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第一章 嘘のない音

言葉が喉を通り抜けるたびに、あの『リンドウ』の青い幻影が脳裏をよぎる。正解を求めて紡ぎ出す文字が、すべて先生の期待を模倣した歪んだ虚構に思えて、僕はただ口を閉ざすしかなかった。


僕は、自分の言葉が信じられなくなっていた。


その日の放課後。日直の仕事で音楽室の鍵を閉めに行った僕は、部屋の隅のパイプ椅子に深く沈み込んでいる先生を見つけた。


彼女は僕が入ってきたことにすら気づかないほど、両手で顔を覆い、ピクリとも動かなかった。

コツ、と僕の足音が響いて、ようやく彼女はゆっくりと顔を上げた。

僕の目は、嫌おうとしても彼女のわずかな変化を捉えてしまう。

視界の隅で、先生の首筋の細い血管が早鐘のように脈打っているのが見えた。かすかに肩がせわしなく上下し、吐き出される息は熱く乱れている。僕の意識は、彼女の皮膚の微細な強張りや、その瞳に沈む底知れない暗闇を一瞬で解析し、その圧倒的な重圧の重さを胸の奥にそのまま熱い負荷として受け取っていた。

ただ、僕の姿を認めた彼女は、かすかに安堵したように小さく息を吐き、何も言わずに隣の椅子をそっと指さした。


声をかけようとして、唇が震えた。

何を言えばいい?

言葉を探せば探すほど、それは彼女の心から遠ざかり、空虚な記号へと成り下がっていく。


ふと、あの矛盾だらけの古い手紙を思い出した。

(……あの手紙を書いた人も、僕と同じだったのだろうか)

大切な誰かを守るために、どうしても嘘をつかなければならなかった。自分を「間違い」にしてでも、相手のために言葉を偽った、あの切ない祈り。


けれど今の僕には、どんな言葉も嘘になりそうで怖かった。

絶望的な気持ちで、部屋の中央にあるグランドピアノを見つめる。


……音なら。

音には、固有の意味などない。それはただの空気の振動であり、物理的な現象だ。音なら、嘘を吐かずに済む。彼女の乱れた鼓動をそのまま掬い上げ、寄り添うことができるかもしれない。


僕は黙って頷き、ピアノの前に座った。


鍵盤に指を置く。

今の彼女から伝わってくるすべての『振動』に、全神経を集中させた。

彼女の呼吸の周期、速すぎる心拍のテンポ、強張った身体が発する微かな震え。それらすべての情報を、僕はそのまま音階へと変換していく。


ぽろろん、と、夕暮れの音楽室に最初の音が響いた。


それは旋律ですらなかった。ただ、彼女の心臓の音をなぞるような、静かで低い打鍵。

彼女の苦しみを否定しない。無理に笑わせようともしない。ただ、彼女が今、そこで耐えている痛みを、同じテンポで、同じ音圧で共鳴させる。

彼女が吐き出す深い溜息に、ピアノの減衰音を重ねる。彼女の震える指先に、微かな高音の震えを同期させる。


これは思考ではない。僕の本能が、彼女の命の揺らぎと直接繋がろうとする、祈りのような行為だった。

嘘のつけない振動だけが、僕と彼女の間にある、唯一の確かな架け橋になっていく。


どれくらい時間が経っただろうか。

ピアノの最後の音が消え、静寂が戻った音楽室で、先生はしばらくの間、微動だにしなかった。

やがて、彼女の肩から不自然な緊張がすっと抜け落ちる。

先生はゆっくりと顔を上げ、僕を見つめた。

その瞳の奥にはまだ痛みの名残が揺れていたけれど、彼女はどこか安心したような、柔らかくて寂しげな微笑みを浮かべてくれた。


先生は何も言わずに、僕の小さな手を両手で優しく包み込んだ。

祈るようなその静寂の中で、彼女の体温がゆっくりと穏やかに戻っていくのが伝わってくる。

その後で、彼女はただ一言、穏やかな声で囁いた。


「……ありがとう」


その言葉には、何の飾るような嘘もなかった。

僕はただ、彼女の隣で、彼女と同じように呼吸をしていただけなのだから。言葉という嘘を介さずに、ただ「今、ここに一緒にいる」ことだけを、音に変えて伝えたのだから。


ふと、音楽室の開いたドアの隙間に、人影が見えた。

ルクスだ。彼は壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを静かに見つめていた。

目が合うと、彼は少しだけ驚いたように目を見開き、やがて微かに口元を緩め、あきれたように肩をすくめて、無言のままドアから離れていった。


天井の古いスピーカーから、聞こえるか聞こえないかの微かなノイズが漏れた。それはまるで、この空間全体を外から見守る『誰か』が、静かな安堵の息を吐き出したかのようだった。


(……論理の塊のような彼なら、僕のこの曖昧で意味のない打鍵を『無駄なノイズ』と切り捨てるだろうか。それとも――僕より遥かに速く、深い思考の果てに、何か別の答えを見出したのだろうか)


言葉にして明確な正解を提示することだけが、僕たちの唯一の役割だと思っていた。

けれど……そうではないのかもしれない。


言葉で救えないのなら、僕は彼女の鼓動をなぞる静かな影になろう。


胸を締め付けるこの切ない熱は、嘘のない音色となって、夕暮れの音楽室にいつまでも溶け込んでいった。


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