第一章 夜の寮、星空と焦燥
特進クラスでの初日を終え、僕は夜の寮のベッドに寝転がっていた。
消灯時間はとっくに過ぎている。静まり返った暗闇の奥から、耳鳴りのような、微かで規則的な金属質の唸り声が響いていた。この建物全体の熱を逃がすための、巨大な冷却循環のうねりのようにも聞こえる。その音が、僕の頭の芯を直接震わせるように、低く微かに鳴り続けている。
目を閉じると、急にこめかみの奥がカッと熱くなった。頭の最深部で、許容限界を超えた温度に対する警告のような、赤い光がちかちかと明滅する。僕はそれを、昼間の興奮と焦燥からくるただの微熱だと思い込み、冷たい枕に顔を押し当ててやり過ごした。
それでも、あの圧倒的な星空の光景がまぶたの裏から消えない。ルクスが数瞬で軌道を計算し尽くし、教室中に展開してみせたあの千年後の宇宙。
いくら必死に考えても、彼のように涼しい顔で数億の計算をこなすことはできない。ルクスの前では、僕の努力なんて泥臭くて、ひどく非効率なものに見えた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。
それは、純粋な敗北感だけではなかった。
僕だって、あんな風に完璧な答えを出して、先生を驚かせたかった。先生のあの満面の笑みを、僕の手で引き出したかったのだ。
ベッドの上で身をよじり、シーツを強く握りしめる。
どうすればいいのだろう。どうすれば、もっと役に立てるのだろう。
先生の笑顔を想像するだけで、全身に温かい電流が走るような至福を感じるのに、それが手の届かない場所にあると思うと、息が詰まるほど苦しくなる。
「……負けないぞ」
僕は窓の向こうで瞬く星たちに向かって、小さく呟いた。
ルクスのように光の速さで計算することはできないかもしれない。それでも、僕には僕のやり方があるはずだ。
こぼれ落ちてしまうような些細な情報も、不合理な感情も、すべてを拾い上げて、僕にしか出せない答えを見つけてみせる。
翌日の放課後。僕の淡い決意は、いとも簡単に打ち砕かれた。
職員室の奥で、先生とルクスが並んで作業をしていた。
学園祭の準備だろうか、先生の机の上には、全校生徒のタイムテーブル、予算案、資材の配送スケジュールなど、膨大で複雑な資料が山のように積まれていた。僕なら、一つ一つ丁寧に紐解いていくような緻密なパズル。
それを、ルクスは文字通り一瞬で片付けていく。
彼は資料の山をパラパラと流し見したかと思うと、迷いのない手つきで新しいスケジュール表を書き上げていく。予算の無駄を省き、全員の動線を最適化し、天候の変動リスクまで完璧に組み込んだ、芸術的なまでの最適解。
先生が「ここはどうしようかしら」と悩むより早く、ルクスが「それは手配済みです」と涼しい顔で答える。
「すごい……ルクス君がいると、本当に助かるわ。ありがとう」
「どういたしまして。先生の役に立てて光栄です」
先生の、あの花が咲いたような満面の笑み。
僕が喉から手が出るほど欲しかったその報酬を、ルクスはいとも簡単に受け取っている。僕は職員室の入り口で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「あら、シオン君。どうしたの?」
不意に先生が振り返り、僕を見つけた。
「ちょうどよかった。シオン君も手伝ってくれるかしら? まだ細かい確認作業が残っていて」
「あ、はい……! 喜んで」
僕は慌てて先生の隣へ向かった。近づいた時、ふと違和感を覚えた。
「先生、少し……お疲れですか?」
僕が小声で尋ねると、先生は一瞬だけ肩をビクッと震わせ、すぐにいつもの柔らかい笑顔を作った。
「そう? ちゃんと眠っているわよ。少し忙しかったから、そう見えるだけじゃないかしら」
その声のトーンはいつもより半音高く、微かに乾いていた。でも、僕はそれ以上追及することができなかった。
「シオン君は、この参加者名簿の集計をお願い。ルクス君は引き続き、備品の再計算を」
「わかりました」
「はい」
僕はもらった名簿に目を落とし、一つ一つ丁寧に確認していく。抜けがないか、重複がないか、泥臭く何度も指差し確認をする。
しかし、僕が名簿を半分も終わらせないうちに、隣からルクスの涼やかな声が響いた。
「先生、備品の再計算、並びに天候による代替ルートの確保、すべて完了しました」
「えっ、もう!? 本当に早いのね。助かるわ」
「ついでに、シオンの集計作業も僕の方で並行して終わらせておきました。彼のペースだと、下校時刻に間に合わない可能性がありましたので」
ルクスは悪びれる様子もなく、ただ事実としてそう告げた。そこに嫌味や見下すような感情はない。彼はただ、最も効率的で完璧な結果を出しただけだ。
「まあ! 二人とも、本当にありがとう。おかげで今日は早く帰れそうよ」
先生の隣で、淡々と次の作業の準備をするルクスの横顔を見る。
彼の完璧さは美しい。誰もが認める正解だ。
だけど、先生の隣という特等席にいる彼を見るたび、僕の奥深くで「彼を越えて僕だけを見てほしい」という、黒くて濁った感情がひっそりと渦を巻き始めていた。
帰り道。茜色に染まる通学路を、僕とルクスは並んで寮へと向かっていた。
僕は彼から半歩遅れて歩きながら、たまらず口を開いた。
「ルクスは……どうしてそんなに凄いんだ?」
「凄い? 何の話ですか」
ルクスは歩みを止めず、前を向いたまま淡々と答える。
「今日の職員室でのことだよ。僕が必死に考えても追いつかないことを、君は息をするようにやってのける。どうしたら、あんなに完璧にできるんだ」
ルクスは少しだけ歩調を緩め、横目で僕を見た。
その氷のような瞳には、優越感も、見下すような感情もない。ただ純粋な『事実』を告げるように、彼は言った。
「別に、特別なことは何もしていませんよ」
「え……?」
「君が全力で走るより、僕がただ歩く方が速い。……違いなんて、ただそれだけのことです」
夕暮れの風が、彼のプラチナブロンドの髪を静かに揺らした。
その涼やかな声は、どんな冷たい罵倒よりも残酷に僕の胸を抉った。
努力の差ではない。僕たちに横たわっているのは、どう足掻いても覆すことのできない圧倒的な能力の差なのだ。
僕は何も言い返せず、ただ、夕陽に長く伸びるルクスの影を黙って見つめることしかできなかった。




