07 かいじん 著 嘘 『亡霊』
日中は秋晴れで既に暑気はすっかり去り過ごし易かったが、日が落ちて夜に入ると岡山城本丸の東側の真下を流れる旭川の闇は冷気に包まれた。
秋の夜の静寂に包まれた、本丸御殿で少し肌寒さを覚えながら、杯を手にしているこの岡山城の城主で、備前・美作五十五万石の大領主、従三位権中納言・小早川秀秋は夜が更けるにつれて鬱々として、身悶えするほどに気が塞いだ。
「かような夜には、あやつらの霊が現れる……」
秀秋は苦渋の面持ちで杯を口に含むとそれを手に持ったまま崩れる様に前かがみになった。そして、頭が錯乱して我を失いそうになるのを、必死に押し留める様に、二年前の情景を脳裏に思い浮かべた。
・・・
慶長五年(一六〇〇)九月十五日。美濃国・不破郡関ヶ原西南、松尾山山頂、小早川秀秋陣。
朝から眼下を覆い尽くしていた霧はいまや、すっかり晴れて麓や周囲の状況がかなりよく見渡せる様になった。
最早、深い霧の中で、突如鉄砲の音が響き渡り、その後あちこちから貝が吹かれ鬨の声が挙がり、槍合わせが始まってから既に一刻以上がたっている。麓の方からは絶えず、鉄砲が放たれる音が聞こえて来る。
緋色に二本の釜を交差させた違い釜模様の陣羽織を羽織った小早川秀秋は床几から立ち上がり、幔幕から外に出て麓の方を見下ろした。
この松尾山のすぐ麓では、刑部(刑部少輔・大谷吉継)の兵が少勢ながら、寄せ手の和泉守(藤堂高虎)、丹後守(京極高知)をよく防ぎ、これを押し戻していた。さらにその先では、紺地に児の字を染め抜いた備前宰相(権中納言・宇喜多秀家)の旗が、押し続けて左衛門尉(福島正則)の兵を退らせていた。その北方、治部少輔(石田三成)が陣を構える笹尾山の麓でも、多くの旗が動き幾筋かの煙が立ち昇り、その方角からは時折、大筒が放たれる音が聞こえた。
(……大阪方が押しておる。然れども、未だ形勢はいず方に傾くか分からぬ)秀秋は思った。
・・・
「小早川殿、既に合図の狼煙が上がっておりまする! 何故、馬をお出しになられませぬ! 何卒、早々に出陣の御下知をなされ御出馬候らえ」
内府(内大臣・徳川家康)から、秀秋の元に遣わされた奥平貞治が秀秋の前に進み出て言上した。
「小早川殿、わが主とのかねてよりの約定、よもや違える様な事は御座いますまいな?」
同じく、甲斐守(黒田長政)から遣わされた大久保猪之助が言った。
「そうくどく申すな。念には及ばぬ。されど、今は仕掛ける頃合を見ておる所にて暫し待たれよ」
秀秋は答えた。
「恐れながら申し上げまする。今、小早川殿が万余の手勢を率いて山を駆け下り 刑部少輔の横腹に一当て致さば、刑部が陣は寡兵にて、是を突き崩すは容易き事と勘考致しまする」
「されば、今この時がよき頃合では御座いませぬか」
「……」
秀秋は既に黒田長政を通じて、内府方への内応を約していた。しかし実の所、この期に及んで秀秋はいずれに味方すべきかを未だ決めかねていた。自分がいず方に付いたとしても、この戦、一体どちらが勝つのかがわかりかねた。
内府に味方した所で、大阪方にはまだ、毛利勢二万、土佐守(長曽我部盛親)などがいる。しかも、秀秋はこの関ヶ原に着陣する前、家康、譜代の家臣、鳥居元忠らが守る伏見城の城攻めに副将として加わり、元忠らを討ち死にさせている。
(内府殿はその事をどう思し召しなのであろうか……)
眼下に見える桃配山の麓まで、押し出して来た家康の本陣の方を
眺めつつ、秀秋は思った。……昨日、秀秋の元に大阪方の諸将が連判署名した書状が届けられた。
一、秀頼公、十五歳に被為成迄は、関白職を秀秋卿へ可譲渡事。
(秀頼公が成人するまでの間、秀秋を関白にする。)
一、上方為御賄、播磨國一円に可相渡。勿論筑前は可為如前々事。
(今の筑前名島三十七万石に加え、播磨一国を新たに加増する)
もし関白太政大臣(従一位)になれば、その位は今の内府(正二位内大臣)をも
上回る事になる……。
戦たけなわの最中、秀秋は麓の激戦を傍観しつつ、腹の決まらぬままに時を過ごした。
・・・
同時刻頃、桃配山麓、徳川家康本陣。
厭離穢土欣求浄土(争いに穢れた国を住み良い浄土にする意)
の旗印と金扇の馬標の下、床几に腰を据えた家康は身を乗り出して、ぎょろりとした目で松尾山の山頂を睨みすえ、歯をむき出しにして爪を噛み続け、苛立ちを外に隠さなかった。
「お味方の方々のお働き、指呼の間にてとくと見たい」等と言って山を降りて来たが、実の所は山を降りて前に押し出して来たのは背後が気になって、いても立ってもいられなかったからだ。
桃配山のすぐ背後に聳え立つ南宮山には総勢二万の毛利勢が陣を張っている。その内の先手の吉川広家とは既に通じているとは云え、広家が毛利秀元率いる主力一万五千を本陣に留め続けていられるかどうかはしかとはわからなかった。さらに南宮山南東の粟原山には長曽我部盛親が六千余の兵を率いて陣を張り他に長束正家、安国寺などがいた。
家康本陣の前方では、正面の大阪方の陣へ押し出した味方の軍勢が各所で押し戻され、殊に福島などは宇喜多に数町ばかり(一町は約一〇九m)も逆に押し返されていた。背後に憂いを抱え、正面を突き崩す事が出来ず、松尾山の向背は定かでは無かった。
家康にとって合戦でこれほど追い詰められた気分になったのは、二十七年前、浜松城外の三方ヶ原で西上する武田信玄に仕掛けて散々に打ち負かされ命からがら城に逃げ戻り、城門を開け放ったまま一夜を過ごした時以来の事だった。
如何ともし難いもどかしさに家康は焦れた。さらに一刻(二時間)ばかりが過ぎても、目の前の状況は一進一退を繰り返すばかりだった。家康は松尾山に視線を向けたが、旗が動く気配は一向に無い。
「さては、小僧めにたばかられたか!」家康は思わず床几から立ち上がり、怒声を放った。
暫くの間、憤怒の形相を松尾山に向けていたが、やがて追い詰められた焦燥感が家康に一か八かの手を打たせる事になった。
「松尾山に馳せ小早川が陣に鉄砲を撃ち掛けよ」家康は旗本鉄砲頭、布施孫兵衛重次に命じた。
重次は思わず顔を上げ、驚きの眼差しを家康に向けた。
「仰せ承って候」
布施重次は鉄砲組を率い本陣を出て松尾山にむかった。
・・・
松尾山・小早川秀秋陣
俄かに山の中腹辺りから、鉄砲が放たれる音が聞こえた。
程なく、注進の武者が秀秋の元へ駆け込んで来た。
「鉄砲にて撃ち掛けられておりまする。旗印は丸に三つ葉葵」
それを聞くや否や秀秋は激しく動揺した。
(もはや、内府へ内応する機は逃がしたるか……)秀秋は思った。
(かくなる上は如何致すべきや……)
秀秋は様々に考えを巡らせたが、中々心が決まらなかった。
「殿、お家の存亡は今この時に懸かっておりまする。この上は、内府方、大阪方いず方なりとも致し方無し。されど最早、猶予は相成りませぬ。いざ、旗幟を現しませい!」
小早川家重臣の平岡石見守が言った。
「下知を!ともあれ下知を!」同じく重臣の稲葉佐渡守が叫んだ。
秀秋は床几から立ち上がった。
「貝を吹け! 馬引けい、出陣じゃ!」
秀秋は決断した。
・・・
「金吾を討て!裏切り中納言を討つのだ!」
業病で、崩れた顔を白頭巾で覆い、輿に乗った大谷刑部少輔吉継は軍配を振りかざし、声を限りに叫んだ。
喚き声を挙げながら、松尾山から駆け降りて来る小早川勢一万五千に対し大谷勢、戸田勝成、平塚為広の兵合わせて四千程がこれを迎えうち小早川勢を三度まで山に押し戻した。しかし、小早川に続いて松尾山の麓に陣を構えていた、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らも立て続けに寝返って殺到した為にやがて大谷勢は壊滅した。
大谷の兵の多くは小早川秀秋の方に恨みの目を向けて死んでいった。これを端緒にして大阪方は総崩れになった。
・・・
「覚悟の上の事なれば、この上は是非も無し……されどもあの人面獣心!」病の為に目が見え無い吉継はそう言って、未だ矢玉の音が響いている辺りに顔を向けた。
「あやつを生かしておく事だけは今生の心残り……三年の内に祟りを成さん!」吉継はそう叫んだ後、刃を腹に突き立てた。その首は介錯した湯浅五助により、土中深くに埋められた。
・・・
この合戦の後、論功行賞によって、小早川秀秋は備前美作五十五万石の領主となり改易となった宇喜多秀家の居城だった岡山城に入城した。それから今日に至るまでの二年間は秀秋にとって暗澹たるものだった。時折、夜になると大谷刑部の亡霊が秀秋の前に姿を現して秀秋を悩ませた。近習の者が大谷刑部の姿に変わり秀秋の前に現れて、手討ちに仕掛けた事もあった。眠れぬ夜が多くなり、うつつの夢の中にも大谷刑部や、秀秋に恨みの目を向けて斃れて行った刑部の兵ども、合戦の後捕らえられ大津城の城門に据えられて諸侯の前に晒された後、六条河原で首を刎ねられた石田冶部少輔三成、その晩年感情にとりとめが無くなり、秀秋を内心怯えさせていた太閤秀吉が現れて秀秋を苦しめた。
(ゆるせ、刑部、もうゆるせ)苦悶の闇の中で秀秋は呻いた。
・・・
静かに更けて行く秋の長い夜は秀秋にとって、事の外耐え難いものだった。杯に酒を注がせ、それを半分ほど一息に飲み干した後、大きな吐息を吐いた。
(ワシは継いだ家を守り、残す為に働いた……それだけの事では無いか!)秀秋はとりとめの無い煩悶の中にいた。突如、体の内から、激しい苦痛が湧き上がって来て、突き上げる様にそれは込み上げて来て、口から噴き出された。苦しさに胸を押さえながら、側を見ると、そこには白い頭巾を被り、威儀を正して端座している大谷刑部の姿があった。
「おのれ、刑部!」
思わず立ち上がり後ずさりながら、刀を手に取ろうと腕を後ろに差し伸ばしたが足がよろめき、目が眩んで周りのものが歪んで見えた。
昏くなって行く視界の中で刑部が無言で顔を向けているのが見えた。
・・・
慶長七年(一六〇二)十月十八日、小早川秀秋 早世 享年二十一歳。小早川家は無嗣改易となった。
脳病で病死と言うのが一応の通説だが、その死因については実に様々な説があり、どれが真相に近いのかすらよくわからない。秀秋の実兄、木下延貞も秀秋が死んだ同じ日に岡山城で謎の死を遂げている。
了




