第26話 誰の代わりでもなく
宮廷の馬車寄せで、私は夫の手を取った。
いつもの場所だった。
磨かれた階段。長い廊下。壁際に並ぶ従者。
違うのは、私の手に客人の名簿がないことだった。
夫の腕にも、説明用の書類がない。
二人とも、招待状だけを持っていた。
「緊張するか」
夫が小さく尋ねた。
「はい」
「私も」
私は彼を見た。
青い紐が、綺麗に結ばれている。
今朝は自分で結べた。
「お似合いです」
私が言うと、夫は少し笑った。
「あなたも」
それで、廊下を歩けた。
会食の客は、十二人だった。
王妃陛下のほかに、叔父、セルナン子爵、庭園の昼食会を開いた従姉、その夫。あとは王妃の友人たちだった。
大きな宴ではない。
でも、話が広がるには十分な人数だった。
ラシェル夫人が私たちを迎えた。
「どうぞ、お掛けください」
私は椅子へ向かいかけ、壁際の花瓶が少し傾いているのに気づいた。
直そうと手が動いた。
夫が私の指へそっと触れた。
私は止まった。
給仕が気づいて、花瓶を直した。
私たちは席へ座った。
王妃陛下は、私のドレスを褒めた。
私は礼を言った。
「海を御覧になったそうね」
陛下が言った。
「はい。オーブへ参りました」
「いかがでした」
「大きくて、冷たかったです」
言ってから、もう少し洗練された返事があっただろうと思った。
けれど陛下は笑った。
「入ったの?」
「足だけ」
夫が隣で笑っている。
私も少し笑った。
海の話から始められたことが、ありがたかった。
最初の皿が下げられたころ、従姉が言った。
「本当に、戻ってきてくれてよかったわ。叔父様から大変だったと伺って、心配していたの」
叔父が杯を置いた。
私は息を吸った。
「旅行は、楽しんでまいりました」
「ええ。でも、旦那様にまで御苦労を」
「私が行きたくて、同行しました」
夫が言った。
従姉は笑みを止めた。
私は続けた。
「その点を、私からもお伝えしたいのです。夫に連れ帰られたのではありません。二人で帰着日を決めて、戻りました」
卓が静かになった。
叔父が咳払いをした。
「身内の話を、この席で」
「こちらで、身内以外の方へもお話しになったと伺いましたので」
私は叔父を見た。
声を荒らげなかった。
笑って誤魔化しもしなかった。
王妃陛下は口を挟まなかった。
私は続けた。
「休暇は、出発の十二日前に届けました。受領もされています。私は、自分が引き受けた昼食会を投げ出したわけではありません」
従姉が目を伏せた。
セルナン子爵が口を開いた。
「調整中だったのです。御承知のとおり、宮廷の予定は」
「保留とされたことは、知らされておりませんでした」
私は答えた。
「でしたら、連絡の行き違いですな」
子爵は丸く収める声を出した。
私は頷いた。
「連絡の行き違いとして、訂正をお願いいたします。私が気まぐれに役目を捨てたという説明ではなく」
子爵の口が止まった。
私が大きな争いを求めていないから、逆に逃げる先が狭くなったのだと思う。
制度を全部変えろとは言わない。
誰かを罰してほしいとも言わない。
違う話を、違うと言ってほしい。
それだけだった。
王妃陛下が、ゆっくり杯を置いた。
「昼食会は、どなたが引き受けたのかしら」
従姉が顔を上げた。
「私が、開くことになっておりました」
「では、イレーヌが代わると約束したの?」
「いつも、手伝ってくださいますので」
従姉は私を見た。
助けを求める目だった。
私はその目を、よく知っていた。
ここで、私の説明が足りませんでしたと言えば、彼女は助かる。
叔父も子爵も、ほっとする。
私は王妃陛下へ向き直った。
「今回は、お引き受けしておりません」
言えた。
従姉の顔が赤くなった。
私は胸の奥が少し痛んだ。
それでも、言葉を取り消さなかった。
陛下は頷いた。
「では、そこは分けておきましょう。手伝ってくれる人がいない日も、主催者は主催者ですもの」
従姉は頭を下げた。
叔父が、ようやく口を開いた。
「私の説明が、少し急ぎすぎたようです」
私は彼を見た。
「イレーヌが約束を破ったわけではない、と」
叔父は一度唇を結び、言った。
「訂正する」
私は頷いた。
「ありがとうございます」
胸の中で、何かが静かにほどけた。
拍手は起きなかった。
敵が泣き崩れることもなかった。
ただ、私がしなかったことを、しなかったと言ってもらえた。
それで、十分嬉しかった。
隣の席の老婦人が、扇を閉じた。
「お若い方の暮らしも、変わるのね」
王妃陛下と長く親しくしている方だった。私は何度も彼女の家へ招かれ、初めて出席する令嬢の相手や、遅れて来た客の案内をしていた。
「私どもも、次からはお願いしにくくなるわ」
柔らかい声だった。
責めているようには聞こえない。
でも、お願いできないなら招く理由も少ないと、その目が言っていた。
私は膝の上の指を、そっとほどいた。
「日程が合い、私にできることでしたら、お返事いたします」
「一度、御主人に伺ってから?」
「私も、予定を持っておりますので」
老婦人が少し笑った。
「ええ。海の御予定ね」
頬が熱くなった。
海へ行くことは、彼女にとって仕事より軽い。
夫と食べることも、星を見ることも。
それが悪いと断じるつもりはなかった。老婦人は長く家と宮廷のために働き、それを誇りにしている。
私が同じようにしないことは、彼女の誇りを否定することではない。
でも、その区別を今ここで分かってもらえるとは思えなかった。
「海も、楽しみにしております」
私は答えた。
「ほかにも、夫と決めたいことがございます」
夫が隣で、静かに頷いた。
老婦人は扇を膝へ置いた。
「では、次の音楽会はお呼びしないほうがよいかしら。皆様を取りまとめていただこうと思っていたのだけれど」
胸が少し痛んだ。
あの音楽会は好きだった。
庭に灯りを並べ、外国の奏者が来る。母が好きだった歌が演奏されたこともある。
好きだから、頼まれたことも全部引き受けた。
私は、招かれなくなることが寂しいのだと認めた。
「今回は、お役に立てないかもしれません」
声は少し遅れた。
老婦人は分かったと頷き、別の客へ話を向けた。
それで、その音楽会は私の予定から消えた。
嘘の説明を訂正してもらうことと、皆に好かれ続けることは、両立しない日もある。
私は水を飲んだ。
杯を置くとき、夫の指が卓の下で私の指へ触れた。
彼は何も言わなかった。
老婦人へ反論もしなかった。
私が選んで、少し寂しくなったことを、そのまま隣で受け止めてくれた。
私は彼の指を一度だけ握った。
その小さな動きで、姿勢を崩さずに座っていられた。
次の皿が運ばれた。
少しぎこちない会話が始まる。
私はそれを整えようとしなかった。
陛下の友人が、オーブの魚について尋ねた。
私は煮込みの話をした。
夫が、二人で作った汁のことを付け加えた。
「御自分で?」
従姉が驚いた。
「はい。玉葱が大きすぎました」
私が答えると、夫が言った。
「私が切りました」
卓に笑いが起きた。
今度の笑いは、誰かを小さくしなかった。
夫が自分の失敗を差し出し、私がその続きを話した。
王妃陛下は楽しそうに聞いていた。
私は、宮廷でもこんな話をしてよいのだと初めて知った。
食後、セルナン子爵が夫へ近づいた。
「沿岸図の件は、助かりました」
「工房の者が、仕上げてくれました」
「それで、来月の案内も」
夫は私を見た。
子爵も私を見た。
私は何も言わなかった。
夫が自分で答えるのを待った。
「日程と内容を書いて送ってください。妻と相談して、返事をします」
「君の仕事だろう」
「私たちの暮らしの日程でもあります」
子爵は少し不満そうだった。
夫は続けた。
「引き受けたものは務めます。今、この場では約束しません」
私は彼の隣で、静かに息を吐いた。
私が夫を止めたのではない。
夫が、自分で止まった。
子爵は分かったと言い、別の客へ向かった。
夫がこちらを見た。
「今のは、どうだろう」
私は笑った。
「卵は、冷めませんね」
彼も笑った。
隣の小広間で、楽が始まった。
大きな舞踏会ではなく、客が帰るまでの短い演奏だった。何組かが立ち、ゆっくり輪を作る。
私は夫の袖へ触れた。
「踊りませんか」
彼は、すぐ頷いた。
そのとき、従姉が私を呼んだ。
「イレーヌ。客人の御馬車を、どこへ回せばよいかしら。あなた、よく御存じでしょう」
私は彼女を見た。
悪意はなさそうだった。
さっき困った話が済んだので、今度はいつもどおり頼んでよいと思ったのだろう。
夫の手が、私の手のそばにあった。
私は従姉へ、扉の脇にいる係を示した。
「あちらの方が御存じです」
「でも、あなたから話してくれれば」
「今から、夫と踊りますので」
従姉が一瞬黙った。
私は夫の手を取った。
彼女を辱めるためではない。
踊りたかった。
その理由で断るのは、初めてだったかもしれない。
夫は私を小広間へ導いた。
床は滑らかで、靴音が柔らかく返った。
ルーセの石畳とは違う。
音楽も、ずっと慎ましい。
私は彼と向かい合った。
「こちらは、御存じですね」
「間違えずに踊れると思う」
「足は、踏まないようにいたします」
「三回までは経験がある」
私は笑った。
夫の手が私を支え、二人で一歩目を出した。
踊り慣れた曲なのに、初めての曲のようだった。
今までは、相手の肩越しに周りを見た。王妃陛下が立ったら、すぐ離れられるように。客人が迷ったら、踊り終えて駆け寄れるように。
今日は、夫を見た。
彼も私を見ていた。
「あの絵に、似ています」
私は言った。
「何が?」
「あなたのお顔が」
祭りで描いてもらった絵。
笑っている夫と、笑っている私。
私たちの部屋へ飾ると約束したのに、まだ荷物の間に挟んだままだった。
「今夜、出そう」
夫が言った。
「はい。額も、選ばなくては」
「あなたに頼んだ」
「覚えております」
私たちは回った。
少し離れたところに、叔父が立っている。
こちらを見ていた。
その目が、私たちをどう測っているのかは分からない。
夫に夢中になった姪だと思っているのかもしれない。
その点は、否定しなくてもよかった。
私は確かに、この人が好きだ。
ただ、好きだから家から出られなくなったのではない。
一緒に、出ていけた。
夫が私を少し近くへ引いた。
「疲れたら、帰ろう」
小さな声だった。
「もう少し、踊りたいです」
私は答えた。
彼が微笑んだ。
帰ることも、残ることも、私たちが選べる。
その自由は海辺だけのものではなかった。
曲が終わると、私は夫へ礼をした。
夫も礼を返す。
婚礼のときと、同じ形だった。
でも私は、その先に伸びてくる手の温度を知っていた。
小広間を出るとき、従姉が近づいてきた。
「馬車は、分かったわ」
「よかったです」
「係の方に聞いたら、すぐだった」
彼女は少し気まずそうに笑った。
私は頷いた。
それ以上、何かを教えようとは思わなかった。
彼女は自分で一つ聞き、自分で済ませた。
次もそうしてくれるかは分からない。
でも次に私が引き受けるかどうかも、まだ決まっていない。
「旅行の絵を、描いてもらったの?」
彼女は、踊っているときの話が少し聞こえたらしかった。
「ええ。町の祭りで」
「今度、見せて」
私は少し考えた。
「二人の部屋へ飾るものですので」
従姉は目を丸くした。
私は微笑んだ。
「海の話でしたら、また」
全部を人へ見せなくてもよい。
全部を場の役に立てなくてもよい。
あの笑い顔は、しばらく私たちだけのものにしたかった。
帰りの馬車で、私はようやく肩の力を抜いた。
夫が私の手を取った。
「よく話した」
「怖かったです」
「ああ」
「従姉が、困っていました」
「困っただろうな」
夫は、それでよいと簡単には言わなかった。
私はその正直さに助けられた。
誰も困らないようにすることは、できない。
でも今日の私は、自分のしたことを嘘にしなかった。
「あなたがいて、よかったです」
私は言った。
夫は私の指へ唇を触れた。
「音楽会へは、行きたかったのだろう」
彼が言った。
私は少し驚いて、頷いた。
「よくお分かりになりましたね」
「あなたが、少し黙った」
私は窓の外を見た。
夕方の空は薄い紫だった。
「好きなものが、一つ減りました」
「ああ」
「でも、戻ってお願いするつもりはありません」
夫は頷いた。
「別の音楽も、聞ける」
「はい」
「同じでなくても」
私は彼を見た。
すぐ代わりを用意するとは言わなかった。
失ったものを、なかったことにしようともしなかった。
私は、少し寂しいまま笑った。
「次の歌劇は、一緒に行ってください」
「喜んで」
私はその約束を、新しく受け取った。
「私も」
私は彼の肩へ寄りかかった。
王都の石畳が馬車を揺らす。
同じ道を、今度は二人で家へ帰っていた。




