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第38話

 あの日の事柄が禍根を残し、あいつが仕返しにくることは容易に想像できる。

 しかしながら、あいつに対する憎しみが晴れたとは言えない。


 自分という人間は、友を殴られ、家族を奪われれば何発殴ろうとも心のしこりは取れない人間らしい。


 当たり前だがそうなのだ。


 それは世間一般の感覚に近いようだが、どこか空虚な心は憂鬱になる。まぁ、世間一般の人間が皆、自分と同じような境遇ならば、世間がおかしいのだが。


 数日後に漆原も隣の病院に行ったそうだ。それは最近、名前を覚えた片山君を締め上げれば、すぐに吐いた。


 事の真相を桔梗に言えば、複雑な心境なのか、苦悶の表情で話を聞いており、そうして、深く頷いて、まず俺の身を案じた。そうして、俺の安否が確認できると、その日はお開きとなった。


 未だ、桔梗は殺人犯が漆原だと知らない。


 それを彼女に言ったところで困惑するだけだろう。知らぬが仏である。


 


 


 


 橘が退院する日は春の陽気に包まれていて、桜が咲き誇り、世界が一新されたような気持ちになったが、そんなことはなく、俺の話を聞いた橘は沈んだ表情で桜を見ていた。


「俺がまた余計な気をまわしたからか………」


 橘は悲痛な表情でそんなことを呟く。


「また?」


「昔………友達が他クラスにいて。それでイジメにあっていたんだ。俺はその虐めてる奴らを注意したんだが、逆上したそいつらとひと悶着あって。それで、最終的にそいつらの矛先は俺じゃなくてその友達のところに向いた。今までよりも、いじめは酷くなって、俺が守ってやれない状況で、凄惨な事件が起きた。俺は………また同じようなことをしたんだな」


 それは自分を殴り倒した漆原を想った言葉であり、この状況を憂いて言った彼の本音であろう。


「そうか………同じようなことね………はは」


 俺はそう呟いて、彼の言葉を反芻し、乾いた笑いが生まれた。


「いや。美月が悪いと言ってるんじゃない。俺は結局、その程度の男なんだと思っただけだ」


 橘も俺につられて、少し笑ったが、最後には寂しそうに俯いた。


 俺は何を言えばいいのか、彼よりも長く生きているくせに言葉は見つからなかった。


 


 


 


 4月が終わろうかと、季節が揺れ動き、俺は高校三年生になり、受験期へと入った。


 漆原が退学になったことは、やはり片山君から聞いた。


 そうして、逆に退学になったことはあいつが時間を持て余している状況であり、危機感を持っていた。


 あの時から漆原がいつ殺しに来るか分からない状況に嫌気が指す。


 いつあいつがとち狂って桔梗を殺しに来るか分からない。思えば、あいつは俺に勝てないことを分かっていた。


 だから今回も片山やらとつるんで自分を自衛していたし、未来でも俺のいない隙に桔梗を狙った。姑息で狭量な奴らしい、卑屈な手段である。


 そんな人間がいるならば、いっそのことこの手で先に殺してしまおうかとも思うが、それでは意味がない。


 それではミイラ取りがミイラになる。


 どうにも打開の策は思い浮かばない。


 なら、もう逃げるしかない。ああ。もう逃げるくらいですべての方がつくなら安いもんだ。


 俺は桔梗を放課後、呼び出し、大学に進学すると同時にこの町を出ることを話した。


「………やっぱり美月君もそう思いますか?」


「ああ。こんな町に愛着もないしな。あの通り魔がいつ殺しに来るか分かったものじゃない。過去と今では異なる道を進んでいるわけだしな」


「でも、橘くんとか小西君。友達もいますよね?」


「ああ。それも新しい街で新しい友達も出来るだろ」


 俺は吐き捨てるように言う。それに、彼女は一瞬、眉を顰めた。しかし、それも俺の所為ではない。この不可思議な状況が生み出した単なる気の迷いだ。


「そうですね………」


 桔梗の顔に翳がかかる。彼女が提案したことに俺が素直に乗ることに、何か懸念すべき点でもあるのだろうか?


「なんだ?」


「え?」


「いや。なんか嫌そうじゃないか?」


「嫌ってわけじゃないんです。………でも、今の美月君はどこか投げやりな気持ちになってるから」


 言いづらそうに言葉を呟いて、軽く咳ばらいをする。


 何を言ってるんだろう?


 そう、疑問に思った。どう考えようとも、あいつの狂気から逃げるならばそれが一番いいし、俺も桔梗も頭は良い方だし、余裕で他県の大学にいくことも出来る。


 そうして、そこで新しい生活を始めるだけだ。


 今と大して変わらない。


「だから?………じゃあ、逆にあの殺人鬼から逃げる方法があるのか?」


「…いえ。分からないです。確かに具体的な対策が練れる事案とも思えないです」


「じゃあ。なんだ?何が不満だ?」


 俺の語気が強まるたびに彼女の睫毛は揺れていた。俺はそれを見ながら、早く同意しろと感情が先走っていた。


 あんな姑息な人間から逃げ続ける卑屈な日々に嫌気が指し、何を置いても彼女との平穏を願っている。それが伝わらない怒りと、自分への不甲斐なさ。


 最善手だと思っていた手が、発案者から言外に否定されているような気がして、気が滅入る。鬱陶しさすら感じる。


 あの彼女に対してである。


 しかし、俺の理性は消え去った。橘も桔梗も俺に何を求めているのか?と憤懣やるかたないとすべてを無下にしてしまう。


「美月君。私は美月君のことが好きですよ?」


 彼女のか細い声が鼓膜を揺さぶる。


 急な話題の転換に当惑する。こいつは何を言っているのか?という疑問は、なんとも言えぬ熱を帯びて、そうして消沈した。


 空を見上げ、昔のように息を吐く。


 白く濾した空気を吐くのだ。そう透明であるが、どこか濁ってしまった色だ。


 俺が手を伸ばし、彼女の肩に手をやり、顔を近づける。


 キスは何度もした。しかし、今日は熱を帯びなかった。何故だろう?

 空気中に霧散する感情はどこか卑しく、嫌らしい。


「なぁ、これは問答するようなものでもないだろ?一緒の大学に行きたいだろ?」


 彼女は乾いた唇を噛んで、こちらを見ていた。


 まるで殺人鬼を見るような目でこちらを見ていた。それが非常に腹立たしく、しかしそんな感情もどうせすぐに治まる。


 どうでもいい。


「美月くんは………どうして。………いいえ。どうして私といたいんですか?」


 またよく分からぬ質問に、こちらは苛立ちが募る。


「桔梗は何が言いたいんだ!?」


「いえ………でも。多分。あの日の朝もこういう感じだったのかもしれませんね」


「どういう意味だ?」


 俺はそこで彼女が泣いていることに初めて気がついた。彼女が何を求めていたのか。馬鹿な俺はまた間違えて、またどこか虚しさだけが胸を衝く。


 そうして、彼女のその言葉が引き金になり、どこか面倒だ。この状況から逃げたいと心が身体から離れていくような感覚に陥る。


「美月くん。少し距離を置きませんか?」


「え?」


「今の私たちでは多分、最寄りの駅も越えられませんよ」


 桔梗はそんな安っぽい言葉を残し、俺のもとを去った。


 俺は一人、残って徐々に気が晴れていくのを感じていた。

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