動き出すのは、誰の心か
結果だけでいえば、リュシアンはどうにか一命を取り留めた。
マルセルが限界までその力を使ったお蔭で、止血と輸血が間に合ったのだ。
ベッドに眠るリュシアンの心の臓が動き出すと同時にマルセルまで倒れるものだから、その場は再び大騒ぎとなった
マルセルがもう一つの部屋に担ぎ込まれれば、すぐさま彼には鎮痛剤の投与と共にキャロンより魔力の補給が行われる。
騒然となっていた屋敷が落ち着きを取り戻したのは、夜の帳が徐々に幕を開け、外が白く霞み始めた頃だった。
容体は落ち着いたが、リュシアンは今だ目覚めないし、対するは絶対の保障がない脆い人間の身体。いつ何が起きるかも分からない。
それに恐怖したセリアは、前世の最期の記憶も手伝って、彼が横たわる寝台の横に椅子を置き、その場を陣取っていた。
この屋敷に戻ってきて今の今まで、彼の傍から離れようとはしないのだ。
今もまだ、眠るリュシアンの片手を己の両手で握り、祈るように額に押し付けたまま座っている。
「姫さま、少し眠りませんと」
心配したキャロンが声をかけるも、セリアは無言で頭を振るだけだった。
主の背中を見つめて、軽く溜息をついたキャロンは、彼女がどれだけ頑固なのかを嫌というほど分かっている。
だからこそ、ここは引き下がるしかなかった。
手元に持っていた軽い羽織を主の背に被せ、彼女は部屋を後にする。
それでも、妙齢の男女が二人だけで部屋に居るのは色々まずいので、部屋の扉を大きく開けておくという配慮は忘れない。
何か温かい飲み物を差し入れようと考えながら、三階にある寝室から一階の台所へ降りていたキャロンだったが、目の前に見知った背中が現れたことで、自然とその足を止めていた。
ジェラミーを見ると、途端に身体が逆方向を向く習性のついてしまった彼女は、この時もいつものように身体を回転させ音も立てずその場を離れるつもりだった。
というか、むしろ考える前に身体が動いていた。
幸い、階段も廊下も絨毯が引いてあるので、足音はうまくかき消されている。
しかし、今回はいつもと違った。
足音なんぞ聞こえなくても、キャロンの気配を覚えているらしいジェラミーは、それこそ忠犬の如く彼女に纏わりつく。
キャロンがどれだけ鬱陶しがろうと、そんなの彼の前ではあまり意味を成さないらしい。
だというのに、階段の隅に腰を下ろした状態の彼は、大きな背中を小さく丸めて微動だにしない。
そろそろと階段の高い位置に身体を移動させると、彼には見えない角度からその背中を凝視する。
「………リュシアンっ」
そうしてわかったのは、ジェラミーの震える背中と、絞り出すようにして呟かれた双子の兄の名。
当たり前だ。
セリアがショックを受けている以上に、双子の片割れであるジェラミーが普通で居られるわけがない。
仲良くしているようには見えない彼らだが、考えてみれば、常に二人は一緒だった。お互いがお互い、無くてはならない存在であったのだ。
それこそ、セリアとキャロンのように。
静かに瞳を閉じた少女は、灰色の髪を揺らすと、逃げるようにその場から立ち去った。
これ以上ここに居ては、自分の心がかき乱されるとわかっていた。
落ち着いていたリュシアンの容体が急変し、再び屋敷に緊張が走ったは昼間の事。
止血したはずの場所から血が流れ出てきたため、真っ白なシーツが赤く染まる。
慌てたセリアが医師団を呼び、一気に部屋の中が騒がしくなった。
「下がってっ!」
「っ」
医師の一人からの叱咤にも似た声に、セリアは身体を震わせ部屋の隅に身を寄せた。
治療に関しては、その道の達人に任せるのが最善である。張りつめた表情で部屋の中を走り回る医師達の行動を、ただただ見守るしか出来ない。
無数の人間の間から見えるのは、白と赤。
ひゅっと吸い込んだ息は冷たく、自分が恐怖に動けなくなっているのだと容易に理解できた。足に根が生えたかのように動かない。
この部屋に居る限り、恐ろしさと直面し続けるだけだというのに、この部屋から出れば恐ろしさは倍以上となって自分を追いかけてくるだろうということも分かっていた。
「姫さん」
不意に、大きな手が肩に置かれた。
仰ぎ見れば、藍色が見える。
ノアは、マルセルに付き添っていたはずだ。ここに居るということは、少しは彼の容体が落ち着いたということだろう。
よかったと、笑おうとして失敗する。目の前のノアも奇妙な顔をして自分を見下ろしていた。
どれだけ歪んだ笑顔を見せているのかと、ぼんやりと思った。
「………」
ノアの方といえば、そんなセリアをしばし無言で見下ろしていたかと思えば、肩に置いてあった手をセリアの手首辺りに移動させ、そのまま下に引き下ろすように動かす。
同時に足を組み、自分の腰を部屋の隅の床に落ちつけた。
「お、おいっ」
重力に逆らえず床に膝をついたセリアが片眉を上げて抗議の声を上げれば、ノアの溜息にかき消された。いつもなら、もっと力強く声を上げる彼女の声が、吐いた息一つで消える。
それが、如何にセリアが憔悴しているかを窺わせた。
「座れ。ここに居たいなら、居ろよ。オレも居てやるから」
「ノア」
まさかの申し入れに琥珀の瞳を瞬かせていると、決してこちらを見ようとはしないまま、ノアが言った。
「………あいつの傍に、居てぇんだろ」
胡坐を掻いたノアの片膝の上に置かれた己の片手が痛いほど握り込まれながらも、引き離すことはしないまま、セリアは無言で頷いた。
ひっそりと気配を殺す様に隅に座り込み、状況を見守るセリアとノアを見つめていたキャロンは、扉の前に立ち尽くしたままでいた。
ここは、自分よりもノアの方が適任だろう。
次いでリュシアンに視線を移した。
今更になって、彼の姿が生と死の狭間に立っている事を思い知り、震える両手を祈るように胸の前で握りしめた。
彼女の脳裏に蘇った幾つかの光景があった。
まるで眠っているかのような、フィアナの亡骸。
棺の中に静かに横たわる、瞳を閉じたリアンの姿。
啜り泣く民達の間をすり抜けて見つけた、オーウィンの変わり果てた遺体。
そして、掻き抱いた年老いたカイルの冷たい身体。
今まで、多くの大事な人達をあの世に見送ってきたけれど、いつだって、誰かが死ぬ事に慣ることはない。
強く瞳を閉じ、俯いた額に握った拳を押し当て、神に祈る。
―――どうか、リュシアン様を、姫さまから奪わないでくださいませ。
「キャロン殿、大丈夫だ。リュシアンは、しぶとい奴だ。俺達を置いては行かないさ」
応えてくれたのは神でもなく、キャロンが愛した前世の夫でもなく、
―――彼だった。




