02 紫 草 著 嘘&秋の気配・金木犀 『東雲2‐3・桔梗』
注意・この物語はフィクションです。登場する人物・事柄は全て架空のものです。
01 嘘『東雲2』
早朝。
穂坂桃里は眩しくて目が覚めた一瞬、自分が何処にいるのか分からず寝ぼけ眼で当たりを見渡してしまう。
その眩しさにまず窓側に目を向けると、小さな植木鉢が置いてあった。紫の桔梗の花が、一輪蕾んでいる。
更に部屋を見ていくと、女の子が眠っている。刹那、昨夜のことが蘇ってきた。原嶋舞夏、随分幼く見える大人の女性だった。
よく泊めてくれたよな。
もともと不規則な時間にアパートに居る子ではあった。でも、まさか午前様で帰宅するとは思わなかった。
少しストーカーっぽくなった客を遠ざける為にオーナーが帰れと言ってくれたものの、いざ帰ってみたらセカンドバッグに鍵が入ってなくて思わず玄関前で中味をひっくり返す羽目になった。
後から思えば、盗まれてた。
侵入したのはあの客だと思う。桃里がこのアパートに住んでいるのを知る偶然が、つい先ごろあったからだ。
季節外れのインフルエンザに罹患した桃里は、近所の医院で処方された薬を薬局に買いに行った。そこにあの女が白衣姿で立っていた。
余計な話は一切していない。それでも住所や本名は分かるだろう。
月に一度の来店が、その翌日から毎週末になり二ヶ月が経つ。客からプレゼントを渡されるのは珍しくはない。ただ受け取ることができないものもある。そういう時はオーナーが間に入って断るのだが、彼女が高級洋菓子と一緒に持ってきたのは婚姻届だった。
暫くしたら目覚まし時計が昔ながらの音を鳴らし始め、もそもそと動き出す彼女の姿を眺めていた。
思わず、可愛いと叫びそうになる。
桃里とは違い彼女は寝ぼけることなく、すぐさまお早うと声をかけてくる。
「おはよう。昨日はありがとね」
女の一人暮らしを回避するアイテムとして男性物の下着を干しておくという時代もあった。その時のものだと洗濯だけされた着替えを出してくれた。そして桃里がシャワーを借りている間に、冬用の掛布団にバスタオルをかけて寝たらいいと敷いてくれた。
襲われるとか泥棒されるとか、もっと酷いと殺されるとか考えなくていいのかと聞いてみた。
何かあったら自分に人を見る目がなかったってことですね、と言って笑う。そして明日はゴミの日で早起きをするから寝ると言い、本当に午前二時には夢のなかだった。
素直なんだろうな。
ただそれだけじゃない。どこか達観しているような雰囲気を持っている。それは見た目とか年齢じゃなく、過ごしてきた人生が苛酷だったからだろうか。
こんな早朝に起きたのは久しぶりだ。
一宿一飯の恩義ともいう。コンビニで朝御飯でも買ってこようと支度をしていると、彼女がゴミを出し終えて戻ってきた。
「しっ!」
口を開こうとしたら、舞夏の掌が口元を覆う。
「穂坂さんの部屋の前に、女の人が座り込んでます」
舞夏の潜めた言葉でも、その内容ははっきりと理解した。
冗談だろ…
その姿形から件の女だと推察できるものの、いつまでも舞夏の部屋に居座るわけにもいかない。
誰かを呼んで連れて行ってもらうことはできるが、そうなると此処がバレる。セキュリティなんてついてないし、誰でも入ってこられるから今以上に困ることになる。昨夜からこんなことの連続だ。
「うちに隠れてていいですよ。私は仕事に行きますが、どうせ盗まれるようなものなんてないですから」
「いや、それは不味いよ。出ていくから」
「あの人。避けたいから昨日匿ってって言ったんでしょ」
少しだけ驚いた。
確かにそう言ったね。
「これ、名刺。オーナーに電話するから、夕方までには何とかする。今夜も遅いのかな」
「居酒屋のシフトに変更がなければ、昨日と同じです」
「分かった。その頃になったらまた来るよ」
舞夏はあっさりとスペアキーを出した。
「大家さんって誰だか知ってますか」
「え?」
知らなければいい、と言う。
「あのさ。舞夏って無防備すぎだよ」
自分のことだけ考えれば今の申し出は有難いし、悪さをするつもりもないからいいんだけれど。
でも何か、ちょっと癪に障る。
「じゃ、鍵要りませんか。ずっと引き篭もっててもいいですけれどね。ただ戸締りしないで出ていくのだけは勘弁して下さい」
そういう意味じゃない、と思わず大きな声を出しそうになり、また舞夏に口を覆われた。
そうだ。外にはあの客がいるんだった。素直に謝り鍵を預かる。
もう、いいや。
それから二時間程して舞夏は仕事に出かけて行き、桃里は午後になるのを待ってオーナーに連絡を取った。台所の小窓から外を確認すると女の去る気配はなかった。
店の誰かが来ると覚悟をしていたが、やって来たのはオーナー本人のようだ。先に、絶対に出てくるなと言われていたので聞き耳だけ立てておく。
最初、女の声は小さくて聞き取れなかった。しかし興奮し始めたのか、声が次第に大きくなり帰らないと叫ぶように言うのが聞こえてきた。
一時間くらい話していたろうか。
オーナーが警察に通報すると言って、漸く引き上げる気になったようだ。
暫くして携帯が鳴る。オーナーから今日は店を休むようにと言われた。あの客は出入り禁止にしたと言うものの、とっととマンションに引っ越せと叱られた。
分かってる。
でも此処を離れたくはなかった。子供の頃、夜逃げしてきた両親と住んだのがこのアパートだ。
母が出ていって父子家庭になった。金に困りホストになった後も、ずっと住んでた。いつか母が帰ってくるような気がして。
部屋の鍵はオーナーが取り返してくれたが、業者に連絡して替えてもらった。
大家を知っているかと聞いた舞夏。
「大家はね、俺だよ」
舞夏の部屋を出る時に、聞くことのない答えを残してきた――。
深夜。
舞夏が帰ってきた。桃里は約束通り、彼女の部屋を訪ねる。
「おかえり」
と桃里。
「ただいま」
と舞夏。
玄関先に立つ桃里が言う言葉としては不適切でも、何となく言いたかった。付き合ってくれる彼女は頭も切れる。
「大家に鍵を替えてもらった。今度、アパート全部の鍵を替えてもらうことになったよ」
言いながら預かった鍵を渡す。
「ドアノブが替わったのは、壊したからじゃなかったんですね」
その言葉に思わず笑ってしまう。昨夜、ドアを壊せと言われたんだっけ。
「暫くしたら都心のマンションに引っ越すよ。それまではまたあの女が来るかもしれないけれど無視してくれ」
彼女はすぐには何も言わず、黙って顔を見つめられる。そして少し瞼を閉じ、次に顔を上げた時には視線を外され、分かりましたとだけ告げられた。
「今夜は俺が奢る。このまま出られる?」
帰宅したままの姿で立っているのだ。たぶん大丈夫だろうと思った。しかし…
「その必要はありません。おやすみなさい」
目の前でドアを閉められて、初めて女に振られたことを悟った。
やられた。まさか、断られるなんて。
昨日はよくて、今夜は駄目って理由は何だろう。彼なりに考えてみたものの、分かる筈もない…
桃里は知らなかった。
居酒屋に、あの女がやって来たことを。そして舞夏に声をかけ、此処のことを聞いたのだということも。
彼女は処方箋を手掛かりに探偵に調べさせていた。
このアパートの持ち主が桃里だと知り、住民の舞夏に桃里の女性関係を尋ねたのだということも。
不思議な邂逅ともいえた、夏の夜の出来事である――。
秋の気配『東雲3・金木星』
お隣の、綺麗なお兄さんは先週引っ越していった。
食事に誘ってもらったのに、思わず断ってしまった。
生まれて初めて男の人に誘ってもらったのに。凄く嬉しかったのに。
原嶋舞夏、もしかしたら一生の不覚をとったかもしれない――。
馬鹿だ…
もう会うこともない人のことを、ずっと考えちゃうなんて大馬鹿だ。
この一週間、部屋にいるとぐるぐる同じ思考に囚われている。
あの日、あの女が店に来た。
話があるので休みをもらって欲しいと言われ断ったら、今度は店長にお金を払うから専属で付けて欲しいと頼んでいた。
チェーン店のしがない居酒屋ではあるが、だからこそ比較的個人の判断に委ねられる部分も多い。規則書はあるが、大事なのは人の中味だという店長は、お金の力で何とかしようとする人が大嫌いだ。だから当然、その頼みも断られた。
結局彼女は客として席を取り、煩い店内で注文するたびに少しずつメモを渡してくるという作戦に出た。
最初は読まずに捨てていた。
何枚目のメモだったろうか。
そこに『アパートの持ち主は穂坂桃里だ』と書いてある文字を見てしまい、思わず息をのんだ。
「貴女のいるアパートは、彼のものよ。きっとあのアパートは特別なの。だから本命の女が訪ねてきてる筈なの」
そこまで聞いてしまって、慌てて席を離れた。
大家さんを知っているかと尋ねた時、桃里は何と答えたっけ。思いだそうとしても思い出せない。
知る筈がないと思っていたから、答えなんて気にしてなかったかも。
あのオンボロアパートは彼のもの、というのは本当のことだろうか。
一度聞いてしまったことは頭から離れない。注文をするために何度も席に呼ばれ、そのたびに桃里の様子を囁かれる。
最近は、自分が通うので二番目の売上になっているとか、プレゼントした香水をいつもつけてくれているとか。
次第にイライラしている自分に気付く。
関係のないことだ、と思い切ろうとしたら、知らない名前を告げられた。
「水野操って知ってる?」
ちゃんと話したのだって昨日が初めてだったのに。桃里の名前すら知らなかった舞夏に、彼の何が分かるというのだ。
知らない、と言って離れようとしたら腕を掴まれた。
「何ですか」
「私」
「は?」
「水野、操。いい名前でしょ。桃里君から聞いたことない?」
普段、他人に対して嫌悪感を抱かないように気をつけてはいるが、こういう人は苦手だと思った。
「おばさん、いい加減にして下さい」
おばさん、という言葉は彼女にとって禁句だったのか。突然怒り出したかと思うと支払を済ませ出ていった。
そのまま普通に帰宅したのなら、誘いを断ることはなかった。
仕事を終えて外に出ると水野操が立っていた。そして、店に出ている桃里とアフターとやらで遊びに行くと言う。
アフターが何かも分からなかった。ただ彼と遊びに行くと聞いて、ざわついてしまった、胸の裡…
今日はスーパーのバイトが休みだったから、居酒屋に入る時間が早い。
そろそろ買い物に行っておこうかと時計を見ていると、玄関のチャイムが鳴った。舞夏の家のチャイムを鳴らすのは、国政調査の人くらいのものだ。そして、それは今年行われない。
玄関を睨むように見ていた。暫くすると、ドアを直接叩く音がする。
「舞夏。穂坂だけど、いないの」
刹那、電光石火の早業で玄関を開ける。
「やっぱ、いるじゃん」
桃里は居留守を使った舞夏を責めることなく、そう言って笑った。そして、舞夏の手を取るとその上に鍵を乗せた。思わず、そこにある少し長めの鍵を見る。
「これ…」
「隣の部屋の鍵。預かってくれないかな」
「え?」
流石に玄関先でする話ではない。中に入ってもらうよう誘った。
「どうして、そんな隅っこに座るんですか」
桃里は南の窓際、押し入れに背を預け胡坐をかいている。
「最初に畳半畳って場所決めたら、結構居心地がいい」
何それ、と笑ったものの、小さな足折れテーブルを彼のところまで持っていって、お茶を出した。
「居酒屋のバイトが六時からなので、五時半には出ます」
最初にその確認をして、改めてテーブルに鍵を置いた。
「隣、空家じゃないんですか」
「違うよ。ここは誰にも貸さない」
それを聞いて思い出したことがあった。
「あの人、このアパートに空き部屋ないかって聞いてました」
「誰が」
「あの、水野操って人」
「お前、どうしてその名前…」
あ、そっか。
桃里には、彼女に会ったことを言ってなかった。
「舞夏ちゃん。でっきるだけ、詳しく話を聞かせてもらおうか」
あちゃ~ これじゃバイトに行けなくなっちゃうよ。
「と言いたいところだけど、時間ないね。今度ゆっくり聞くよ」
「お店に来たんです。穂坂さんが此処に隠れてた日に」
「あの女がか」
肯定の意思で頷いた。
「もしかして、このアパートの大家が誰かって聞いたの」
「はい」
「そっか」
それで自分とは距離を置きたいと思ったんだね、と言われてしまう。思わず、違うと叫んでいた。
「私は、大家さんが穂坂さんだって聞いてよかったって思ったくらいです。でも…」
そこで、口籠った。
「でも?」
そこで初めて桃里の瞳を見た。
まだ話もしていない頃から見ていた。綺麗なお兄さんって勝手に呼んでしまうくらい綺麗って思っていた。その人が今、舞夏の部屋にいて話してる。
これって凄いことだよね。
「穂坂さんと遊びに行くって言ったんです、あの人。たぶん嫉妬と羨望かな」
桃里は少し驚いた顔をして、視線を外された。
「気にしないで下さいね。私は大人ですが、大人の人から見ればまだ子供です。学校の先生に憧れるとか、そんな感じです」
言いながら、鍵を桃里の方へ押しやる。
「だからこの鍵は私ではなく、本命って人に預ける方がいいと思います」
桃里が顔を上げた。
「やっぱり、今度ゆっくり話そう。鍵は預けておくから、時々空気の入れ替えしてくれると助かる」
「だから、そういうのは本命の人に」
「俺の本命って、どこにいるっていうの」
!
そう言われると、何処にいるのだろう。
「ほら、買い物行くよ。バイトに遅刻する」
時計を見ると、五時をとっくに過ぎている。
あれ、でもどうして買い物に行くって知ってるんだろう。そんなことを思いつつも、早くと急かされ部屋を出る。
とりあえず、バイトしているスーパーに行って必要なものをカゴに入れていると、隣ではあれこれ手に取りながら同じように商品をカゴに入れる桃里がいる。
何だか似合わない。でも楽しそうだ。
「荷物持って帰ってやるよ。そのまま居酒屋行ったら」
半月に一度の大量購入。それは無理だろうと思ったものの、鍵と言われ出してしまった。
「大家さんなんだから、持ってるんじゃないの」
「マスターキーはセキュリティ会社が管理してるよ」
成程。
会計を済ませスーパーの外に出てくると、何処からともなく金木犀の香りが漂ってきた。
「秋だね」
桃里がそんな風流なことを言う。舞夏は頷きながら、暫しその香りを楽しんだ…。
そして合計四袋にもなった荷物を抱える桃里を残し、居酒屋のバイトへ向かうことにした。
歩きながら、今夜も逢えるんだと浮き立つ気持ちを抑えられそうになく、スキップでもしそうな自分に驚いていた――。
了
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