48 アイリーンの懺悔
……無理だ。
……何故だ。
ふたつの単語がネリアの頭の中を駆け巡る。
目の前にいる存在は、まぎれもなくこの世界最強の存在のひとつだ。
小山よりも巨大な体を、翼を用いて重力など無いが如くに空を自由に飛翔し、邪魔なものは金剛石より硬いその爪で引き裂き、岩をも溶かす火炎の息で蹂躙する。
そのような生物界の頂点である龍、それも数千年の年を経てあらゆる経験を積み重ねた古龍が、こちらに敵意を向けている。
その体内には魔力の高まりが感じられる。おそらくは数万度の火炎の息。食らえばありとあらゆる生物は骨も残さず焼き尽くされてしまうだろう。
この状況での生還は、はっきり言って無理のはずだ。
だがしかし、ネリアには生命の危機を示す『アラート』は感じられない。
どういうことなのか。
ハルやミリーナ、アイリーンは跡形もなく蹂躙される中、自分だけは辛うじて助かるのか。もしくは、アラートが機能不全を起こしているのか。
どちらの場合でも恐らく自分は無事では済むまい。
全身を焼け爛れさせながら半死半生で辛うじて命を繋ぎ、治癒もままならない前世のような姿のままで寝たきりで生涯を過ごすことになるのか。
それは、さすがにネリアも避けたい未来であった。
「申し訳ありません」
思わず、ネリアがミリーナに告げた。
「はい?」
『ホリヴィス』の威圧に、半ば泣き笑いの表情を浮かべているミリーナが返事をする。
「私やハルさんに同行することがなければ、少なくともあなたはこんな目に合わずに済んだはずです。本当にすみませんでした」
その言葉は、ミリーナが間もなく死を迎えることを前提にした台詞だった。
だが、その言葉への返事は、ネリアの予想を超えたものだった。
「……構いません、私が選んだ道ですから。それに、ハル兄ちゃんと一緒にいられるなら、そこが私にとっての楽園です。たとえどんな目に合おうとも」
ネリアはその言葉を聞き、何となくに敗北を感じた。
おおよそ恋愛とは縁のない前世だった。現在のダークエルフのこの身でも、身を焦がすような恋愛の衝動を感じたことはない。
だが、目の前の少女は確かにそれを持っている。それに殉じて命を捨てる覚悟さえできている。
その事実が、ネリアにとって途方もなく羨ましく映った。
そして、ミリーナのその言葉はハルの耳にも入っていた。
『……ありがとう』
ハルは心の中でミリーナに感謝した。
そして、その直後。
鼻先で倒れた龍の身体をつつき、その命が絶えたことを再確認した『ホリヴィス』が言葉を発した。
『小さきもの達よ、この争い、そなたらの勝手な行いか? それとも、何か我々に非があったのか?』
龍が喋った。
これだけでも、ハルやネリア、ミリーナには驚愕の出来事であった。
「……人の言葉を話せるのか」
ハルが、ようやく腹の底から絞り出すような声で喋った。
そしてそれに応えることもなく、『ホリヴィス』は言葉を続ける。
『どうした? 応えよ』
次にその沈黙を破ったのは、アイリーンだった。
「ああそうさ。何しろ古龍は端から端まで高く売れる。そのダークエルフのお嬢様を騙してここまで案内させ、手頃な獲物を狩ってずらかろうとしていたところさ」
アイリーンが『ホリヴィス』を挑発するような言葉を吐いた。
そして、ハルたちはその言葉に動揺する。
……まさか。
……そんなはずは。
だが、その疑問が今この場で解消されることはなかった。
『ならば、何も言うまい』
『ホリヴィス』の体内の魔力濃度が急速に上がっていく。
間違いなく『火の古龍』最強の一撃である火炎の息で周囲を焼き払うつもりだ。
もはや逃げたり物陰に身を隠してどうなる状況ではない。盾にした障害物ごと焼き尽くされてしまうだろう。
アラートが未だに発動しないネリアはともかく、ハルとミリーナは死を覚悟した。
だが、次の瞬間。
『ホリヴィス』が火炎の息を吐くための魔力の上昇を、アイリーンが邪魔した。
「まあ、待ちなよ。愛しい子供の敵、ただ焼き払ってもつまらないだろう? いっそのこと、一人ずつ頭から喰らってやったらどうだい?」
アイリーンが、『ホリヴィス』をさらに挑発するような言葉を吐いた。
「せっかく食べるならさ、そこのガキどもや、筋張ってそうな男の肉は旨くないんじゃないか? あたしを見なよ。まずは一口、この柔らかそうな肉はお気に召さないかね?」
そして、アイリーンは身に着けていた革鎧と下衣を脱ぎ始める。
理解不能なその行動に、ハルやネリア、ミリーナはただ唖然とすることしかできなかった。
晒されたアイリーンの裸身。
その全身には、奇妙な図形が描かれていた。
ミリーナが呟く。
「あれは多分、詠唱した魔法の効果を高めるための紋章です。魔力が込もった染料であれを一度書き込んだらそうそう簡単には消えません。そう、下手すれば一生……。身体を拭く時に、彼女が一緒にいようとしなかったのは、あれを見られたくなかったから?」
そして、同時にアイリーンは魔法を唱え始めた。
「……アイリーン・カグヤ・ロウンフェルトが真名をもって命じる。我が身を食み、己が血肉とした者の意思を奪い、我が物とせよ。……魅了」
アイリーンが静かに真名を込めた詠唱を完成させる。
そして、そこまで怪しげな動きをしたにも拘らず、『ホリヴィス』は火炎の息のための魔力蓄積を解き、その巨大な咢を大きく開けてアイリーンを食らおうとしていた。あるいは、この時点で既に、アイリーンの『魅了』が作用していたのかもしれない。
次の瞬間、ネリアはアイリーンが腰の裏に隠している多数の物体に気づいた。
……あれは、魔封石。
魔力や呪文を予め込めることでその場で魔法を発動させることができる魔道具。
そしてネリアが見る限り、その魔封石には全て限界まで魔力が込められているように感じられた。
あの魔封石に込められている魔法は一体……
そしてその直後。
『ホリヴィス』がアイリーンの頭……いや、腿までを含むほぼ全身を、その大きな咢で噛み砕いた。
「アイリーンさん!!」
ハルが思わず叫ぶ。
だが、その叫びが届いていたかどうかも分からない刹那の次の瞬間、『所持者の死』を発動のキーワードとされていた魔封石が一斉に発動する。
そして、そこに込められていた魔法は『魅了』。
アイリーンが数か月にわたって貯め続けていた、通常唱えられる全力の数十倍での『魅了』が、『ホリヴィス』の口の中から直に巨龍の脳に叩きこまれる。
『魅了』の魔法が最大の効果を放つ条件。
『感情を持つほどの知的生命体が理性を忘れる』程の怒りの状態で。
先程までうるさいほどに頭の中で鳴り続けていた『アラート』がようやく止まり、アイリーンは薄れゆく意識の中でようやく落ち着くことができた。
……つまらない人生だった。
アイリーンは、転生の前の自分の生涯を思い返す。
かつての自分は、ある特殊な役割のために生かされていた。
『尊いお方』とやらと、その方と血縁を結ぶために生まれながらに婚姻を強いられる娘。
そしてその間に万が一子供ができない時、代わりに『尊いお方』とやらの子を産む。
それを生業としていた一族だった。
幼いころから、家から出ることは許されなかった。それこそ一切の虫がつかないように。
学校にすら行くことは許されない。ただ最低限の常識と、閨で男をその気にさせる技術だけが教え込まれた。
そして、その教育が役に立つ時が来る。
顔も初めて見たような、名も判らない男に抱かれた。
そんな日々が数か月続いた後。
子が生まれた。男の子だった。
だが、その子は自分が乳を与える間もなく引き離された。
『子供にふさわしい英才教育を行うため』との名目で。
その後、同じように産んだ男の子一人と、女の子二人。
同じように引き離された3人の子は、もはや母の顔さえ覚えていないだろう。
彼らのことが気にならないと言えば嘘になるが、おそらくは幸せに暮らしている事だろう。そこに心配はなかった。
彼らをこの世に産み落とす。
自分はそのためだけに、多額の金と時間をかけて今まで生かされていたのだから。
それだけの役目を果たして、ようやく彼女は解放された。
とはいえ、『監視付きの屋敷の中で何をやってもいい』という程度の自由ではあったが。
彼女は、渡された相当な額の手切れ金を使い、無数の本を取り寄せた。そしてそこで紡がれる物語に思いを馳せた。
既に老境に差し掛かろうとしていた彼女の心を最も揺り動かしたのは、恋物語だった。
自分は経験することはなかった、愛しい人との出会い、そして恋、そして交わり。
年甲斐もなく、胸を弾ませることも度々あった。
そして、ある日。
身体検査で治療不可能な腫瘍が見つかったその日、彼女の下にある女性がやってきた。
『つまらない人生をお過ごしの貴女に、もっと楽しい人生を提供してさしあげます』という口説き文句と共に。
一生に一度の冒険をした。
監視の目を潜り、屋敷を抜け出し、女性が指示したバスに乗り込むことができた。
そして、異世界への切符を手にすることができた。
ついでに、一人の青年の命を救うこともできた。
……結果として見れば、青年の命を救ったことは誤りだったかもしれない。
だが、それまでの間でも、新しく与えられた身体……ダークエルフの身で、これまで得られなかった様々な経験をすることができた。
そして、運命の人と出会うことができた。
蜜月の時は短かったが、女として生きることはこれほど楽しいことなのかと初めて思った。
ダーリンには、いろんなことを教えてもらった。
求め、求められ、愛されることの喜び。そして愛することの喜び。
考えてみれば、ダーリンには教えてもらうことばかりだった。自分から何かを教えることができなかった。
そういえば、ダーリンは子供が好きだったよね。
ダーリンの子供、産んであげられなくてごめんね。
あの日、王国がダーリンに刺客を送ったと聞いた時。
王国への恨みも何もかも捨ててダーリンと一緒に逃げていたら、ひょっとしたら私が望むような生き方ができていたのかな。
でも、時はもう戻らない。
ダーリン、ごめんね。
何もできなかった私を許してなんて、もう今となっては言えない。
その代わり。
……復讐くらいは、きちんとしてあげるからね。




