38 姫君と小さな火種
日もまだ上りきらない薄暗い朝、『黒き木々』の当主の館のそばの空き地にて、長い金髪と褐色の肌を持った少女が一人、魔法を詠唱している。
彼女の名はネリア=ヘンリック。当主であるコナー=ヘンリックの長女であり、次代当主であるクリフト=ヘンリックの妹である。
彼女が唱えているのは、自らの得意魔法である『ボイルド・ウォーターボール』。水球を投げつける『ウォーターボール』に、物体の温度を引き上げる『ヒーティング』を組み合わせた魔法だ。離れた場所に立てられた的に向かって完成した魔法が放たれ、見事に命中する。
そして彼女は次の魔法を唱え始める。右手に『ウォーターボール』。左手で『ヒーティング』を作り出し、先程以上に水球の温度を上げていく。水球はやがてゴポゴポとした音を立てて沸き立ち始め、次第に蒸発を始めた。
「さて、ここからね……」
ネリアがさらに精神を集中する。
右手の『ウォーターボール』を維持しながらいったん手から解放し、代わりに左手で制御していた『ヒーティング』の維持を右手に移す。そして空いた左手で空気制御の魔法『エア・コントロール』を作り出すと、『ヒーティング』を解放した右手に素早くそのコントロールを移し、いったん開放していた『ウォーターボール』を左手で再制御する。
こうした魔法の循環を続けることで、熱を加えられて完全に気化した水球はさらに加熱されて高温の蒸気となり、急激に膨張していくその体積と熱の拡散を『エア・コントロール』で制御された空気の泡が包み込むような状態となった。
そしてネリアは十分に蒸気の温度が上がりきった瞬間を見計らって、空気の泡に包み込まれた高温の蒸気を、指向性を変えて風を吹き付けるように制御した『エア・コントロール』によって、的に向かって叩きつけた。
的に命中した空気の風船は次の瞬間破裂し、解放された高温の水蒸気が的を焼き尽くす。水球と違って加熱の上限がない水蒸気、それを叩きつけた一撃の威力は先程の『ボイルド・ウォーターボール』の比ではない。
ただし加熱の加減の調整がわずかに甘かったのか、木製の的の発火点をわずかに超えていた水蒸気は、的を燃え上がらせていた。
「……やはり難しいわ。よくもまあ、先生はこんな魔法を一呼吸で完成させられるものね」
ネリアがため息をついた。
今ネリアが放ったのは、かつてケイブトロール討伐の際にグレイが放った『バーニングスチーム』を元に自分なりに手を加えたものだ。
同時に2属性の魔法しか使えなかったネリアは、アリアスからグレイの魔法の話を聞き、自分の魔法の指導を依頼していたのである。殆どは書面によるものだったが、たまにグレイが出張してきて直接指導することもあった。
「要は3つの属性を両手の間で循環させてやればいいのです。理論上は同時に扱う属性をいくらでも増やせますし、コツさえ掴めば4つくらいならあなたでも可能ですよ」
そう言われても、最初ネリアはピンと来なかった。自分の手はふたつしかないのだ、どうやって3つのものを同時に操れというのか。
修練を受けた日の夜、頭を抱えて悩んでいたネリアに、修練に同行していたアリアスが声をかけた。
「お嬢様、私には魔法のことはあまり判りませんが、グレイ殿のお話を聞いてひとつ思い出したものがあります」
「何?」
ぱっと顔を上げたネリアに、アリアスが懐から何か取り出した。
それは小さな布袋。中には乾燥させた豆が詰められ、中身が零れないよう口が縫い付けられている。それが3つ。
「あちらの世界で『お手玉』と呼ばれていた子供の遊び道具です。これをこのように……」
慣れた手つきでアリアスがジャグリングを始めた。3つの袋が両手を循環する。
「確かに、2つの手で3つのものを持っているように見える……」
ジャグリングを止めたアリアスが布袋をネリアに手渡す。
「これを魔法でどう再現するかは私にはわかりませんが、グレイ殿のお話からこの遊びと同じ印象を受けました。お役に立つかはわかりませんが……」
ネリアが満身の笑顔を向けた。
「ありがとう、アリアス。真っ暗だった道筋にちょっとだけ光が見えた気がするわ。頑張ってみる」
「お役に立てて嬉しく思います。頑張って下さい、お嬢様」
アリアスが恭しく頭を下げた。
お手玉。
確かに名前くらいは聞いたことがあった気がする。
ただ、生涯をほぼ無菌室の中で過ごしたかつての自分は、こんなものを触ることはなかった。
かつての世界では、子供が皆やっていたという遊び。
かつての自分の身体では、とても手の届かなかったある意味での高嶺の花。
みんなと同じことができる。
それが何より、ネリアには嬉しかった。
時間を見つけては袋遊びに興じるネリアの姿は、周囲には奇異に映ったかもしれない。
だが、アリアスの直感は正しかった。3つのものをふたつの手で同時に操る、その根本的な考え方はお手玉も魔法も同じだったのだ。
次に修練をつけに来た時、拙いながらも3つの属性を同時に操って見せたネリアに、グレイは目を丸くしていた。グレイの見立てでは1年はかかると思っていた3属性の同時行使を1か月やそこらで身につけてしまったのだから。
「何か、特別な訓練でもなされたのですか?」
不思議がって尋ねるグレイに、ネリアはただ笑って答えた。
内緒だ、と。
朝の修練を終え、水浴びをして汗を流したネリアは、普段着に着替えて食堂に向かっていた。
体を動かした後の食事は美味しい。これも昔はわからなかったことだ。
今日の朝食はなんだろうか。小さく音を鳴らした自分の腹に苦笑しながら食堂の扉を開けようとした、その時。
「お食事前に恐れ入ります。お嬢様、王都から急報が入りました。大切なお話が……」
いつになく真剣な顔つきをしたアリアスが、そこに立っていた。
※ ※ ※
王都東に広がる森林。
そこで戦いが繰り広げられていた。
「弓隊、放て!」
ハインの声と同時に、多くの矢が風を切る音を鳴らす。
狙いは、広場に引き出された暴走ゴブリンの群れ。その数およそ10。
ハルが率いる軽装の囮部隊によって、住処の洞窟から引きずり出されて来たのだ。正確に放たれた矢は、ゴブリンの纏った粗末な皮鎧を貫き、無防備な頭や首などの急所を打ち抜いてその命を奪っていた。
そしてハルは、ミリーナと共に別行動を取っていた。群れの中に1匹だけ混じっていた暴走ゴブリンの変異体、ホブゴブリンを集団から引き離していたのだ。
通常のゴブリンとは比較にならない巨体が、どこからか拾ってきた大きめのまさかりを振るう。鈍重ではあるがその危険性は他の個体とは段違いだ。
だがそんな個体ですら、今のハルとミリーナのコンビの前では敵ではない。
横一線に振り抜いたまさかりの一撃を跳んで躱したハル。その着地を狙おうと再度まさかりを構えるホブゴブリン。
「テレポート!」
ミリーナの声が森に響く。
そして次の瞬間、ハルの姿が消えた。
目標を見失ったホブゴブリンが、一瞬狼狽する。
そしてさらに次の瞬間、ホブゴブリンの延髄にハルの剣が突き刺さった。
何が起こったのかを理解することもないまま、急所を貫かれたホブゴブリンはその場に崩れ落ちる。
ハルとミリーナが取った戦法はいたって単純。ホブゴブリンの前にいたハルをテレポートでホブゴブリンの背面上方に転移させたのだ。
あとはハルが急所を一撃するだけ。並みのゴブリンやギガース程度では太刀打ちできないだろう。
「ハインさん、こちら終わりました。討伐証明はどうしますか?」
ミリーナが指揮官のハインに『コンタクト』の魔法で話しかける。
500メートル程度の範囲内にいる特定の相手に自分の声を届け、またその相手の声を拾う魔法だ。これもミリーナの特技のひとつだった。
「ご苦労。討伐証明は必要ない、あとで依頼主が直接確認するそうだ。場所に目印をつけておけ」
「わかりました」
しばらくして、今回の依頼主である老ゴブリンが全ての死体を暗い表情で確認した。
「……間違イアリマセンナ。皆、我々ノ村ノ者デス」
大体の事情はハインはもちろん、ハルたちも聞いていた。
ゴブリンの集落で治療が困難な伝染病が発生し、10人強の感染者が村を離れて近くの洞窟で療養していたのだ。食料や薬などは持たせていたが、貧しい村で揃えられる薬など利き目があるかは怪しいものだ。実質的に病人を村の外に捨てたことになる。
村の者たちも気は進まなかったが、村全体に伝染病が流行ればそれこそ取り返しがつかなくなる。殆どの病人が老人だったこともあり、苦渋の決断でもあったのだが、なんの偶然かその者たちが集団で暴走化してしまったのだ。
事情が事情でもあるし、元々ゴブリン族は同族殺しを忌み嫌う種族だ。強靭なホブゴブリンに変異してしまった者もいた上、自分たちが手をかけるのは忍びない、とのことで『キンタロウの斧』に依頼が回ってきたのである。
依頼主の老ゴブリンはハインに依頼料を手渡すと、村の者たちと共に死体を埋葬し、弔いの儀式を始めた。
「死ニ囚ワレシ同朋ヨ、願ワクバ亜人ノ太陽ノ呪イヲ超エ、再ビ闇ニ戻ランコトヲ……」
依頼主であり、村長を務める老ゴブリンの祈りの言葉が続く。
ハルの知る限り、ゴブリンは輪廻転生を信じる一族とのことだ。『闇に戻る』とは、生まれ変わって別の女性の胎内に生まれ変わることを指すらしい。
ただ、ゴブリン式の葬式を初めて見たハルは、一通りの式が終わった後、ハインに小声で尋ねた。
「あの祈りの言葉にあった、『亜人の太陽の呪い』って、何のことなんですか?」
「それはだな……」
だが、そのふたりのやりとりは老ゴブリンの耳に届いていた。
「若イ者ノ教育ハキチントスベキデスナ、隊長殿」
「……返す言葉もありません」
「申し訳ありません」
ハインとハルが揃って頭を下げた。
「……マア、最近ハ人間ノ耳ニ入ルコトモ少ナクナッタ昔話デス。折角デスカラオ話シシマショウ」
そうして老ゴブリンは語り始めた。
遥か昔、ゴブリンやオーク、ギガースといった、今では『亜人』として扱われている種族は、全て人間種だったらしい。つまり現在のエルフやドワーフといった種族のように、人間との間で子を成せていたそうだ。
そして、俊敏さに優れるゴブリンや優れた体力を持つオーク、強靭な力を持つギガースたちは、貧弱で数が多い人間の女たちをしばしば攫っては繁殖道具として使っていたらしい。当然、相手との合意もない一方的な蹂躙だ。
だがある時。
当時最大の勢力を誇っていた各種族の村落の上空に、ふたつの太陽が現れたという。
ひとつは本物の太陽。そしてもうひとつは、太陽と同じような光を発する謎の巨大な球体だった。
その球体が照らす光は、土地を豊かにし、村の作物を大きく実らせ、以前とは比べ物にならない収穫を村落にもたらした。当時の彼らはそれを神の恵みだと喜んでいたという。
だが、異変はゆっくりと表れた。
ふたつの太陽の下で暮らす種族たちと人間との間で、次第に子供が産まれなくなっていったのである。
同時に、彼らの人間に対する攻撃性や性欲も次第に弱まっていき、やがて彼らは人間を襲うのを止めてしまった。突然ふたつめの太陽が消えてしまった後もその変化は続き、繁殖も同種族の間だけで行われるようになり、人間との関係も次第に平和的なものに変わっていったそうだ。
だがそれは同時に、人間を踏み台にしてそれぞれの種族がこの世界に覇を唱えることができなくなったことを意味していた。ある意味で、彼らの未来は大きく狭められてしまったのである。
「……今デハ我々ハアノ太陽ヲ『何者カニヨル作為』ダト見做シテイマス。最終的ニ人間ト我々ノ関係ガコノヨウナ形デ落チ着イタノハ喜ブベキコトカモ知レマセンガ、『呪イニヨッテ我々ハ人間種デナイ存在ニ変エラレテシマッタ』ト考エル者ハ今デモ多イノデスヨ」
「そんなことが……」
思わぬ昔話を耳にしたハルは考えていた。
『亜人の太陽』と呼ばれるその光。
最終的には全てを人間の都合の良いように作り変えてしまったその光。
ヒトとヒトとを種のレベルで分断してしまったその光。
長老はあえて口にしなかったのだろうが、やはりそれは人の手によるものではないだろうか。
そしてやはり彼ら亜人は、それを人間に対する憎しみの炎として、密かに心の中で燃やし続けているのではないだろうか……。
※ ※ ※
「くそっ!」
エリクシア王国の副宰相、ルドガー=ケインリッヒは苛立っていた。
よりにもよって自分たちとの会談の直後に、会談相手であるコナー=ヘンリックが殺されてしまったのである。
恐らくこれで今までの交渉は暗礁に乗り上げてしまうだろう。オリハルコンの供給を当てにしていた魔道技術庁の連中も文句を言ってくるはずだ。
救いだったのは、彼らが取っていた宿が王国の手配したものではなく、自前で用意したものであり、自分たちで警護を行っていたことだ。もしこれが王国側で手配した宿であれば、警護の責任を問われても仕方がないところだった。最悪、紛争となる可能性もあっただろう。
「ともかく今は、犯人の情報を集めねばな……」
ただひとつ気になることは、領主であるコナーの遺体はあったが、同行していたヘンリック家の嫡男、クリフトの姿がどこにも見えなかったことだ。
考えてみれば、あの男は父親がここまで王国に譲歩を見せる姿を苦々しく思っていたように見えた。もし、あの時見せた感情が我々の想像以上だったなら……。
王国に弱腰な姿を見せた父親と口論となり、父親を殺して逃亡した。
そんな可能性も否定はできない。
「失礼いたします!」
そうして考えを巡らせているルドガーの下に、現場検証を行っていたエルフの武官が入ってきた。
「ご苦労。何か手掛かりは見つかったか?」
武官が答える。
「いえ、犯人を特定できそうなものは何も。ただ……」
「どうした?」
「コナー卿の遺体を調べた結果、衣服の隠しポケットからこのようなものが……」
「見せてみろ」
ルドガーの苛立ち声に従って、武官が一枚の紙を差し出す。
そして、それを一目見たルドガーの表情が変わった。
「これは……!」
「どうかされましたか?」
「……いや、いい。お前は引き続き捜査を続けろ。近辺の不審者の目撃情報を徹底的に洗え」
「承知しました」
武官を早々に追い出したルドガーの手が震えていた。
「あの男、こんなものまで用意して……どこまで王国に譲歩する気だったのだ? あるいはとんでもない阿呆だったのか?」
ルドガーが手にしているのは、詳細な解説が書き込まれた鉱脈図。
記載内容からするにオリハルコンの埋蔵箇所を示すものだ。
『黒き木々』を細く東西に横切り、王国の直轄地をまたいで広範囲に広がる鉱脈。
そしてルドガーは、その鉱脈の最西端が示す場所に気が付いた。
自分の息子が治めるケインリッヒ伯爵家の所領。
この地図を見る限り、鉱脈はそこまで伸びていた。
ルドガーは考える。
……自領の鉱物資源の採掘を行ったところで、文句がつくはずもない。
たとえそれが、他人が必死の努力の末に見つけたものであったとしても。
それに何より。
……所詮、黒耳長が見つけたものだ。
我々が奪ったところで、誰が咎めるものか。




