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第42話

 どこか遠くで、音が聞こえる。

 その音が徐々に近づいてくる。

 その音の方に、なんとか顔を向けようと努めてみるも体は一切、力が入らず動かない。

 ただぐったりと地面に吸い寄せられる様に項垂れている体が視界に入る。


 始めは恐怖、痛み、諦めへと。そうして、目を開けていることが出来なくなり、闇が支配すると、それはどこか浮遊感にも似た、心地の良い感覚に襲われる。


 アドレナリンだかなんだかが分泌されて、俺の意思とは関係なく、自分を操っているのかもしれない。もしくは体がこの危機的状況を跳ね返そうと躍起になっているやもしれない。


 いや、これは覚えている。

 久しぶりの既視感である。


 前に逃げた時もこんな、感覚に襲われていた。しかし、今回は俺の意思が叫ぶ。

 そうして、体は全く動かず、流れでる血と涙を見ながら、小さく呟く。

 

「ああ。わかってたが………死にたくねぇなぁ」

 

 どこかで、もう一度、過去に行けないかという一縷の望みもあるが、それもなんだか駄目な気がする。

 いや、感情の話ではなく、もう戻ることは出来ないだろう。

 その時、遠くの音とは違う。なんとも形容し難い声が上から降ってくる。

 

「そういう選択をしたのか………他にもやり方があっただろう。でも……まあ、それが君という男なんだろうなあ」

 

 そいつは笑顔で、全てお見通しだとでも言うようにこちらを見て、ため息を一つ。

 

「…………うん。まだ待とうか。まだ連れていくには早い。早いんだ」

 

 闇の中で、彼の声だけが聞こえていた。

 

 

 

 時の経つ早さに辟易していた過去とは違い、今世において、それは得難い快楽へとつながった。それは、彼女と歩んでいくその時々を楽しんでいたからかもしれない。


 既視感などない。


 それは初めて経験する、人としての幸せなのだから。彼女と同じ大学に通い、社会人になれば、一緒に暮らし、そうして人生を堪能した。


 日々を一緒に笑い、泣いて、そうして離れずに手を取り合って歩んでいく。

 これ以上の幸せはない。一度、すべてを失い、人生を捨てた人間が得て良い幸せではないだろう。この上ない至福は瞬く間に過ぎ去っていく。


 初めて手をつないだ日も、初めてキスをした日も、初めて夜を共にした日も、初めてお酒を飲んだ日も覚えている。

 もうこれ以上ないってくらい彼女に幸せにしてもらえた。


 しかし、ここで誤算がある。いや、分かっていたことであるし、授かりものである。


 子が生まれてくることも分かっていたことだ。


 前もそうであった。

 しかし、今回は違う。

 愛情が目に見えて、そこにあって、その子が俺の頬に触れたとき、涙が出た。

 前は出なかった。しかし、今回は止まらない。


 それは絶え間なく流れ出て、そうして、俺の人生を洗い流すようで、不意に思い出す。忘れようとしていたわけではない。しかし、頭の片隅に、巣食っている未来という名の結末。


 俺はベランダに出て、煙草に火を付けた。

 俺の娘である五月が生まれてからは、禁煙していたが、今日は吸っていた。覚えている。今日は俺と桔梗の結婚記念日である。


 久しぶりの煙草は苦く、舌がピリピリと痺れる。煙が目にしみて、空が滲む。手は震えて、曇天へと向かう紫煙に目をやる。ふと頬が濡れていることに気が付いた。雨が降ってきたのだろう。





 俺は自嘲気味に笑うと、煙草の火を消して、仕事へと行く準備をする。

 いつも通り、朝食を済ませて、ネクタイを締めて、バッグを片手に、時間を確認する。

 いつも通りの時間に家を出る。


 その時、ふと桔梗に呼び止められた。


「美月くん。忘れ物です」


 彼女はそう言うと、少し笑ってこちらに傘を差し出す。


「パッパ!わすれもの~!」


 五月の声も追いかけてくる。まだ少し、舌ったらずな言い方も、我が子ながら愛おしい。


「お。ありがとう。それじゃあ、行ってきます。五月も行ってくるな」


 俺はいつも通りに、声をかけ、家を後にした。


「行ってらっしゃい」


「パパ!行ってらっしゃい!」


 彼女の優し気な声と、我が子の愛らしい声に送られて、足は次へと進んでいく。

 


 


 


 仕事を終えて、家族へのケーキでも買って帰ろうかと逡巡するも、ため息とともに店前から離れていく。


 未だ雨の止まぬ空を睨みつけて、俺は家とは別の方向に歩き出した。


 地面からの距離が遠い。思えば、背も伸びたし、後ろにひいて行く影も伸びた。本当に時間が経ったと実感する。


 未だ、連絡を取り合っている橘に、小西。橘は町を離れて、今は弁護士をしているとかなんとか。小西は未だ町におり、システムエンジニアをしているらしい。その小西の嫁さんはなぜだか桔梗とも仲が良い。奇妙な縁である。


 向こうのお子さんとうちの子は仲が良いし、それを家族で見守っている場面が頭に浮かぶ。


 俺はふと、足を止めて、行くのをやめようかと思案する。しかし、また、ため息を零し、しょうがないと、歩を進める。


 俺はふと、桔梗にメールを送ることにした。思いつきである。

 いや、単に、諦めきれないだけか。俺も成長したものだ。

 雨で濡れる手は携帯の画面上で滑って、上手く文字が打てない。また、傘を差しながらだと、片手で打つのはむつかしい。

 携帯はガラケーから、スマホに変わった。


「ちゃんと今日という日を覚えているから、ケーキをかっていくよっと………ああ。文字変換されてないなぁ」


 俺は微かに笑って、ふと前を見ると目的の場所についていた。


 静寂と街灯の光りが寂しげにある。遠くは見えず、近くも限られた視界。

 コンビニ近くの市街地。


 目の前には、雨の中、フードを被った男が一人いた。

 お世辞にも綺麗とは言い難い服装の男である。こんな日に、傘も指していない。


 あたりを見渡す。桔梗も五月の姿も見当たらない。そこには俺とその男しかいない。


 よし、予想通りだな。


 そいつは俺を淀んだ瞳で睨みつけてくる。


「………うえはらぁ」


 地の底から這い出たような声は、雨音の隙間を縫って俺の耳に届いた。


「ああ。はいはい。お前は漆原だな?………なんだやりに来たか?」


 俺はただ、この先の未来を予見し、半ば投げやりに言葉を吐く。


「おお。お前………まだ付き合ってたんだなぁ………桔梗とクソガキまでこさえたんだろぉ?」


 漆原はゆっくりとこちらに近づいてくる。

 どこからか、俺たちを監視していたのだろう、彼は饒舌に俺の身辺を語る。

 街灯の下に出ると、やつの落ち窪んだ瞳、伸びっぱなしの無精ひげ、ひどく細くなった不健康そうな首元から、鎖骨まで見える。


「おお。昔よりも見える顔立ちになったなぁ!おい!?」


「ははははは。お前、この状況分かってんのか?殺すぞ!?」


 漆原は声を出し慣れていないのか、しゃがれて、潰れた蛙のような叫び声をあげる。酷く鬱陶しい響きに、俺は眉を顰めて、終焉を見る。


「さて、終わりだな」


「あ?………あ。あ。あ。あ。ああ。」


 息だけが不自然に漏れ出て、彼はこちらに走ってくる。今世において、彼が何故に俺を殺しに来たのかは明確に分からない。あれだけ煽って別れたのだから、すぐに襲ってくることも考えたが、それはなかった。


 結果、彼はまた過去と同じく、今この時になって初めて襲ってきた。それは彼だけが過去に生きている気がして、少し憐れに思う。


 俺はそうして襲い掛かってきた漆原に、指していた傘を突き出す。漆原は一瞬、戸惑って足を止めて、手に持っていたのだろう包丁を一心不乱に振り回した。


 ビニール傘はいともたやすく、紙のように避けて、雨粒が顔にかかる。そうして、目を閉じた、瞬間に彼がこちらに走りこんできたのが見える。


 俺はすぐさま、彼を蹴り飛ばす。


 しかし、腹からは柄が生えていた。


 そうして、すぅーっと体から力が抜けていく。立っていられなくなり、その場に倒れこむ。腹が暖かくなり、歯を食いしばって前を見る。


 漆原は立ち上がると、「ひっひっひっ」と嗤いながら、また時折、虚ろな目で空を見て、また嗤いだすと、こちらに歩み寄ってくる。


 これは殺されるなと、最後まで奴を睨みつける。


 しかし、誰かの声が聞こえてくると、彼は慌てて、その場を後にした。


 


 


 


 なんてことはない。俺は幸せだった。


 最愛の人に囲まれて、俺は幸せだった。なら、これ以上の幸せを望むのは、あまりに強欲ではないだろうか。


 一度、捨てておきながら、今度は命乞いをするのか?あまりに都合が良すぎやしないか。


「はは。だれが決めた価値観で。だれが敷いたルールなんだか」


 これで良かったんだ。俺は今度こそは彼女を守ると決めていた。五月を守ると決めていた。この町に残って、それが成し遂げられたんだ。自身への後悔も、凄惨な未来からも、すべてを清算出来たのだ。すべてうまくいった。悔いはない。


「嘘つくなよ。格好つけやがって。君は一人で納得してるだけさ」


 でも、もう無理だろ。血は止まらねぇし、目を開けてられない。体も動かせない。もう駄目だろう。


 もう無理だろう?


「まぁまた諦めるのは良いが、でも、良かっただろ?何十年も粘ってみて良かったじゃないか?あの時、落としそこなって良かったじゃないか」


 ああ。良かった。色んなものを貰った気がする。そのすべてを、俺は愛おしく思って、死ねるんだ。本望だ。


「本望だって?………馬鹿いうなよ。本当はあんな奴を相手にしたくないだろう?このままずっと幸せな時間が続けば良かったと思わないか?おいおい………早まるなよ。君は良くても、他はそう思わない。いつだって置いて行かれる奴は、いつまでも君を待ってるんだ」


 それには………言葉が出なかった。言葉は出ないが、最後に一つ言い残すなら、すべてを諦めて、そうして、また救いを求めて、最後まで生にしがみついて………


「ああ。死にたくねぇなぁ」


 そう言えたなら、俺の人生に悔いなんてなかったのかもしれない。


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