第2話:誰かの最初の影
その馬車は、刻一刻と俺たちに向かって近づいてきていた。
巨大な車輪が石畳の街路のぬかるみを踏みつぶし、四方に泥水を撥ね散らす。高位貴族のものと思しき四頭の黒馬に引かれたその豪華な馬車は、黄金の彫刻と無数の高価な宝石で彩られていた。
扉と側面に刻まれているのは、ダイヤモンドの王冠を戴いた目立つ黄金の獅子の紋章――間違いない、ヴォルヴォラ家だ。
俺は路傍に立ち、土砂降りの雨に濡れそぼりながら両拳を固く握りしめていた。心の中で呟く……。
ヴォルヴォラ……。
その家名を思い出すだけで、全身に鳥肌が立ち、立ちすくんでしまう。ヴォルヴォラは単なる裕福な貴族ではない。この帝国において最大級の領地を持つ大公爵家であり、絶大な影響力を誇っている。俺の記憶では、この小説の世界『Villain of Nature』において、ヴォルヴォラ家は主要な問題(諸悪の根源)の一つだった。
彼らは裏切りや平民の惨殺など、数々の悲惨な事件の黒幕であり、この世界がここまで残酷なのも、彼らが家族の中に本物の「怪物」を作り出し、冷酷な悪役たちを誕生させたからだ。
そして今、俺はその世界にいる。原作では名前すら一度も呼ばれないモブとして。
馬車が俺の目の前をゆっくりと通り過ぎていく。微かに開いた窓のカーテンの隙間から、誰かのシルエットがチラリと見えた。長く美しい、青みがかった銀髪。ほんの一瞬だった。だが、それだけで俺の胸は激しく高鳴り、彼女を認識するには十分だった。
アウロラ……?
それとも、ただのメイドか? 確信は持てない。距離が遠すぎる上に、今の俺の体はあまりにも衰弱している。
だが、その少女の向かい側には、息を呑むほど美しい金髪の青年が座っているのが見えた。そのオーラからは、巨大な野心が漂っている。見覚えがあった、確か彼こそがネクソン・シン・ヴォルヴォラ。この物語の主人公でありヴォルヴォラ家の正統なる跡取りだ。容姿端麗、才能溢れ、内に秘めた巨大な野心でヒロインたちを魅了する完璧な男として描かれていた。
彼には、物語のサブヒロインである妹がいる。確か名前はアウロラ・ゼン・ヴォルヴォラ。兄に劣らぬ美貌と才能を持ち、表面上は完璧で淑やか、しかし内に凄まじい力を秘め、兄に対して絶対的な忠誠心を抱いている。
俺は爪が手のひらに食い込むほどの力で、さっきよりも強く拳を握りしめた。
「俺みたいなモブは、前世でも今世でも現実に抗うこともできず、ただ受け入れるしかないってわけか。そして、今の俺はまさにその位置にいる」
そう呟いた瞬間、兵士の一人が俺の視線に気づいた。俺は咄嗟に深く頭を下げ、路頭に転がる負け犬のゴミ屑の一部になりすました。
「おい、どけ! どけ! 利用価値のないゴミ共が!」一人の兵士が怒鳴り、さらに続けた。「お前ら、ヴォルヴォラ家の邪魔をするな! ゴミのような奴らは、さっさと死んじまえ!」
俺と同じ境遇の貧民たちが、恐怖に顔を歪めて逃げ惑い始める。路頭の端にいた俺は、彼らのように逃げ出すことはしなかった。
その兵士の一人がまっすぐ俺に向かってきた。そして俺は、何の役にも立たないゴミのように、容赦なく殴り倒され、蹴り飛ばされた。
もともと衰弱しきって病んでいた体には、彼らの蹂躙と侮辱が容赦なく突き刺さる。体中が刃物で刺され、何度も叩き潰されるような激痛が走った。
「おい、クソガキ。二度と俺たちの前に面を拝せるな。そのまま死んじまえ!」
無数に刻まれる傷と痛みに耐えかね、地面にのめり込むようにして、さっきよりも激しく殴られ、蹴られ続けた。
今の俺は完全に無力だ。このまま死んでしまった方が楽なんじゃないかとさえ思えてくる。
クソが。
最底辺のゴミである俺のような存在は、彼らの視界に入る権利すら与えられない。これこそが、この帝国の残酷な現実――命の価値を決定づける階級身分の格差だ。
俺は自嘲気味に、しかしひどく苦い笑いを漏らした。
「ハハハ……。前世でもこんな気分を味わったが、こっちはそれ以上に最悪だ。素晴らしい人生じゃないか!」
俺の言葉を聞いた兵士たちは、気味の悪い態度に余計に苛立ち、さらに残虐な暴行を加えてきた。
俺が自分の運命を諦め、いっそこのまま死んしようとしたその時――突如として馬車が停止した。ぼやける視界の先で、誰かが馬車から降りてくるのが見えた。
意識が朦朧とし、激痛のせいで視界が反転する。俺は再び、冷たい地面へと崩れ落ちて意識を失いかけていた。
その瞬間、その人物は兵士たちをかき分けるようにして、まっすぐ俺の方へと歩いてきた。兵士たちは一斉に、その人物に対して最敬礼の姿勢をとる。
優雅な足取りで近づいてきたその人物は、俺を見下ろし、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
その手が、俺の顔に触れる。温かくて、ひどく柔らかい。……あぁ、こんな温もりを感じたのは、一体いつ以来だろうか。その手から、純粋な神聖力がじんわりと流れ込んでくるのが分かった。
ボロボロだった俺の体と、耐え難いほどの激痛が、みるみるうちに癒えていく。彼女の手の温もりが、俺の体内を満たしていく。
薄れゆく意識の中で、俺はその人物にそっと抱き上げられた。俺の頭を、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、丁寧に撫でてくれる。
完全に視界が閉ざされる直前、俺はその人物が、ひどく見覚えのあるキャラクターであることに気づいた。
「ねぇ、あなた、もう大丈夫?」彼女は俺に優しく囁きかけた。
あぁ、答えたかった。だが、まるで何かに縛り付けられているかのように、口を開くことができない。感謝の言葉を伝えたいのに、なぜ動かないんだ。クソが。
そして俺の視界は完全に闇に包まれた。しかし、その微かな、心地よい声だけは耳の奥に届いていた。
「ねぇ、また今度会いましょうね。その時が来るのを、私、待ってるから!」
聞こえていた……。その声のせいで、消えかける意識が無理やり引き戻されそうになる。だが、もう目を開けることはできなかった。
……あぁ、俺を救ってくれたのは、一体誰だったんだ? 最後の手触りと、誰かに優しく抱きしめられた温もりを頬に残したまま、俺は完全に意識を失った。




