三
温かい。凄く温かい。というか熱い。なんだか凄く熱くなって来た。
「熱い熱い熱い」
俺は叫ぶように言いながら目を開けた。俺はタオルケットのような物にくるまれていた。これのせいか? なんだか凄く熱いぞ。
「マー姉ちゃん。起きました。キリツギさんが起きました」
幼い女の子の声がした。
「マジ? 起きた?」
別のさっきの女の子よりは年を経ていそうな女の子の声も聞こえて来た。
「ほら。マー姉ちゃん見て下さい」
俺の体が唐突に抱き上げられた。うおっ? 高い。危ないって。
「うわー。かわいい。目がくりくり」
赤みの強い茶色の髪をした女の子の顔が目の前に現れたと思うと俺の顔に顔を擦り付けて来た。
「こら。近い。近いってば」
赤みの強い茶色の髪をした女の子が顔を離すと不思議そうな表情をしながら小首を傾げた。
「何か言ってるのかな?」
「分かんないですね。ワンワン言ってるだけにしか聞こえません」
俺の体がくるりと回されると黒髪の茶髪の子よりも幼い女の子の顔が目の前に現れた。
「倫子。これ、本当にキリツギか?」
「分かりません。けど、あのお墓から出て来たんですよ?」
おいおい。一体何がどうなってる?
俺の名前は、えっと、なんだったか。思い出せない。ああ。そっか。いつもそうだったかも知れない。だがコードネームは覚えている。キリツギ。そう。そうだ。俺は自分をキリツギと呼んでいる。二十歳の男で軍国主義普及委員会の生体兵器実験部隊に所属しそこで与えられた死んでも必ず生き返るという能力を使って実験という名の作戦に参加している。
不意に俺の頭の中に自分に関する記憶が浮かんで来た。俺はもっと自分の事を思い出そうとしたがこれ以上は何も思い出す事ができなかった。そうか。俺は死んだんだな。
「俺の事を知ってるのか?」
この二人は俺の事をキリツギと呼んでいた。
「また何か言ってるみたいです」
「おーい。ワンワンばっかじゃ分かんないぞキリツギ。人の言葉は話せないのかよー?」
この子は一体何を言ってるんだ?
「俺の事よりもそっちはなんだ? 何者だ? 俺の事知ってるのか?」
「言葉は分かってるみたいなんだよな。これってあれか? こんな事になってパニクってんのか?」
「ワンワンワンワン激しく吠えてます」
パニクってなんてない。ワンワンワンワン激しく吠えてもいないぞ。ん? なんだ? なんかおかしいぞ。今この子ワンワン吠えてるって言ったよな? 俺の耳がおかしいのか? いや。そういえばもう一人の子もワンワンばっかじゃ分かんないとかなんとか言ってたよな?
「倫子。鏡持って来てみ。キリツギまだ自分の姿見てないでしょ? 見せてみよ」
「分かりました」
倫子と呼ばれている幼い方の女の子が俺をマー姉ちゃんと呼ばれている方の女の子に渡すとどこかへ駆けて行った。あれ? ちょっと待った。俺を渡すとってなんだ?
「はい。マー姉ちゃん。鏡です」
「サンキュー倫子。ほい。キリツギ。これ見てみ」
マー姉ちゃんの手から再び倫子の手に渡された俺の眼前にマー姉ちゃんが丸い小さな手鏡を差し出した。
「え? あ? お? う? へ? は? あの、俺、……。俺は? えっと、人じゃないの?」
手鏡を持っているマー姉ちゃんが大きな声で馬鹿笑いをした。
「何この反応。これ犬じゃないよね? 中身絶対人だよね?」
「かわいいです。マー姉ちゃんの言う通りです。これ犬じゃない反応です」
倫子の方も控えめにかわいい笑い声を上げた。
「このおおお。笑ってんじゃないいい。この状況になったら誰だってこうなる。なんだこれ。俺はどうすりゃ良いんだよっ」
俺はワンワンと手鏡の中にいるかわいい小型犬を見つめながらこれでもかと激しく吠えた。
「はあー。笑った。こんなに笑ったのは久し振りだ」
「マー姉ちゃん。キリツギさんの事どうしましょう。このままじゃ困ります」
「そうだね。これじゃ何もさせられない。それにこんなにちっこくてかわいいとはいえ犬を飼うほどの余裕はうちにはないもんな」
なんだこの話の流れは。あれか? これは俺を捨てる気か? 俺は誰か拾って下さいとか書かれた段ボール箱の中に入れられてその辺の道端に放置されるのか?
「俺は人だぞ」
そう吠えてからはっとした。本当にそうなのか? 俺、記憶が全然ないよな。ひょっとしてこれって俺は自分の事を人だと思ってるただの犬とかって事だったりするのか? 俺は鏡の中にいるかわいい小型犬の顔をじいーっと見つめながら悩み始めた。
「キリツギ。どうした?」
「急に静かになりました」
心配そうな声で二人が言った。
「ほっとけ。俺は今自分という存在について深くふかーく考えてるんだ」
だあー。ワンワン言ってる。やっぱりこれ俺だよな。今鏡の中の犬がワンワン言ってるもん。
「犬になったと知ってショックを受けてんのか? あれだ。そう落ち込むなキリツギ。人に戻す方法はあると思う」
「なんだと? 今、人に戻すって言ったよな? 俺は人だって事なんだよな? おい。マー姉ちゃん。お前は一体俺について何を知ってるんだ? なんでも良いから教えてくれ」
俺はマー姉ちゃんの顔に視線を移しながら吠えたてた。
「この反応、きっと戻りたいって言っていると思います」
「ちがーう。そうじゃなーい。俺について知ってる事を教えてくれと言ってるんだ」
「なあ、倫子。あーし、思い出した事があるんだ」
「くっそう。全然言葉が通じなーい」
「急にどうしたんですか?」
マー姉ちゃんが俺の顔を見つめ返して来た思うとすぐに顔を倫子の方に向けた。
「キリツギの死体を埋めた公園あるだろ?」
「人の死体を公園に埋めたんかーい」
「はい」
「キリツギを埋めてからすぐにあそこに子供達が犬の死体を埋めたんだ。あーしたまたま通り掛かった時に見たんだよ。何人かの子供達が泣いたり喚いたりしながら穴掘ったり埋めたりしてたんだ」
倫子が俺の体をくるりと回して俺の顔を自分の顔の方に向けるとじっと見つめて来た。
「これがその犬っていう事ですか?」
「そう。キリツギは生き返る時近くにある死体を使うんじゃないかな。だから犬になったんじゃないかって思うんだけど」
「そんな馬鹿な。死体を使うって。死んでんだぞ? だったら死んだ自分の体をもう一度使っても良いじゃないか」
「それなら自分の体をもう一回使っても良いと思います」
倫子。ナイス代弁。さっきは俺の反応から違う事を読み取ってたが今回はドンピシャだ。
「そうなんだよ。そこなんだよな。なんかあるんじゃない? 例えば、一度使った体は駄目だとかなんかそういう条件みたいなのが」
倫子が俺の頭を優しく撫でて来た。はわわわ~。なんだこれ~。体の奥がぞわぞわして気持ち良い~。
「マー姉ちゃん。試せば分かる事です。ちょっとかわいそうですけど、やりますか?」
はうー、やってええー。もっと撫でてえええぇぇー。
「そうだな~。だけど、こいつかわいいもんな~。前のキリツギなら全然平気だったけど、これはちょっとー。ねえ倫子、本当に良いの? さっきは飼う余裕なんてないって言ったけど多少我慢すれば飼えない事もないよ」
倫子の俺を撫でる手が止まった。
「おいおい。撫でながらで良いじゃないか。なぜ手を止める?」
俺は倫子の顔をじーっと見つめながら吠えた。
「かわいいだけじゃ駄目です。これじゃ何かあった時に役に立ちません」
倫子の手がまた動き出した。はうーん。良いぞー。
「撫でられるの好きみたい。凄い喜んでる。でも、まあ、これがあのキリツギだと思うとなんか微妙な気もするかな。ねえ、倫子。今回はあーしがやる」
マー姉ちゃんが両手を俺と倫子に向かって伸ばして来た。
「どうしてですか?」
「どうしてってそれはあれだよ。さすがにこれは倫子に殺させたくない」
はきゅーん。もっと撫で撫でしてえええぇぇー。
「大丈夫です。私はなんとも思っていません。簡単に殺せます」
倫子の手が止まった。
「なぜ止めた。いよいよ盛り上がって来た所だったのにいぃ。もっと。もっとだ倫子。もっと俺を撫でるのだー」
俺は倫子に向かってねだるように吠えた。
「そう言われてもな。見た目だけだけど、こんなかわいい犬を倫子が殺すと思うとなんかさ。とにかく今回はあーしが殺す。さくっとやるからこっちに貸しな」
マー姉ちゃんの手が俺に触れる。
「マー姉ちゃんよ。お前も撫でるのだ。二人に撫で撫でされたら二倍だ。二倍の気持ち良さだ。ひゃっはー」
「駄目です。私がやります」
倫子が俺を隠すように体の向きを変えた。
「おいー。なんだ急に? どうした?」
「倫子。やっぱり殺したくないんだろ?」
ん? やっぱり殺したくないんだろ? この二人なんの話をしてるんだ? まったくしょうがないな。俺はもっともっと撫で撫でされたいという欲求をぎゅっと抑えると二人の会話に耳をそばだてた。
「そんな事ないです。私はマー姉ちゃんに殺させたくないんです。マー姉ちゃんばっかりにさせたくないんです。私だってできるんです。この前だってやったじゃないですか」
なんだなんだ喧嘩か? 喧嘩なんてやめて俺を撫でろって。ふかふかのもふもふだぞ~。俺を撫でれば喧嘩なんてすぐにやめたくなるぞー。はっ。いかん。恐るべし撫で撫での誘惑。二人の会話を聞こうと思ってたのにいつの間にか負けてしまっていた。
「倫子はもう殺さなくて良い。こういうのはあーしの仕事だ。倫子は普通の女の子として生きな。キリツギが人になったらこういう仕事は全部やってもらう。これが最後だからさ。倫子。キリツギを貸しな。こいつはあーしが殺す」
俺の耳はおかしくなってるのか? 今、こいつを殺すって言ったよな? こいつって、俺だよな?
「この前だってやったんです。今度も私がやるんです」
倫子が俺の首をいきなり締め始めた。
「お、お、おお、おい。いきなり、なんだこれ。殺すって本気かよ」
ぐいぐいと首を締め付けられ俺はすぐに息ができなくなった。く、くく、苦しい。駄目だ。このままじゃ死んでしまう。どうせ生き返るのだろうが、このまま、こんな何がなんだかさっぱり訳の分からないままで、こんなにも苦しい思いをして死ぬなんてのは納得がいかない。
「くっそう。小型犬を舐めんなあああ」
俺は肺の中に残る僅かな空気を吐き出しながら自分でも良く分からない言葉を叫びつつ、いや、吠えつつ、倫子の手を思い切り両前足と両後足で押した。
「痛い」
爪が刺さるか食い込むかしたのだと思うが正確な所は分からない。倫子が声を上げると首を絞めていた手から力が抜けた。今がチャンス! 俺は倫子の手の中から抜け出すと脱兎のごとく駆け出した。
「キリツギ」
「待って下さいキリツギさん」
そう言われて待つ奴がいるか。人を、いや、犬を、……。どっちでも良いがいきなり殺そうとしやがって。俺は部屋の中を走り回って追って来る二人から逃げながらこの部屋の中から外に出られる場所はないかと必死に顔を巡らせて周囲を見回した。部屋は四角い形をしていて四方を囲む壁にはどこにもドアなどは見当たらない。窓はあるにはあったが、どう頑張っても今の俺には届きそうにない位置にある。これはもう駄目か? と思いながらも諦めずに周囲に目を配りながら走り回っていると壁際の所の床にぽっかりと開いている四角い穴を見付けた。二人を引き離す為に一度反対側の壁際まで行き二人を引き付けてから猛烈な勢いで走って穴の所に戻って下を覗くと穴の縁に金属製の階段が繋がっていてその階段が下に向かって伸びているのが見えた。なんでもっと早く気付かなかったんだこんちくしょー。俺は飛び込むようにして穴に入ると階段を一気に駆け下りた。
「こらキリツギ」
「待って下さい。行っちゃ駄目ですキリツギさん」
だからそんな風に言われて待つ奴がいるかっての。階段から床の上に下りた俺は上の部屋と同じように四角い形の部屋の中を先ほどと同じように外に出られそうな場所はないかと必死に顔を巡らせて周囲に目を配りながら走り回った。
「キリツギ。逃げてどうする気よ?」
「人に戻せるか試す為に殺すんです。逃げないで下さい」
二人が階段から駆け下りて来た。俺は倫子の言葉にああ、なるほどと一瞬納得し足を止めたが首を絞められた時の苦しさを思い出すとあれはもう嫌だと思いとりあえず二人から遠ざかる為に駆け出した。
「もっと楽な方法で殺せば良いじゃないか」
俺は二人からある程度の距離をとると再び足を止めてワンワンワワワンと吠えたてた。
「残念だったなキリツギ。もう逃げ場はない。倫子。ゴミ箱とお風呂の蓋を持って来な。それを使ってキリツギを追い込んで捕まえるんだ」
「はい」
マー姉ちゃんの隣にいた倫子が返事をするとくるりと体を回して反対側を向き歩き出そうとしてからまたくるりと体を回すとマー姉ちゃんの方に体の正面を向けた。
「ゴミ箱は外です。玄関のドアは開けない方が良いと思います」
「そうだったっけ。でも、持って来な。すぐに閉めれば出られやしないから」
「はい。分かりました」
倫子が不安そうな様子で返事をしてからくるりと体を回して反対側を向き歩き出す。俺は倫子の行く先に目を向けると、倫子がこれから向かい開けるであろう玄関のドアを探した。倫子が近付いて行く壁にドアを見付けるとあそこにあったのかと思いながら俺は神経を研ぎ澄まして玄関のドアが開かれる時を待った。倫子がドアノブを掴んで回しドアを開いた瞬間、俺は猛烈な勢いで玄関に向かって駆け出した。
「倫子。ドアを早く閉めな」
「そんな無理、だからさっき、あ、ああ~」
酷く慌てていたようなので手でも滑らせてしまったのか倫子がドアを大きく開いてくれた。
「倫子あんがとさん」
ワンワンとお礼の言葉を吠えながら俺は開いているドアの間から四方を囲む壁のない自由の天地へと侵入した。
「こら。待てキリツギ」
「キリツギさん駄目です」
外に出ればこっちのもんだ。どう頑張っても俺に追い付く事はできまい。俺は家の前の左右に向かって真っ直ぐに伸びている道をなんの考えもなしに右に折れるとそのまま道に沿って二人の姿が見えなくなるまで走ってやろうと思い四本の足に力を込め加速した。
「ぶぎゅううぅぅ」
加速し調子良く走っていると目の前に不意に黒い何かが現れ俺はその何かを避ける事ができずに思い切りぶつかった。
「馬鹿野郎。人の、……。俺の前にいきなり出て来るんじゃない」
俺は黒い何かに向かってワンワンと怒鳴った。いや。吠えた。
「ぐるるるるっるるるっるるるる」
黒い何かが俺の吠え声に応じるように恐ろしく迫力のある唸り声を上げた。おう? なんだこいつ? 俺は数歩後ろにさがって黒い何かが何者であるのかを確認した。
「がるるるるるるっるっるるるるるる」
うわーうわーうわー。犬だこれ。でかい。口も足も体も何もかもがでかい。しかも怒ってる。凄く怒ってる。
「すいませんしたー」
俺はそう吠えるとくるっと回って来た道を戻ろうとした。
「がおうおーん」
その咆哮は聞いた者を恐怖させずにはおかない正に巨獣の咆哮といった感じの物だった。びくっとなって足がすくんだ俺はその場から一歩も動けなくなってしまった。
「いや。すまん。ぶつかったの悪かった。だからそんなに怒るなって。ああ。あれか? 本当は怒ってないとかか?」
小刻みにぶるぶると震え出した体をなんとか動かして大型犬の方に向き直ると同じ犬同士だし話せば分かるよなとかこれだけ体がでかいのだからきっと器もでかいよなとか自分にとって都合の良い事ばかりを考えつつワンワンと話し掛けてみた。
「がおおううおおーん」
ひいぃっ。駄目だ。話し掛けるとかそういう問題じゃない。吠えても無駄だ。これ言葉と違う。まったく通じてない。
「こら。この馬鹿犬。キリツギに何すんだ」
「あっちに行って下さい」
背後からいきなり抱きかかえられたと思うとマー姉ちゃんと倫子の声がした。
「助けに来たのか?」
俺は振り向き自分を抱いてくれていたマー姉ちゃんの顔を見ながら吠えた。
「倫子。キリツギを」
マー姉ちゃんが俺を隣にいる倫子に向かって差し出した。
「マー姉ちゃんは? マー姉ちゃんはどうするんですか?」
倫子は俺を受け取らない。
「早くしろ。あーしがこいつ引き付ける。その間に逃げるんだ」
引き付ける? 無理だ。きっとすぐに追い付かれてへたをしたら噛み付かれるぞ。そうなったら女の子一人でどうにかなる相手じゃない。
「駄目です。マー姉ちゃんこそキリツギさんと一緒に逃げて下さい」
倫子が不意に俺達の前に出ると左右の手を横に向かって伸ばしながら叫んだ。
「駄目。前に出るな」
マー姉ちゃんが片手を俺から離すと倫子の肩に手を掛け倫子の体を後ろに強く引くようにしながら前に出た。
「マー姉ちゃん。早く行って下さい」
マー姉ちゃんに引っ張られ転びそうになりながら数歩後ろにさがった倫子がまた前に出ようとした。
「がうおおーん」
大型犬が吠えると四本の足が力強く地面を蹴り倫子に向かって飛び掛かった。
「倫子」
倫子の上げた悲鳴とマー姉ちゃんの叫び声が重なった瞬間マー姉ちゃんが俺を放しながら倫子を横に突き飛ばした。マー姉ちゃんの右腕に大型犬がマー姉ちゃんの手に並ぶ指と同じくらいの太さの犬歯を思い切り食い込ませながら噛み付いた。
「マー姉ちゃん」
倫子が悲鳴のような声で言った。
「あーしは平気だ。さっさと逃げな」
マー姉ちゃんが必死になんともないというような表情を作りながら普段の時のような声を出す。
「俺のせいだ」
俺は大変な事になってしまったと今更ながらに自分の行動の結果が招いた事態に恐怖し焦りながらマー姉ちゃんに駆け寄った。
「キリツギ。倫子を頼む。家に連れて帰ってくれ。あーしはこいつを片付けてから戻るから」
倫子の視線が大型犬に向かった瞬間、俺はマー姉ちゃんの顔が苦痛に歪むのを見た。
「マー姉ちゃんを放して下さい」
倫子が大型犬に近付くと大型犬の口を開こうと手を口の中に入れようとし始めた。
「倫子。何してんだ。逃げろ」
大型犬が倫子の方に目を向けるとマー姉ちゃんの腕から口を放した。
「マー姉ちゃん良かったです」
倫子がマー姉ちゃんの噛まれた右腕を労わるようにしながらにそっと両手で包むように握った。
「倫子早く逃げろ。この馬鹿犬。こっちだ。あーしにしろ。倫子には手を出すな」
マー姉ちゃんが大型犬の顔を傷付いていない方の左手で殴った。大型犬は殴ったマー姉ちゃんには目もくれないでマー姉ちゃんの腕から流れ出た血と涎に濡れた口を大きく開き血に塗れた黄ばんだ犬歯を剝き出しにしながら唸ると倫子の喉に噛み付こうとした。
「俺も窒息するだろうがお前も道連れだ。マー姉ちゃんの腕を噛みやがって」
俺はワンワンと叫びながら駆け出すと大型犬のこれでもかと大きく開かれている口の中に頭から飛び込んだ。
「もがぶがごおうーん」
不意を突かれ口の中に飛び込まれた大型犬が苦しそうに咆哮した。俺は全身を使って大型犬の口の中を奥に向かって進むと喉を塞ぐ位置まで行き絶対にそこから動かないようにと思い切り四肢に力を入れて踏ん張った。
「キリツギ」
「キリツギさん」
マー姉ちゃんと倫子が心配そうに俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
「首を絞めて俺を殺そうとしてたくせになんて声を出してんだ。だが、こんな事になるのなら逃げなきゃ良かった。マー姉ちゃんの腕、傷にならないと良いんだが」
呼吸ができなくなって来て意識が遠退き始めこれはもう時間の問題だと思うと俺はワンワンと小さな声で独り言を言ってみた。いや違った。吠えてみた。