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第32話

 彼女は普段は静かで大人しいのに、自分の趣味の話では饒舌になるところが可愛らしかった。


 いつも表情に乏しいのに、嬉しくなると、よく笑うところも惚れた部分かもしれない。流れとはいえ、好きになったのは事実であるし、彼女が笑うと俺も嬉しかった。


 それなのに、家族に構わず、毎日、外に出ていったのは何故だろう。


 それは単に俺がいつまで経っても、幼く、狭量で馬鹿な人間であるからに他ならない。


 これから先、仕事をし続けて、死んでいく人生に辟易していた。幸せの行き着く先に、いわゆる家庭を持つことにある種、満足していた。


 彼女と出会って変わった非日常も、徐々に日常へと風化していく。子供が出来ても、それは変わらず、毎日、毎日、気怠い体を引きづって会社へ向かう。これが幸せだというならば、それもそうだが、俺は何故かあの時、そうとは捕らえずに、町で酒を飲んでいる間だけは全てを忘れられるような気がした。


 ある意味で、夫、父という部分を背負いたくなかっただけの根性の無い人間であったのかもしれない。


 彼女がいて笑ってくれさえしていればそれで良かった。

 休日に彼女と出かけ、趣味の話をして、お互いの足りない部分を埋めていく楽しみ。

 もしそれに気が付いていたら、そういった家庭を守るかことが生きがいになっただろう。


 それに気が付いたのは家族を失ってからであった。


 俺が飲み会から帰宅すると、そこには誰もおらず、携帯の着信履歴がものすごい数であったことを覚えている。


 彼女と五月が家にいないことに違和感を覚え、急いで電話に出たときにはもう彼女も五月も亡くなっていた。


 その連絡を受けてから、葬儀が終わるまでは短く、記憶も曖昧である。話によると通り魔殺人によるものであった。


 彼女と五月が二人で、買い物に出かけたところを狙われたそうだ。


 それ以上、聞く気にもなれず、俺は魂が抜けたように、また毎日の生活へと戻っていった。


 世界は変わらず、二人がいなくなったあいも変わらぬ日常へ。


 急に家族を奪い取られ、はじめこそ、その犯人に怒りを覚え殺意に芽生えたが、それも一週間ほどであり、それを考えると頭痛がするので、考えることを放棄した。


 そいつがどういう奴で、何故に俺の家族を狙ったのかは分からない。


 何かが起こって、そいつが大病でも患って死ねばいいと考えるまでに落ち着くと、次には自分とはなんなのだろうと考え始める。


 彼女を好きだったはずなのに、すべてから逃げて、挙句の果てには彼女の最後の我儘さえ聞いてやれなかった、そんな矮小な男である。


 これでは泣くに泣けない。後悔しか湧いてこない。


 そうして、そんな後悔ばかりが頭に巣食うと、何もやる気がなくなってきた。仕事などする必要がない。食べるのも最低限。寝るのも気が付いたらで良い。風呂などどうでもよい。


 いや、生きていることさえどうでもよくなってしまった。


 そうして仕事も辞めて、家で一人、毎日、適当に過ごしていた。思えば、娘の未来のために残しておいた資金がある。


 もう必要なくなったその金で毎日を過ごしていた。

 我ながら反吐が出る。これが最低な父親の成れの果てかと、自分というものの根底に潜む、哀れな弱さを痛感する。


 何度か、妹が俺の様子を見に来ては世話を焼いていたが、それも鬱陶しく、煩わしい。


 妹は元旦那の浮気と家庭内暴力で離婚した過去を持っており、それ故、実家にいた。俺も彼女のご両親の勧めで地元にいたため、妹は足しげく通うことが出来たのだろう。


 妹とは学生時代から口も聞いていないのに、彼女は何故か俺を気にしていた。


 思えば、俺が死に急いでいることを妹は悟っていたのかもしれない。


 妹は何かを俺に言っていた。ほとんど聞き流していたが、犯人のことをどうやら妹は知っているらしかった。


 まぁ、そいつの素性を今更知ったところで、何も元通りになどならないから意味がない。


 妹は俺に同情して涙を流す。しかし、俺はそれを見て、また後悔するのだ。


 俺は人に泣いてもらうような価値のある人間ではないと。


 ただ彼女が笑っていて、五月も笑っている未来を望んでいた。平穏な未来を歩いて行くものだとばかり考えていた。


 桔梗が守ってくれていた日常に甘えていただけの俺に何を同情することがあるのか。


 そうして、落ちていく自分の精神と、ふと彼女と見たアニメだったり、彼女が好きな話をする表情を思い出すと、後悔が自分の首を絞めてくる。


 ちゃんと好きだったのに、意味もなく俺は馬鹿なことをしていた。


 なくなってから初めて気が付く。いつもそうだ。


 高校時代の友人も、大学時代の友人も皆、俺は自分勝手に振舞って失ってきた。しかし、気が付かず、最後に最愛の人を亡くして初めて身に染みて感じた。


 俺は救いようがない。


 俺は最後に旅に出ることにした。


 後悔の中で、それに耐え切れず、ああそろそろ死のうと人生の終わりへと船出を切ったのだ。


 


 


 


 煙草を吸っていると目にしみる。それ故、涙が零れた。


 それは最後くらい、こんな駄目な自分でも故人を悼む気持ちを表しても許されるだろうと思ったからだ。


 ボロボロ溢れる涙を拭うこともせず、嗚咽を漏らして泣いた。


 ようやく俺は彼女に会いたいと心から思えたのだ。

 真っ新な状態になれば、彼女にまた会えると妄想してしまう。


 泣いて疲れて、また彼女を思い出して、笑みが零れた。


 彼女は最後に俺のことを案じていたことを思い出したのだ。

 でも大丈夫。どうせずぶ濡れになるんだ。


 そうして濡れネズミになった俺を笑ってくれ。


 黒い海が眼前に広がっており、いや、暗闇と同化していて陸と海の区別がつかない。暗闇に落ち着いて、気が付けば煙草の火が消えた。


 とすると俺の頭上で月が光っていた。


 美しい三日月であった。


 もう、あの月光を甘受することは叶わない。いや、願いもしない。ただ、薄っすら笑った気がしたのは、最後に救いを求めていたからだろうか。


 まぁ、もう分からない。ただこの身が投げられて、遠くなる意識の底で彼女に会いたいなと思った。

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