から声をかけられても、ルナリアは驚かず、ゆっくりと振り向いて声の主を見た。
腰のあたりまで流れる緑色の髪に、濃い茶色の瞳。髪よりもずっと淡い黄みがかった緑の衣が、ゆったりと全身を包んでいる。まるで樹木の化身のような姿だ。
彼は〝守護者〟と呼ばれる、この森でもっとも長寿のイルドの木の樹霊だ。
百歳を過ぎたイルドの木には精霊が宿るが、守護者はすでに百五十年近く生きていると言う。
「また殴られたのか」
「いつものことよ」
ことさら何でもないことのように答えた。
頬をぶたれた直後は衝撃で頭がぼうっとしていたから、今になって痛みを感じている。
ルナリアが十二歳の時に母が病で亡くなると、父は一年と経たぬうちに後妻を迎えた。
相手は、子爵であった夫と離縁したばかりの母の妹、つまり、叔母だった人だ。
連れ子である従妹は伯爵家の養子に入り、ルナリアの義妹となった。
もともと父とはそりがあわなかったが、このことで嫌悪感を抱くまでになった。
義母と義妹はルナリアを疎み、何か気に入らないことがあると、すぐに暴力を振るうようになった。
最初は見えないところを殴ったり、蹴ったりしていたが、父が何も言わないので、堂々と頬をぶつようになった。
数え切れないほど何度も暴力を振るわれ、痛みには耐えられても顔を殴られる屈辱にはどうしても慣れることができない。
自尊心までどんどん削られていく気がする。
「顔色が悪いな。ちゃんと食事は摂れているのか?」
食事はひとりで摂るように言われているが、それすらも罰と称してたびたび抜かれる。
使用人たちも義母の目が光っているせいで、見て見ぬふりをするばかりだ。
「昨日は食べられたわ」
嘘はつきたくなかったが、本当のことも言いたくない。
守護者は黙って姿を消したかと思うと、いくらも経たぬうちに草で編んだ小さな袋を持って戻ってきた。
「持って行け」
見なくてもわかる。
袋の中身は水晶のように透明で、指の先ほどの小さな塊。イーラの木の樹液だ。
木の幹から流れ出た樹液は、空気にふれると固まり、丸く粒状になる。
イーラの樹液は生物の傷や病の回復を助け、滋養強壮の薬となる。
だが、木を傷つけられるのを防ぐため、この事実は公になっておらず、知る者はほとんどいない。
樹液はイーラの木にとって血液のようなもので、絞り出そうとすると苦痛を伴うと聞く。
「守護者、わたしは大丈夫だから、こんなことはしないで」
初めてもらった時、申し訳なくて辞退しようとしたのだが、守護者は叱りつけるように言った。
「おまえに死なれては困る。祝福の言葉が受けられなくなるからな」
それからずっと、ルナリアが傷つくたびに守護者は樹液を分けてくれる。
あまりにひんぱんで心苦しくなったが、この森のイーラたちが交代で提供してくれるのだと聞き、ありがたくて涙が出た。
「いつもありがとう」
袋から一つ取り出して口に含むと、ほんのり甘い。ほっとして心が緩む。
たびたび食事を抜かれてもなんとか動けているのはこれのおかげだろう。
一粒食べたら痛みが引き、空腹もやわらいだので、残りを上衣のポケットに入れた。
生まれたばかりのリドルは親であるイーラの木に抱きついて甘えているようだ。
すでに次の主が決まっている。
まもなくここを発つことになるだろう。




