09 紫草 著 都会 『都会の風』& 紅葉 『贈り物』/『色香』シリーズ1-5(シリーズ4・5と1-3の再掲)
注意・この物語はフィクションです。登場する人物・事柄は全て架空のものです。
色 香
1 男
『寒くないか』
項に感じる男の掌を、花音はその熱さと共にとても愛おしいと想う――
「やっぱり彼、いいよね~」
隣の席から、椅子ごと近づいてきて同僚の紗江子が言う。
彼、とは今年異動になってこの部に配属になった三枝和紗だ。
「いいよねって。紗江子、つきあってる人いるじゃない」
パソコンの画面から目を離さずに告げた。
すると彼女は更に近づいてきて、小声で言う。
「あれはキープ。だって三枝君の方が断然いい男じゃない。花音、手貸してよね」
彼女は言うだけ言って、あっさりと自分の席に戻っていった。
相変わらず滅茶苦茶なことを言う女だ。
何が手を貸せよ。
花音は一瞬、紗江子を見てまた画面に視線を戻す。
紗江子、と呼びかけ、彼女が反応したことを確認して言った。
「貸せない」
花音の言葉に、紗江子はひどく驚いているようだった。
それはそうだろう。これまで幾度となく、貸してきた手だ。今回に限り貸せないというのも珍しいと思ったのかもしれない。
だが、入社当時から五年に至る今日まで、延々と続く男漁りにいい加減嫌気がさしていた。
次は絶対に断ろう、と決めた。
そのタイミングが、今日だっただけ。
「どうして? 合コンしようよ。協力してよ」
花音は男連れてくるの上手だからお願い、と彼女は小さく手を合わせる。
馬鹿馬鹿しくなって仕事に戻る。
目の前に座る三枝和紗の顔を、頭から追い出す為に軽く頭を振って気持ちを切り替えた。
ポン
小さな音がしてメールが届いたことを教えてくれる。
開く前にタイトルから三枝和紗からだと分かる。
花音が視線を向けると、彼が素早くウィンクするのが見えた。こういう態度が人気のある所以らしい。
―合コン、いいよ。ちゃんと花音も来てくれるならね―
そのメールをゴミ箱に捨て、返信を打つ。
―莫迦言ってないで、仕事をして下さい。
それを送信した直後、お昼休みの為席を立った。
三枝和紗も席を立つ。その気配を背後で感じ、そのまま部屋を出た。
きっと紗江子に捕まるだろう。
彼は優しい。誰の話も聞いてくれる、と専らの評判だ。
お酒の飲み方も綺麗で、お金払いも豪快らしい。
ただ彼には秘密がある。
私にも秘密がある。
私たちは、会社を離れると男と女になる…
近くのオープンカフェでランチをとっていると、思いがけず和紗がやって来た。
「紗江子に捕まったとばかり思ってた」
目の前に座る彼に、そう声をかける。
まぁね、と言いながら、軽くかわしてきたと言う。
「あの紗江子から逃れるなんて、たいしたものだね」
花音の前に運ばれたパスタが湯気をたてている。
『それ、うまそだね。ちょっと頂戴』
聞きながら、左手を彼の口に運ばれる。
フォークに丸めたパスタは彼の口の中に消えた。
どきっとした。
色っぽい。
ソースのついた唇を舐める仕草も、口の端を左手の親指で拭う仕草も、そして旨いと見せる笑顔でさえも。
お昼を済ませ、仕事に戻ると再び紗江子が近づいてくる。
「三枝君からOKもらったよ。今度の週末、合コンだからね。花音も絶対にくること」
ちょっと待ってよ。
何勝手なことを言ってるのよ。
花音はそう言おうと思った。
でも言えなかった。今度は紗江子がお昼休みで席を離れたから。
今、すぐに言わなければ、了解したことになってしまう。今回は行きたくない。そう思っていた。
彼女が戻ってきて、告げた言葉を聞くまでは。
「そうだ。私、三枝君とフケるから、あとお願いね」
幹事は紗江子でしょ。
何を間違ったものか。行かないと意思表示するつもりが、これでは行くととられても仕方がない。紗江子は何でも自分の都合のいいようにとるから。
ポン
―合コンだって。花音も来いよ。で、二人で抜け出そうな―
返信。
―紗江子から、和紗とフケるからってあとを頼まれた。
ポン
―ちょうどいいじゃん。代わりに花音が抜ければ片がつく。そろそろ、みんなに言ってもいいんじゃない?―
花音は黙ってしまう。
みんなに知られるのは怖い。自分のためではなく、彼の将来には同僚の、しかも年上の女とつきあっているのを知られるのはいいこととは思えない。
だからといって、紗江子の毒牙にかかるのを黙って見ているのも嫌だ。
返信。
―分かった。
もしも今回のことが原因で会社を辞めなければならなくなっても、和紗と別れることになってしまっても仕方がない。
花音は目の前に座る和紗の顔を見た。
そして思うのだ。
何があっても、自分はこの男を守ってみせるのだと――。
2 腕
帰宅した三枝和紗は、ソファに脱いだ背広を叩きつけた。
『何なんだよ、あの女は』
どちらかといえば、温厚といわれることが多い人だ。
その和紗が激昂するのは珍しい。
南條花音は一足先に和紗の部屋に行き、待っていた。結構どきどきしながら待っていたのに、彼は何も言ってはくれなかった。
そして出てきた言葉が、何なんだよ、あの女…という、彼にしてはかなり珍しい語調での捨て科白。何事だろうと思いつつも、冷蔵庫に行きミネラルウォーターを持ってきた。
『サンキュ』
差しだした花音に、ぶっきら棒にではあったが礼を言葉にしたことで顔を見る余裕ができたのか。今度は穴のあくほど見つめてくる。
「何」
花音は尋ねながら、叩きつけられたスーツをハンガーにかける。その姿を目で追われているのが分かった。
改めて、何だと聞こうとしたところで彼の方が先に口を開いた。
『女って怖いな』
呟かれた言葉に、花音は判断を誤った――。
その日、セッティングされた合コンで、和紗は紗江子と消えた。
花音と、他に呼ばれていたメンバーは移った店で三時間待ったが、結局二人は現れなかった。何人かの同僚や同期に、次へ行こうと誘われたが、断り此処にやってきた。
そして渡された鍵を、初めて使った。
和紗の言葉に、紗江子と何かあったのだと思い、きっといて欲しくないのだと思った。かけておいたコートを取る。
「帰るね。ありがとう」
そう言った言葉に、あゝという短い相槌だけが返された。
もう面倒なのだろう。ソファにぐったりと沈みかけている。
花音は玄関にある下駄箱の上にスペアキーを置き、去った。
終わる時は、呆気ないもの。きっと、これで終わる。
和紗の部屋から最寄駅までの道を、ゆっくりと時間をかけて歩いた。
涙は流れなかった。あまりに突然すぎて、まだ感情が追い付いてこないらしい。ただ心に空洞ができたようだ。何も考えられない、自分の気持ちなのに。
確かめたい。何があったのか。
でも、それはできそうにない。背を向けられた人に、言葉をかけることができないから。
失くしたものは何だろう。
ふと足を止め、空を見上げた。
雨上がり。珍しく、多くの星が瞬いていた。
「綺麗」
満天の星が、降ってくるような錯覚を起こしそうだった。
恋を、失ったんだよね。
そう思った刹那、目頭が熱くなった。
あ、涙。
自分でも気づかぬうちに、涙が溢れてくる。拭うこともせず、ぽろぽろと零れてゆく雫。
降るような星空は、その闇をどう捉えるのだろう。
自らが輝くために、その漆黒を愛おしく思うのだろうか。
花音は、和紗と共にあった時間を思い返す。
誰にも伝えず隠し通したことは、きっと役に立つだろう。それだけが救いかもしれない。
もう少し歩くとコンビニが続く。
そうなるとネオンが明るく、星空の表情も変わってしまう。
見上げていた視線を足元に戻し、花音は再びヒールの音を立てながら歩き出す。
その時だった。
後ろから、ぶつかるように抱きしめられた。
『俺が』
悲鳴をあげる前に、その一言が、その腕の持ち主を和紗だと教えてくれる。
ただ、何も言えずに立ち尽くしていると、少し呼吸を整えて彼が言った。
『何があっても、俺はお前を守ってみせるよ』
その言葉は、花音の項に暖かく届く。
『ごめん。ちゃんと話すから、戻ろう』
和紗はそう言うと花音の手を握り、もと来た道を歩きだす。
守る?
誰を?
頭のなかで繰り返される、先ほどの言葉に意味が加わる。
「ちょっと待って。私を守るってどういうこと」
和紗の腕を引っ張って、止まらせる。
『ここじゃ、ちょっと話し難いんだけど』
そう言いながら、また手を引かれ歩き出す。
『先輩のこと、あんまり言いたかないけどさ。松下紗江子って最低の女だな』
そして、あとは部屋に帰ってから、と。
やっぱり紗江子と何かがあった。
でも今、繋がれる手は暖かく優しい。
少しだけ和紗の横顔を見た。さっきまでの険悪な顔は気配を消し、いつもの穏やかな表情が戻っている。
「本当のこと、教えてくれる?」
和紗の顔を見たまま、聞いてみた。
『花音に嘘はつかないよ』
そう言ったと思ったら、あっという間に近づいてきて、すぐに離れていった。
あれ、今…
少しだけ覗き込むように、彼を見る。
そして、ほんのり赤くなる初心な和紗を垣間見た。
3 刷く
『あれ、みんなは』
会社の部署違いの同僚と、合コンに来ているお好み屋の一角だった。個室っぽくなっているそこは、大きめの鉄板が二つ並んだ、掘り炬燵仕様の席のある場所だった。
上司からの緊急連絡が入り少し離れていた三枝和紗が、席に戻ってみるとそこには先輩の松下紗江子がいるだけだ。
思わず、どうしたのだと聞いてみた。
彼女は、少しずつ用があって席を離れていると言った。
そんな偶然、と思いつつも、そこが合コンという場だったから信じてしまった。そして、すぐに戻ってくるだろうと彼女の話を聞くことにした。
しかし、いつまで経っても誰も戻ってこない。
松下の話は途切れることがなく、誰も戻ってこないというのに気にもしていないようだ。
(そっか。こいつ、俺とフケるつもりだったっけ)
そんなことを、やはり同僚の南條花音が教えてくれた。
花音。
松下と同い年でやっぱり先輩だけど、でもそれだけじゃない。
彼女は女。大事な恋人。
携帯をチェックする。メールも着信履歴もなかった。
どういうことだろう。
相変わらず、だらだらと意味のない話を続けていた松下の話題が突然、花音のものに変わった。
和紗は思わず、松下に視線を移した。
「彼女、合コン女王なの。いつも男性が足りないと花音に頼むのよ。すると、あっという間に集まっちゃうの。凄いでしょ」
今にも腕を絡めてきそうな雰囲気が漂い、和紗は水割りを作るために席をずれた。流石に、その間合いを追ってくることはない。少しだけ息を吐くとグラスの残りを飲み干し、新しい水割りを作った。
それからは花音と自分の、過去の合コン話だった。
如何に多くの男が花音の声を聞いて集まってくるか。何人の男が花音と二次会三次会に消えていったか。そして、そういう男を全く相手にしないのだと話す。
ただ和紗はこんな話に興味はなく、松下にしたらいつもと違うと思ったのかもしれない。
暫くすると、ここだけの話、という女が大好きなフレーズが飛び出した。
だいたい、ここだけって言って、そこだけだった例がないし、この手の話ほど当てにならないものはない。それまでと同じように適当に誤魔化して、いつ帰ろうかと考え始めていた。
「今日だって、花音がみんなを連れてカラオケに行っちゃったのよ」
その言葉が、和紗の逆鱗に触れた――。
『先輩。言いたかないけど、それ以上言うと怒るよ。もう帰ります』
そう言って席を立とうとした刹那。
「和紗君だって、そうやって花音に騙されてるじゃない」
そう言った松下の形相は憤怒に満ちていた。
(何。騙されてる? 誰が。俺が?)
一瞬、言葉を失ったことで、その場の空気が凍りついたようになった。
『南條花音が、どうして俺を騙すんですか』
敢えて、先輩とは呼ばずにフルネームで彼女を呼んだ。
その言葉を聞いた松下が、その後延々と話し続けたことは、前に話していたことの裏返しのようなものだ。
しかし、和紗には分かっていることがある。
『合コン大好きで、女王さまなのってあんただろ』
興に乗って、花音の悪口を言い続けていた松下の言葉が止まった。
『最低だな。ただの同僚でもそこまで言わないと思うぞ。女同士ってことを除いても、人間として最低なのって、あんたの方だろ』
情容赦なく言葉を吐いた。
これだけ言えば、もう自分を落とそうなどとは思わないだろうな。
そう思いながら、和紗は今度こそ席を立った。
その背に、松下の声が届く。
「あんな片輪のどこがいいのよ」
個室っぽくなってる出入口から松下のいる場所まで戻り、思い切り引っ叩いた。
『言っていいことと悪いことの区別もつかないなら、花音の前から消えろ』
会社に告げ口されたら、暴行したってことで処罰かな、と少しだけ脳裡を掠めたこともどうでもよくなった。
『最後に一つだけ。今夜、みんなはどうした』
もう反発する気力もなかったのか。
「私が残って、三枝君を連れていくって、みんなを二次会に連れ出してもらった」
多分、これが真実だろう。
女は怖い。その紅を刷いた赤い唇で、嘘を吐く。
でも花音は違う。
人生を諦めてるから、もう人並の幸せは望めないと思ってるから、せめて誠実に生きようとしている。
帰ろう。きっと今夜は和紗の部屋にいる。
これまで使ったことのない合鍵を、初めて使う花音を思った。
4 都会の風
同僚の松下紗江子が、三枝和紗に本性を見抜かれたと言って会社を去ったのは、あの合コンの僅か一月後のことだった。
キープと豪語して憚らなかった男性社員の彼氏にはあっさりと振られ、というか、紗江子自身が二股かけられていたのかというタイミングで結婚の二次会の知らせが花音にも届けられた。
当然、和紗にも届き、どういういきさつの相手なのだろうかと話題にもなった。
南條花音はその同僚の彼に紗江子とは遊びだったのかと聞いてみた。しかし、それはないと言う。ただ親に会わせようかと思うと二の足を踏んでしまっていたと話した。
結局、男はいざ結婚になると慎重になるという話だ。後から思えば、紗江子が彼の両親に紹介されたという話を聞いたことはない。花嫁さんはお見合いだったらしいが、あっという間に家族にとけこんでくれたと惚気ていたのを思い出す。
そんな紗江子から、突然連絡があった。
知らなかったが、彼女は結婚したのだという。そして和紗に話があると。
本来なら、花音の耳に入れることなく和紗に連絡を取りたかったと思う。
しかし紗江子が退職した後で和紗は携帯を替えていた。辞職後、連絡を取っていなかった彼女には新しい番号もアドレスも知る術はなかったのだろう。唯一変わらなかったのは、花音の自宅の番号だけだった。
和紗に伝えることを、迷わなかったと言えば嘘になる。紗江子の口の上手さは知っている。
しかし紗江子は花音の性格を知り尽くしていたというべきだろう。紗江子を罵倒してまで守ってくれた花音でも、未だ二人は恋人同士という関係だ。同僚の話が脳裡を過ぎる。
結婚には慎重になるのが男だと――。
いつか別れのあるのが人間だと思う。和紗が花音の前を去る可能性は残っていた。
「さえこって、松下紗江子か」
「今は結婚して、田嶋紗江子だって」
花音は、いつものように夕食を済ませた後、和紗に話を始めた。と言っても紗江子からの要望は、ただ和紗に会いたいというだけだったが。
「今さら何のために会いたいのやら」
和紗は面倒だという意味を伝えてきたが、断るという意味の言葉は聞かれなかった。だから花音は紗江子からの約束を伝える。
「今度の土曜、午後に駅前の本屋さんで待ってるって」
彼女から聞いた新しい携帯の番号をメモ用紙に書く。バカなことをしていると、頭のどこかで鳴る警鐘は無視するしかなかった。
「結婚したってことはさ、あの性格を隠しきったのかな」
和紗の言葉に思わず笑い、メモを渡す。
「花音も一緒に来るんでしょ」
「私は行かない。だって和紗にだけ会いたいって感じだったし」
そう言うと彼は納得したのか、もう何も言わなかった。
そして、あっという間に約束の日はやってきてしまうものなのである。
前夜、接待があった和紗はこちらに来てはいなかったので、土曜の予定は知らなかった。ただ、こっちに帰ると言っていたのだが。
現在、午後八時。
何の連絡もないし外に出ようかと思ったものの、どこで鉢合わせするかも分からず時間だけが過ぎていった――。
何かが、起こる。
そんな不吉な予感だけが体を駆け巡っている。その日、和紗は現れなかった。
気持ちとは裏腹な快晴の日曜。花音は早朝から出かけた。もやもやする気持ちを晴らそうと、少し離れたところにある公園に足を運ぶ。そこにはペットを連れた人が大勢集まっていて、一日いても飽きることがない。
二歳くらいだろうか。連れてきている子犬を追いかけている姿は、どっちが遊んでもらっているのか分からない。
「可愛いな」
思わず口を衝いて出た。
普段、無機質な都会のなかで暮らしていると緑の匂いとか、風の音とか忘れているんだと気付く。
それでも和紗といる時は、自然に笑っていられたのに。
昨日、どうしたのかを考えると後ろ向きなことしか考えられないから、思考に無理矢理そっぽを向く。
笑い声をいっぱい聞いて、笑い顔をいっぱい見て、そして元気を分けてもらって帰ろう。
都会って怖い。
人とのすれ違いが、あっという間に加速度を増して思いもかけない方向へ進んでしまう。
芝生にごろりと寝転んで、ジャケットを顔にかける。滲む涙は瞳を閉じて、零れる前に閉じ込める。
優しい彼は紗江子が困っていたから、きっと手を差し伸べてあげただけ。 そう言い聞かせて一晩過ごした。だから今度会っても嫌味な言葉を言わずに済む――。
いつの間にか、眠ってしまったようだ。
夕べ、眠れなかったからかな。ジャケットを掴み上体を起こす。刹那、一陣の風が吹き抜けた。
「起きた?」
思わず声のした方を見る。そこでは和紗が横になっていた。
「どうして…」
「花音ちゃん。お願いだから出かける時は携帯持っていってね」
「え?」
その言葉に枕代わりにしたバッグを引き寄せ中を漁る。
「ない…」
そりゃそうだ、と和紗が言う。
「だって部屋に置いてあるんだもん」
部屋に来たんだ、そう言おうとしたけれど、声が震えてしまいそうで言えなかった。
「ここが…」
よく分かったね、と言おうとして、それも途切れた。
「どうして此処が分かったかって? 簡単に分かるわけないっしょ。どんだけ捜したと思ってるんだって言いたいけど、ごめん。俺が悪いから言い訳さして」
掌を合わせ、謝る和紗は何だか可愛い。
「ん。聞く」
「実は行きたくなくてさ。接待で飲み過ぎた。それで、もういないだろうなって時間になってから出かけたんだ。本屋に着いたのは夜の七時くらい。ところがさ、まだいたんだよな…」
そして紗江子に居酒屋へ連れていかれたそうだ。
少しは惚気もあるのかもしれないが、概ね旦那の悪口だったという。そして浮気してる振りをしたいから、手伝えと。
「浮気?」
「旦那に浮気相手がいるんだってさ」
馬鹿馬鹿しくなって帰ってきた。ただ流石に深夜二時じゃ、花音の部屋に行くのはやめたって。
「寝不足だったけど頑張って早起きしたんだよ。なのに花音ったらさ。朝の八時にもういないんだもん。参ったよ」
その上、携帯を忘れてきたしね。
あの紗江子が浮気されるなんて。以前なら自分も浮気するって感じだったけれど、そこまで馬鹿じゃなかったか。
「いや、あれは近いうちに別れるんじゃないかな。子どももいないし、どうせ喧嘩ばっかしてるんならその方がいいよ」
和紗はそんな風に紗江子の結婚を語った。
結婚したからと言って、幸せになれるわけじゃないんだね。何となく、結婚に対して焦ってる自分がいたかもしれないと思った。
「腹へった。何か食べに行こうよ」
言いながら、先に立ちあがった和紗が花音を引っ張りあげてくれる。彼について歩きながら、花音は思っていたことを言葉にしようと思った。
心の中で、どす黒いものが蠢いているような数日だった。自分の中にこんな醜い感情があるなんて知らなかった。
何より、和紗を誰にも取られたくないって、心底思った。これって嫉妬だ。でも片腕が義手という負い目は、これまでいつも花音に諦めるという選択をさせたのだ。
そんな思いを口にしたら、少しだけ冷たい都会の風が吹きぬけてゆく。
「やっと聞けたな、お前の本音」
振り返った彼の顔には、これまでと同じ大好きな笑顔があった――。
5 贈りもの
―紅葉狩りへ行こう。
田嶋紗江子からの電話がかかってきたのは、彼女が三枝和紗に置き去りにされた二週間後のことだった。
土曜の早朝。
すでに親公認の半同棲である。誰からの電話に出ようと困ることはない、が…。
「あんた、馬鹿だろ」
驚き過ぎて飛び起きた。
和紗は枕元に置いてあったスマホのメモを呼び出し、真っ新な画面に『紗江子』と打った。
「代わるよ」
そう言ったかと思うと子機を渡してきた。
―花音。今日、すっごくいい天気だよ。秩父の方まで紅葉狩りに行こうよ。
二十分後。
彼女は駅前の本屋に着いたと電話をしてきた。まだ開店してないから早く来てくれというものだった。いったい何処からかけてきたのだというくらい早い。
「ドトールにいてよ。支度終わったら出るから」
とりあえず軽装のハイキング仕様だ。
和紗には来なくていいと言った。でも、花音一人だとまたどんな難題吹っかけられるか分かんないから、と付いてくるという。
それに単純に紅葉狩りだと思えば、最高の小春日和だとも。
今年は秋が短かった。残暑が続き、衣替えのタイミングも分からないまま半袖と長袖を交互に着ているような状態だった。
山では落葉も見られるかもしれない。オレンジや黄色の絨毯は、やはり遠出をして体感するのが一番楽しめるだろう。
「じゃ、行きますか」
和紗がそう言って鍵を持つ。花音は頷いて部屋を後にした。
紗江子に会うとすぐに私鉄の特急電車の指定席切符を渡される。どうやら前もって用意していたらしい。
「和紗が来ないとは思わなかったの」
ちょっと意地悪で聞いてみた。
「来るに決まってる。花音に酷いこといっぱいしてたの、知ってる人だから」
そう言って舌をペロッと出した。
紗江子はもしかしたら変わったのかもしれないと、初めて思った。
電車では向かい合う席に紗江子が座る。そして結婚までの経緯や旦那さんの浮気のことを改めて聞かされた。
「馬鹿だったのよね。稲場君に別れるって言われて、それからすぐに結婚の話が出たでしょ。絶対に先に結婚してやるって意地だけだったから」
合コンで知り合ったというから、お見合いではなかったらしいが会って数回でプロポーズしたっていうのは早計に失するだろう。
携帯にある写真は結婚式のもので、長身で白燕尾を着ててもかっこいいねと言える男性に見える。そう言うと見かけだけで選んだようなものだからと自嘲していた。
「別れようと思ったんだ。でも結婚してって言葉は勢いで言えても、離婚は言えない。離婚って結婚の何十倍、ううん、何百倍もエネルギーがいるんだよ」
知ってる? と問われても結婚もしていない花音に分かる筈がない。
「それで浮気してることにしようと思ったの」
「そう。和紗君なら私の本性バレてるから、今更恥の上塗りしてもいいかなって」
ずっと眠っているのかと思っていた和紗が、それを聞いて本当に馬鹿だなと言った。
「起きてたんだ」
「何のために付いてきたと思ってんの」
軽くデコピンされて、額を押さえる。
「相変わらず仲いいね」
その発した声のトーンに、彼女は本当に淋しいんだと感じた。
「そうでもない。私、この前紗江子と会うっていう和紗に怒ってた。紗江子にも嫉妬した。いつも取られちゃってたから」
新人の頃から、何人も花音を素通りして紗江子を選ぶのを見てきたのだ。
あの日、和紗が捜しにきてくれなければ今の自分はもっと醜い感情を育ててしまっていただろう。
そして本音が言えるって、何ていいことなんだろうと痛感している。
「愛人がいるって知ったのは、結婚して三日目だった」
彼女の言葉は唐突に始まった。思わず和紗と顔を見合わせる。
「何もこんなところで話さなくても」
彼の言葉に、紗江子は今だからいいと言う。
「きっと罰が当たったんだよね。今までいろんな人を傷つけてきたから、今度は自分が傷つけられてる。でも誰も心配してくれなかった」
みんな、あっちが浮気してるなら自分もすればいいって言う人ばっかりだったと話しながら涙を浮かべてる。本当に浮気してやろうと思ったら、もう相手もいなかったよと笑った。
そんな時、偶然上司と歩いている和紗を見かけたらしい。
「それこそ一番罵倒されそうな人でしょ。だからその時は見つからないように帰ったの」
それでも会話もない結婚生活は虚しかったらしい。それで花音に電話をしたのだと。
「本当はね。花音に話を聞いてもらいたかった」
でもね、と言って言葉を切る。
「和紗君に会いたいって電話なら、花音の声が聞けるかなって思ったんだ」
まさか本当に和紗が来るとは思わなかったという。
「すごく嬉しくて。花音は全然変わってないんだなって」
そう思ったら、どうしても一緒に遊びに行きたくなったのだと。
「それで紅葉狩りなの」
以前ならあり得ないセレクトだね、と言うと出てきてくれるなら何処に行こうかと必死に考えたと言ってはにかんだ。
「紗江子、本当に馬鹿になったんだね。それってさ、きっと旦那さんのこと、すごく好きだからだと思うよ」
相手のことを考えて、どうしたら楽しんでくれるかなんて発想、紗江子にはなかった。いつも自分の楽しいことが一番だった。
「素直に言ってみたら。浮気はやめてって」
最初は勢いだったかもしれないけれど、今は本当に好きなのって。
この日。
我々は浦山ダムに出向いた。水の流れのある場所での紅葉はそれは見事だ。
現地の人に言わせると、紅葉が遅れてどうなるだろうと思っていたらしい。それでも滅多に来ることのない自分たちは充分楽しめるものだった。
折角だから泊まっちゃおうか、と紗江子が言ったところで彼女の携帯が震えだした。
「旦那さん?」
聞いたら、黙って頷いた。何も聞けずにいた花音に代わり、和紗が何だってと聞く。
「何処にいるんだって。あとは何にも書いてない」
メールだったらしい。
「電話しろよ。それで迎えにきてくれって頼んだら」
和紗が、それで無視されるようなら別れちまえと言う。
そんな簡単な話ではないだろうと思うが、もしかしたら、そのくらい簡単なことなのかもしれない。
「もし無視されたら、一緒に泊まってくれる?」
早くも涙目になってる彼女の頭を、和紗は持っていたパンフで叩いた。
「かける前から泣き言なんて、先輩らしくありません」
久しぶりの先輩呼びに、みんなで笑った。
震える手で携帯を持つ紗江子が可愛かった。そして場所を伝えている。少なくともすぐに電話に出てくれるじゃないかと和紗が囁いた。
「紅葉は、どんな素敵な贈り物をしてくれた?」
泣き崩れてしまった紗江子が落ち着いた頃を見計らって、声をかける。
「どうせなら、みんなで泊まって明日は自分と紅葉を見ようって」
いい人じゃん。
なら泊まるとこ探して連絡しよう、と歩き出す。何だかぶつぶつ言ってるなって思ったら、愛人も連れてきたらどうしようとか。
本当に好きなんだね。
「和紗。紗江子使い物にならない。どっか探して」
そう言うと、分かってると早くも画面とにらめっこしてた――。
陽が落ちると、あっという間に暗闇が迫ってくる。灯りの少ない山ではあるが、半分より少し大きい月明りが辺りを幻想的に魅せていた。
空からの贈り物。
花音には、この空間に二人が在るということと心底から思えるのだった――。
【了】
著 作:紫 草
Copyright © murasakisou,All rights reserved.
サークル投稿用
紫草『色香』シリーズ
1 男 2012年1月 再掲
2 星空 『腕』 2012年3月 再掲
3 嘘 『刷く』 2012年4月 再掲
4 都会 『都会の風』 2013年11月 今回
5 紅葉 『贈りもの』 2013年11月 今回
※作者・紫草さんの本作『色香』は、1~3は、だいぶまえに掲載されており、「小説家になろう」本文にはリンク機能がなく、読者の皆様が混乱を生じる可能性があると考え、一度ここにまとめる必要があると考え、再掲1~3及び今回の4・5をまとめて特集とさせて頂きました。
【著者紹介】
東京にお住いの女性で、塾の講師をなされています。




