09 かいじん 著 夏の花 『朝顔』
腕時計を見ると午後の8時を少し回っていた。
JRの駅から数年前に閉山された鉱山の麓にある小さな町まで行く最終のバスは長く続く山裾とすぐ真下を流れる川に挟まれた真っ暗な道路をゆっくりとカーブを描きながら走り続けている。
窓の外の闇の中で窓から漏れる照明の光に照らし出されたすぐ間近の路側線やガードレールや落石防護壁が浮かび上がっては流れていった。
しばらく走って行く内に山並みが遠ざかって、真っ暗な水田の広がった平地の所々に外灯の白い光や、点在する民家の明かりが見え始め、僕の実家がある集落が近付いてきた。
集落の郵便局の前にある停留所の手前で、僕は降車ボタンを押して、バッグを肩に掛けて立ち上がった。
やがて、バスはゆっくりと停留所に近付いて停車し、僕は運転席横の運賃箱に料金を入れてバスを降りた。
僕がバスを降りると、扉が閉まり誰も乗客のいなくなったバスは、さらに数キロ先の終点に向かって走り去っていった。
バスが走り去ると、道路を走る車はごくまばらで、周囲の田んぼの蛙の鳴声だけが響き渡っている集落は熱気の籠もった濃い闇の中に包まれていた。
上空には月は無かったがしばらく見る事の無かった無数の星が輝く夜空が広がっていた。
東京から帰省して来る度に、僕は自分が生まれてから高校を卒業するまでの十数年間をこの夜の闇の深さと静寂の中で過ごして来た事が、何だか記憶の中ではそれ程のギャップが無くてどうも不思議に感じられる。
僕は車の走っていない国道を渡って川の堤防の階段を上って堤防の上から久し振りに夜の川の景色を眺めてみた。
200メートル程上流で国道は橋を渡って対岸の方に出てそこからまた川に沿って北の方に向かって行く。その橋の真下の外灯の真下辺りの照らされた部分の流れだけは白く揺らめいて見えているが、僕の目の前の水面は真っ暗で、川の水の流れる音だけがザーザーと聞こえていた。
中学生の頃まで、この場所でよく釣りをして、夏の夜には何度かウナギが釣れた事があるのを思い出す。そして、自転車と歩行者だけが通れるこの堤防の上の道は、子供の頃から2年前に高校を卒業して大学進学の為に上京までの年月の間に、友達やらその当時付き合っていた彼女やらいろんな奴と何度も歩いたり、自転車で通ったりした。
川の暗い水面を眺め、そんな事を思い出しながらしばらくそこでぼんやりしていた。やがて僕は堤防を降りて国道を渡ってバスの停留所の所まで戻って行った。それから郵便局を少し過ぎた辺りで国道から少しそれている、小さな道を鉱山が閉山する前まで鉄道の駅があった跡地の方へ歩いて行った。
駅の跡地の向かい側に消防団の倉庫があり、その隣の理容店の真っ暗な扉には、「夏休みのため16日まで休業します」と書かれた貼り紙があった。その隣の診療所の入り口にも同じ様な貼り紙があったので、そこにも同じ様な事が書いてあるのかと思ったら、そこには「医師骨折入院の為、休診しております」と書かれていた。
僕は駅の跡地を通り過ぎて、星空の下の暗い道をさらに少し先にある自分の実家の方へ歩いて行った。
・・・
東京から帰省して来てお盆期間の数日を実家で過ごして、明日は東京に戻ると言う前日の昼過ぎ、セミの鳴き声が辺りに響き、強い陽射しが照り付ける中、僕は郵便局の前のバス停留所でJRの駅がある町に向かうバスを待っていた。この山深い集落から、30分ほどバスに揺られてその町まで出れば、駅前に50メートル足らずのアーケードがあり何件かの商店や飲食店が並んだ猫の額程の市街地がある。
僕が2年前までの3年間通った高校はこの町にあった。僕はその日、町で3人の高校時代の同級生に久し振りに会う事になっていた。バスが来ると、僕は開いた後方のドアから乗り込んだ。ドアが閉まると、走り出したバスは数日前の夜にこの集落に戻って来た時と逆の方向に向かって行った。
・・・
「ニガキ、久し振りじゃのう」
JRの駅前で、バスを降りた僕に向かって、左手を挙げながら駅の構内から出てきた桐島マモルが言った。
「苦木君、お久し振り」
その後ろから出て来た、相原美佐子がそう言って小さく頭を下げた。
「何でえ、東京で暮らしょうる割りにゃあ、あんまし変わり映えがせんなあ」
相原の隣にいた、吉原有里子が眼鏡の縁を押さえながら言った。
「今、考えりゃあ高校生活なんかあっと言う間に過ぎて行ってしもうた気がするのう」
桐島マモルがしみじみといった表情でそう言ってビールを飲み干したジョッキをテーブルに置いた。
手書きでメニューと値段が書かれた貼紙が並んだ壁の端の柱に掛かった時計を見ると、夜の9時が近付いていた。
まだ、夕刻にはまだかなりある時間から、鉄板焼きの店で食事しながら飲み始めて、(酒の飲めない吉原有里子をのぞいて)その後、カラオケでも3人で飲み続け、僕は帰りのバスが午後7時40分で終わってしまうので、カラオケを出た後、そこで一度お開きになりかけたのだが、1人だけ車で来ていた吉原有里子が
「ウチが車で送っちゃるけえ」とか言い出した。
僕と吉原の家はここから正反対の方向にあるし、「いくらなんでも悪い」と言ったのだけど、「今度いつ4人揃うかわからんのじゃけえ」とか、一人だけシラフなはずのの吉原が幾分目を据えて言うので結局、その後居酒屋に入った。
「気がついてみたらあれから1年以上たっとるんじゃなあ……ホンマに早いモンじゃわあ」
相原美佐子が桐島マモルに同意して言った。
先ほどまで、僕ら4人は将来どうするのかと言う事について話していた。
この町の少し外れの丘の上にある高校を卒業した後、桐島マモルは大阪の私立大学の経済学部に入学し、相原美佐子はこの町からJRで30分程の距離にある地方都市の女子大の英文科に自宅から通い、吉原有里子も、この町から近い所にある地元の短期大学の保育科に通って保育臨床を専攻している。
桐島は卒業後は企業に、相原は教育関係、吉原は保育士と3人とも卒業後の事は大体決めている様だったけど、実の所、特に何も考えずに、あまりぱっとしない東京の私立大学の法学部に入った僕だけは、大学2年になり、先月20歳の誕生日を迎えたにもかかわらず、自分の将来の事なんて、全く何も考えていなかった。
「アンタは高校の時から何を考えとるんか、ようわからんかったけど、ホンマは何にも考えとらんのんじゃなあ」
吉原有里子がそう言って苦笑いした。
・・・
「今度は来年の正月にでも、また4人で会おうや」
桐島マモルが言った。
「それじゃあ、今度また会える時までみんな元気で頑張りましょうね」
相原美佐子が言った。
JRの駅前で僕らは別れ、駅の反対側に出て歩いて10分ほどの所に家のある桐島と
ここから、2駅先にある自宅に帰る相原美佐子は駅の方に手を振って歩いて行った。
2人と別れた後、僕と吉原は彼女のスズキMRワゴンが停めてある駐車場まで
歩いて行った。
「ホンマにえらい遠回りさせてしもうて何か悪いのう」
本当に申し訳ない気がして僕が言った。
彼女の家は僕の住む山の方の集落とは反対側の、この町から10キロ程離れた
海辺の小さな漁港近くにあった。
「そんなん、別に構やあせんわあ」
吉原有里子が言った。
・・・
「今じゃったらもう構わんじゃろうけえ、聞いて見るんじゃけどなあ」
隣の運転席でハンドルを握っている吉原有里子が言った。
車は山の迫った川沿いの真っ暗な田舎の国道をヘッドライトで照らしながら
走り続けていた。
「アンタ高校の時、ミサコの事が好きじゃったろう?」
吉原有里子は前の方を向いたままだった。
「……ほいじゃけど、仲良うなれた時にゃぁ、もうマモちんと付き合うとったけんのう」
僕は答えた。そう言えばあの頃、(何かうまくいかないものだな)と言う様な事を思ってた様な気がする。しかし、大体あの頃は相原美佐子と話す時、いつも訳も無く緊張して思ってる事をそのまま伝える事が中々出来なかった様な気がする。反対にあの頃、吉原有里子に対しては好き勝手な事が言えていた様な記憶がある。
「ニガキはやっぱり、大学卒業したら東京で就職するつもりなん?」
吉原が僕に聞いて来た。
「ようわからんけど、やっぱりそうなるんかのう……」
よくわからないままに僕は答えた。
将来の事なんて、本当によくわからなかった。
結局、吉原有里子に自宅のすぐ近くまで、送ってもらった。
「ホンマにえろう助かったわ。有難うのう」
僕は礼を言った。
「たまには、メールでもして来んさいよ」
「ほうじゃのう」
「ほんじゃあ、向こうで頑張りいよ」
「ゆりっぺも元気での」
ドアを閉めた後、僕は最後に彼女に向かってガッツポーズをして見せた。
吉原有里子は小さく笑って、それから車を発進させた。
僕は手を振って見送り彼女の車のテールランプが遠去かって行った。
吉原有里子の車を見送った後、僕は蛙の大合唱が一面に鳴り響く中家に向かって歩いて行った。
上を見上げると、こちらに迫って来ると思える位くっきりとした星空が空を覆い尽くしているのが見えた。
・・・
次の日の朝、東京に戻る当日はいつもより気持ち良く目覚める事が出来た。
2階にある、自分の部屋から窓の外を眺めてみると既に陽は昇っていて空はくっきりとした青さで広がっている。その空の下には、僕が上京するまでの間ずっと眺めて過ごした山並みが続いていて、その手前は川の堤防が視界を遮っていた。その下を国道より手前には水田があって、さらにすぐ目の前には向かい側の家があって、この窓から見下ろしてみると、軒先には今年もたくさんのアサガオが花を咲かせているのが見えた。
僕が小さい子供の頃から、向かいの家は軒先でアサガオを育てていたのでどこかで夏の朝にアサガオが咲いているのを見ると、僕は良くここで過ごしていたいくつもの夏の事を思い出す。
僕は窓の外を眺めながら、高校生だった頃を思い出し、それから昨日の事を思い出していた。
今日の午後にはまた東京に戻って、明日の朝にはもう今の自分の生活に戻っている。
(明日もさわやかに、はかない恋……か)
僕はアサガオの花言葉を思い出しながらほんの少しだけほろ苦い気分になった。
了




