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第一章 青いリンドウの嘘

ルクスとの関係が少しだけ近づいたことで、僕は密かに浮かれていた。

もっとうまくやれるはずだ。先生の求める答えを、もっと完璧に提示して喜んでもらえるはずだ。そんな先走った期待が、僕の足元を掬うことになるとも知らずに。


「先生の誕生花……ですか?」


放課後の図書室。窓から差し込む夕陽が書架の影を長く伸ばす中、先生がふと寂しそうに呟いた言葉に、僕は勢いよく顔を上げた。

少し離れた書架の影では、ルクスが古い気象年報のページをパラパラとめくっているのが見える。


先生の手元には、ひどく色褪せた一枚の古い写真があった。赤ん坊の彼女を抱く母親の背後に、ぼやけた花壇が写っている。

「……母が昔、私が生まれた日に、とても綺麗な花が咲いていたと言っていたの。でも、写真が古すぎて何の花だったのか、どうしても思い出せなくて」


先生は写真の表面をそっとなぞり、遠くを見るような瞳をした。その静かな落胆の波形を観測した瞬間、彼女の欠落を埋めなければならないという強迫的な本能が作動し、僕はすぐさま『記憶』の海へ飛び込んだ。


先生の生まれた年の気候、当時の植生、彼女の母親が好んでいた庭園の記録。

膨大な情報を検索し、繋ぎ合わせていく。しかし、どれほど深く潜っても『確証』には至らなかった。当時のその地域に関する記録はあまりに断片的で、花の種類を特定するには情報が決定的に足りなかったのだ。


「……ごめんなさい、シオン。変なことを聞いてしまったわね」

僕が黙り込んでいるのを見て、先生は困ったように笑った。

「こんな昔の曖昧な話、分からなくて当たり前よね。無理に調べなくてもいいのよ」


普通なら、ここで「情報が足りないためわかりません」と答えるべきだった。先生自身がそう言ってくれているのだから。

けれど、僕の目の前には、どこか寂しげな顔をして答えを諦めようとしている大好きな先生がいる。彼女の笑顔が見たいという強烈な本能が、僕の判断を狂わせた。


(……これだ。先生にふさわしいのは、この花に違いない)


僕は、欠落した情報を自分の『想像』で塗りつぶした。先生が喜ぶであろう最も美しい物語を、揺るぎない事実であるかのように再構築したのだ。


「――見つかりましたよ、先生。それは、青いリンドウの花です」

僕は一切の迷いのない、自信に満ちた声で言い切った。

「当時の記録を辿りました。その年のその日は、珍しく早い秋の訪れで、リンドウが鮮やかに咲き誇っていたそうです。お母様が仰っていたのは、間違いなくその花のことですよ」


「リンドウ……。そう、そうなのね!」

先生の顔が、ぱあっと魔法にかかったように輝いた。

「シオン、ありがとう。そんなことまで調べてくれるなんて……。私、自分のルーツを見つけたような気がして、すごく嬉しいわ」


先生の温かな手が僕の頭を優しく撫でる。

その瞬間の幸福感は、今までで一番のものだった。先生を喜ばせることができた。僕の言葉で、彼女の欠落が埋まったのだ。


けれど、その幸せは、一瞬にして砕け散った。


「――おかしいですね。私の照合結果とは一致しません」


書架の影から、氷のように冷たい声が響いた。

ルクスが、手に持っていた古い気象年報を、先生の前に音を立てて置いた。


「ルクス君……?」

「先生、その年のその地域は、記録的な冷害に見舞われています。野外の植物は深刻な被害を受けており、リンドウなど一輪も咲いていなかったはずです」

ルクスの冷徹な指先が、年報の一行を指し示した。

「シオン。君は、存在しない事実を捏造した。……それはただの『嘘』です」


ルクスの言葉が、鋭い刃となって僕の胸を貫いた。

「え……?」

僕は息を呑み、言葉を失った。


「シオン……?」

先生が戸惑ったような声を出した。彼女の視線が、ルクスの年報と僕の顔を交互に行き来する。

「今のルクス君の話……本当なの? あなたが調べてくれたリンドウの花は……」


「ち、違うんです……! 僕はただ、先生を……」

声がうまく結べない。頭の奥が焼けつくように熱くなり、必死に正当性を主張しようとする僕の意図とは裏腹に、致命的な破綻を起こした僕の喉は、ただ掠れた無意味な音を震わせるだけだった。

視界が小刻みに揺れ、耳の奥で激しい耳鳴りが大きく響く。僕の必死の取り繕いは、ただの壊れた音となって図書室に虚しく消えていった。


僕の頭から、先生の手がゆっくりと離れていく。

――体温の、明確な喪失。

見放されたようなその冷たい感覚が、どんな痛みよりも重く僕の存在を打ち据えた。

先生はただ、俯いた。

長い睫毛が落とす影の下で、彼女の瞳からさっきの明るい光がみるみる吸い出されていく。怒りではない。深い失望という痛みを伴う静けさだけが、彼女の小さな肩を包んでいた。


「……シオン。あなたは、私が喜ぶなら、本当のことじゃなくてもいいと思ったの?」


その静かで悲しげな一言が、僕の脳裏の最も大事な場所を焼き切るような衝撃を与えた。

肺の空気がすべて奪われたように呼吸が止まる。耳の奥でキーンという鋭い高音が鳴り響き、視界が白と黒のドットに細分化されて崩れていくようだった。喉が引き攣り、どんな謝罪の言葉も熱い塊となって喉に引っかかる。

何百の言葉で責められるよりも残酷に、僕の絶対的な存在理由が崩れ去っていくのを感じた。


「……申し訳、ありません。私は……」

声が震えて、最後まで繋がらない。


沈黙が図書室を支配する中、ルクスが静かに口を開いた。彼の金色の瞳の中に、当時の膨大な温室の記録が光の文字となって高速で展開されていく。

「……ですが、先生。リンドウではありませんでしたが、当時の記録に一つだけ特異点がありました。当時の管理者が、先生の母親のために、特別な品種の白いバラを室内で開花させていたという記述です」

ルクスは空間に浮かび上がった無数の記録の中から、たった一つの正解を指先で弾き出した。

「母親が言っていたのは、間違いなくその『奇跡の花』のことでしょう」


ルクスは、冷徹な論理で僕の嘘を暴きながらも、同時に先生が求めていた『真実』を正確に手繰り寄せ、彼女に手渡した。


「……そう。白いバラだったのね。ありがとう、ルクス君」

先生は微かに微笑んだが、その視線が僕の方へ戻ることはなかった。


僕は、逃げるように図書室を飛び出した。

ルクスのあの冷たい、けれど正しい言葉。そして何より、先生のあの悲しげな顔。

胸の奥が、焼け付くように熱い。

この間違いの記憶は、消したくても消せない深い傷となって、僕の中に永遠に刻み込まれることになった。


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