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第36話

 曇天の下、俺は彼女に電話をする。


 何度目かのコール音の後に、彼女は出た。


 俺は今から、喧嘩をしに行く旨を伝えた。いつもならば、こんな用事で電話はしないだろう。最近では、めっきり喧嘩もしなくなったためだろうが、何故か、その時は彼女に伝えなくてはと思ったのだ。


「桔梗?………俺だ」


「美月くん?………どうしたんですか?」


「ああ。今から、漆原と話し合いにいくよ」


「話し合い?………竜二くんが何かしたんですか?」


 桔梗は話を察して、こちらに不安そうな声を届ける。


「ああ。あいつが橘を病院送りしたみたいだ。確証はないがな」


「そう………ですか。りゅう……竜二くんが。でも、なんでなんですか?」


「それを今から聞きに行くんだ」


「そうですか。分かりました。こんなことを言っても、美月くんは聞いてくれないと思いますが、あまり無理はしないでください」


「ああ。分かった」


 俺が電話を切って、また違う人間に電話をしようとしたとき、小西が不思議そうな顔でこちらを見ていることに気が付いた。


「ん?」


「ううん。美月がちゃんと彼氏をやってるって思って」


 小西は今までの浮かない顔から、少し笑顔を取り戻した。俺は珍しく揶揄ってくる小西に、こちらも笑顔で答える。


「お前は俺の母親かよ?」


「ううん。僕らは友達だよ。………だから、今から話し合いに行くんでしょ?」


 小西はまた少し悲しそうな顔で、空を見上げて呟いた。俺はそれに返答できずに、漆原に電話をした。


 


 


 


 漆原はすぐに電話に出て、話がしたいと言うと、酷く落ち着いた声で、町はずれの広いガレージを指定した。


 この町の人間ならば誰もが知っている、人通りの少ない場所だ。もともとは大型スーパーのために作られたようだが、すぐに隣町に別の大型商業施設が建設され、スーパーは潰れ、ガレージだけが残った。


 寂しく残ったガレージには今では誰も近寄らない。


 俺は場所を小西に伝え、小西は俺に危なくなったらいつでも携帯に連絡を入れるようにと伝え、別れた。


 俺はふっと息を吐き、背伸びをする。特別、緊張することもなく、恐怖もない。今は怒りも収まり、何故にあれほどの怒りが湧いて出たのか不思議にも思う。


 いや、橘の容態を思うに、怒りは湧くが、また毛色の違う怒りであった。


 ………ああ。そうか。


 俺は天を仰いで、その男の容姿を思い出した。最後に会ったのは法廷だったか。それとも別の場所か。


 あいつの顔は覚えていた。殺してやろうとも考えたが、それで何かを取り戻せるわけでもなく、ただ単純に殺意だけが心にしこりを残した。


 そうして、一人呟いた。


「ああ。お前だったか」


 頬はこけ、目は落ち窪み、顔を覆うほどの艶を失った毛と、髭面が印象に残った。そうして、名を聞くまで誰か分からなかった。


 あいつの情報はこちらが耳を塞ごうとも、嫌でも入ってきた。俺と同じ齢のいい年をした大人であり、職を転々とし、捕まったときは無職であったとか。


 そうして、自ら警察署に赴いて、自白したらしい。確かに、あいつは器も小さく、憶病な人間であったし、いつも周りを人で固めていた。そんな奴のことであるから逃亡生活の重圧に耐えきれなくなったことは容易に想像できる。


 あいつは最後に俺に言った。


「下らない人生だったが、最後に一花咲かせてやった。楽しかった」と。俺は意味が分からなく、すべてが終わった喪失感から、ただぼんやりとあいつの後姿を眺めていた。


 いや、違う。


 共感は出来ずとも、理解は出来た。奴の境遇に同情など微塵もないが、分かる部分が俺にはあったのだ。


 それがさらに、奴への憎しみを募らせた。


 俺も同じだった。全く持って下らない人生だと考えていた。すべてに嫌気が指して、人生に一筋の光明が差せば、雲がかかって、途端に見えなくなる。


 前の自分はそれが周りの所為であると考えていた。それがどれほど馬鹿げたことだとも気が付かずに、ただ周りの所為にし、そのくせ、周りに甘えていた。


 そんな自分だからこそ、あいつの言わんとしていることは分かってしまった。


 そんな人間であるからこそ、俺がやつを殺してやろうとも真剣に考えたが、俺は自らの懺悔の気持ちと後悔へと視線を合わせ、消えていった。


 名を反芻すると、確かに思い出される。


 俺からすべてを奪っていった男の名だ。


 漆原 竜二とは、俺から全てを奪っていった男の名だ。

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