11月28日
私は昔からどこか冷めていた。それは何事にもそうであり、例えば幼稚園の頃で言えば周りが騒いでいると先生が注意しに来る。それを分かっていても幼い子供達はどうしても騒いでしまうものだか私は違っていた。何故みんな注意されると分かっていても騒いでいるのかと、見下すようにー見下していたつもりはないが、これが見下すということなのか判別がつかないー静かにしていた。この静かにしているという行為はそのあとの学校でも続いた。要するに分かっていても止められない、ということが私にはなかった。若い人がライブで大声をだし盛り上がっていたり、写真に写るためにはしゃいでいたり、大学生がハロウィンの日に仮装して大学構内をうろついたりすることに一歩離れたところから見ることが多かった。
もちろん、写真に写るためにポーズをとったりすることはあったがそれは無言の圧力を周りから感じとりー実際にそれがあるかどうかは置いておいてー自分の意思と反してその行動をするのであり、心から楽しむことはなかった。むしろ自分はなんでこんなことをしているのかと自問することが多かった。つまり無我夢中になれないのだ。どこかで自分がしていることを一歩引いたところから見てしまうことが多く、それは現在でもそうである。だから今でも写真に写るためにポーズを取るのが苦手であるし、ライブで大声を出したりすることはあってもそれは自分の心からそうするのではなく、周りに合わせ、空気を読んでそうするのであるし、ハロウィンなど自分には無縁であった。だからそうやって無我夢中になれる人というのが羨ましく思えた。
この日は友達の誕生日であった。どこか冷めている私は誕生日を祝うということにも疑問を感じていた。何故誕生日を祝うのだろうか、何がめでたいのか、自分が生まれた日なんて自分は覚えていないのに。仮に嘘の誕生日を周りに教えたらその日を祝うことになるのだか、そのなんとも滑稽な誕生日会は簡単な嘘ひとつで起こりうるのだ。そんな危ういバランスで成り立っているのが誕生日だ。そう考えると祝う気持ちも冷めてしまうのだが、「空気を読んで」誕生日お祝いメールを友達に送った。名は木藤さんといい、最近はそれほど仲良くしていない。なのになぜ送るのかというと、私の誕生日にそのお祝いメールが誰からも来なかったからである。
私の人望の薄さに気づかされるできごとは誕生日であった。祝う意味を考えてしまう私だが誰からもお祝いしてもらえないというのはとても悲しいことであった。誰でもいいから私にメールを寄越せ、と思ったものだがとうとう最後までお祝いメールが来なかった。その原因を一日考えた結果、私が冷めていて、誰にも誕生日お祝いメールを送ってないからだという結論に至った。
この出来事から、なるべく誕生日をお祝いしてその見返りとして私の誕生日も祝ってもらおうと考えたのであるが、これがうまくいくとは思えない。そもそも何人の人が私の誕生日を覚えているのか。大学の友人にきいて何人が正解するのか。高校の友人は何年も会ってないが何人が覚えているのか。そうも考えたが他にお祝いしてもらえる方法が思い浮かばないのでとりあえず友達にお祝いメールを送るという作戦に出たのである。
小さな一歩を踏み出し、クリスマスまでに彼女を作るという作戦をスタートさせたのである。むろん、お祝いメールを送った友達は女の子である。




