第13話「鶴高校」
夏、この県を制して全国に出場した黒光高校。たまたまといって良いほどそれは、幸運なものであり、そして、彼らにとって、不運なものでもあった。
「全国一回戦負けじゃあなあ。甲子園、鉄日が出てた方がましだったんじゃねえか?」こんな言葉、いくつも投げ掛けられた。黒光高校ナインは、甲子園に大きな借りがある。秋の県大会、北信越大会を勝ち抜いて、なんとしてでも再び全国の舞台に立たなければならない。そう考えていたのは、キャプテンの今宮だった。
「早速第一試合に鶴vs大瀬良がある。ベンチ入りメンバーはそっちを見る。んで、マネージャーとベンチ以外のメンバーで手分けして、同ブロックの試合をビデオに収めてきてほしい」
今宮に指示され、黒光高校野球部のユニフォームを着た者全員が一斉に動き出した。
「鶴高校と言えば、猿渡がいたよな」
「ああ」
そうやって会話しているのは二年生の山口寿と小林翔馬。その二人に古堂が訊いた。
「その、猿渡って、夏大会でめっちゃ目立ってたあの猿渡ですか?」
「ああ」
鶴高校――南地区に在する公立高校。白銀世代に数えられる遊撃手、猿渡紋太がいる。1年時の秋、そして今年の春大会では一切出場していなかった鶴高校だが、今年の夏、彼が中心となって、3年生がほとんどいなかったにも関わらずベスト16という成績を残したのだ。
「猿渡のプレイはよく見ておいた方がいい。あれは大坂や江戸川、黒鉄とはまた違ったベクトルの化物だ」
新田に言われ、古堂は息を呑んだ。
秋大会一回戦第一試合、鶴高校vs大瀬良高校の試合がプレイボールとなった。先攻は鶴高校。
「1番、ショート、猿渡くん」
ウグイス嬢が猿渡の名を呼ぶと、打席から大きな声が聞こえた。
「おねがっしゃす!!」
ヘルメットを上げてバットを構えた猿渡。前に出た口元、長めのもみ上げ、潰れた鼻に太い眉、小さい体躯、猿のような全身。
「言い方悪いけど……猿みたいっすね」
「猿じゃん」
古堂の隣で鷹戸が言った。鶴高校ベンチからも「猿!」と叫ぶ声が聞こえる。新田は苦笑いしている。
「こればっかりは鷹戸の言う通りなんだよなあ……」
大瀬良の先発が投げた一球目。三塁線に転がしてしまう。
「凡打だ」
「大したことないんじゃ……あの程度のストレートを凡打とは」
「いや、見ろ! あれだ」
新田が指差す方向。それは観客全員が見ている方向――打球ではなく、猿渡そのものだ。
(走塁はやっ……)
サードが送球するよりも一塁ベースを踏む猿渡。内野安打である。
「あの当りって、うまくいけばゲッツーだって可能なくらいの凡打なのに」
「転がしすぎてるわけでもないしな。猿渡の足が速かったとしか言えないな」
新田が唸る。
「アウトもらったと思ったピッチャーからしたら精神的にダメージあるよな」
「そーっすね……」
普段はうるさい古堂も黙り込んでしまった。鷹戸は不機嫌そうに一塁ベースを睨んでいる。
「気にくわないな」
鷹戸の背中から怒りが伝わった新田はまた笑う。
「その心持ちで来週も頼むぜ」
猿渡の内野安打から始まった鶴高打線の攻撃は、初回から二点を奪う。
「四番でピッチャーの平田……初打席からタイムリーツーベースかよ」
「安定感のあるバッティング。パワーは猿渡よりもある感じですね」
「背は並なのに」
キャッチャー金条は鶴高校打線をしっかり研究している。メモ帳とペンをしっかり携えていた。
そして大瀬良高校の攻撃。投げるのは先程2打点を上げたピッチャー、平田恒太。
「こいつは……白銀世代ではないが、いいカーブを投げるよな」
平田の武器は縦に割れるドロップカーブ。大瀬良打線を完全に封じ込めている。
「手前であんなに落ちられたらなかなか打てるものじゃないね」
クロ高の三番バッターを務める山口はそう言って平田をまじまじと見つめる。
(とか言って寿は簡単に打ちやがるからなあ……)
そして、その後両チームともに点を挙げることはできず、2-0で鶴高校が大瀬良高校を下し、2回戦進出を決めた。
「2回戦は鶴高校……猿渡紋太、平田恒太……注目選手はここら辺りか」
「この二人は強力だけど、いつものようにやれば勝てない相手じゃない。最悪猿渡と平田を歩かせても勝てるようなチームだ!」
田中は自信満々に高笑いした。今宮は笑っていない。
「やめろよ遊。野球ってのは、そう簡単に『いつも通り』をやらせちゃくれねえんだ」
「そ、そうだな」
今宮はやけに冷静だ。そして、落ち着いている。
「さあ、今週一週間は大変だぞ」
スタンドの座席から立ち上がると、ぞろぞろと外に向かって歩きだす。
(すごいな……やっぱり)
試合終了と共にぞろぞろと去っていく観客たち。これだけの観客がこの球場に来ていたことを、席を立ってみて初めて気づいた古堂。
(ますます投げたくなってきた……来週……早く来ねえかな)
来たる試合の日。県の出場校は全部で56校。そのうちの24校が一回戦で姿を消し、残るのは32校。ベスト8まで残り2勝。ここで、夏ベスト8だったシード校が現れる。
「今日は黒光出るじゃねえか! 鶴とだろ?」
「夏強かったからな黒光。黄金時代が抜けてどんなチームに仕上げているだろうか」
「しかし、鶴は夏から大きく成長したよな。特にピッチャー。1年生の守備もしっかりしてるし、下克上あるかもよ」
ざわつく観客の合間を通り抜け、選手控え室に入るクロ高。先発は新田静。不満げだったのは鷹戸ただ一人だった。
「猿渡には注意。守備も上手い。ヒット性の当りも平気で捌きやがる。だから基本的にセカンド方向に飛ばすこと。高い打球打てないかぎり右半分は危険だ」
「平田のドロップカーブは高低差もあり、落ちる幅もすごいですが、球速に優れているわけではありません。甘く入ったストレート狙いでも十分打っていけます」
金条が調べた情報を読み上げる。古堂は先程から、同じメモ帳の打者のページを破って渡してもらい、ずっと読んでいた。
「コドー、打者の研究はいいが、お前まだ投げるって決まったわけじゃ」
「いや、例え投げなくても、好打者二人がいるんですから調べておいて損は無いですよ。それに、まだ投げないって決まったわけじゃ無いですよ先輩」
古堂は笑って、メモ帳を金条に返し、その先輩に笑いかけた。
(コドーのこういうところ、俺は苦手なんだよなあ)
ベンチ入りしていた先輩は後頭部を掻きながら、彼の後ろを歩いていく。
一方、こちらは鶴高校の控え室。一塁側のベンチだ。
「猿、先発は新田だってよ」
「ああ。予想通りやな」
猿渡と平田がクロ高のオーダーを見て呟いた。
「多分猿以外にこれを打つのは厳しいだろうね」
「秋江工業高、三浜戦は先発違ったのにね」
「んまあそんなこともある。気にせずやってこー」
「クロ高に勝てば、8強入り間違いなしや。絶対勝つで!」
関西弁の男、猿渡が円陣の中心に立って叫ぶと、全員がそれに答えた。
全員がベンチから出て来て整列する。主審よりプレイボールの号令がかかる。先攻は鶴高校。先頭バッターは、白銀世代の猿渡。
「おねがっしゃす!!」
叫ぶ猿渡。新田は深呼吸をして一球目を握る。
(一球目はシュート……)
高め、紙一重にバットを通り抜けストライク。
(タイミングばっちりじゃん……二球目は低めのストレート……)
金条がミットを構える。エリアの淵だ。新田はそこに真っ直ぐ、そして寸分の狂いもなく投げた。
(よしっ!)
猿渡がバットを振り抜いた。バットに当たるボールは真っ直ぐピッチャーの足元へ。その打球は、高低差のあるマウンドで跳ね、セカンド今宮が走った方向と逆へと向きを替えた。
「い、イレギュラーバウンド!」
今宮の反応の早さが仇となるかと観客が思った次の瞬間、今宮は咄嗟に身を翻し、後ろを向いたままグローブをはめていない右手で打球を掴む。その間にも猿渡は一塁ベースに向かって猛スピードで駆けていく。
「げっ、あれを取るのか!?」
驚く鶴高ベンチ。今宮はそのまま一塁ベースに背中を向けた状態からオーバースローのフォームのようにファースト伊奈のミット目掛けて右手で受け止めたボールを投げた。
「セーフ!」
セカンド今宮の送球も、ファースト伊奈の捕球も完璧だった。しかし、猿渡のヘッドスライディングがそれを一歩上回ったのだ。
「っしゃナイスヘッド猿さん!」「いいぞ猿!」
沸き立つ鶴高ベンチ。観客もざわめきたつ。
(うわー、さすがクロ高……鉄壁の二遊間侮れねえ。普通に考えて今のは抜けるっての)
肝を冷やした猿渡。対して、クロ高ベンチからは惜しむ声が漏れる。
「今宮さんがファインプレーだっただけに今のはアウト取りたかったな」
1年の林里が言う。古堂も頷く。
「逆に考えろ。猿渡だったら外野に行けばツーベースヒットだ」
「ま、マジすか」
二番打者はバントの構え。
(猿渡はどーせ走る。そしてセーフになる。だったらもらえるアウトもらっといたほうがマシだろ)
新田開き直ってスライダーを投げた。ボールカウント。その間にも二塁ベースへ走り抜けた猿渡。盗塁成功である。
(クイックモーションすらみせへん。開き直られると逆に怖いわ)
二塁ベースから背番号1をじっとみる猿渡。ノーアウト二塁の状況下、新田はもう一度深呼吸をした。もう一度、投げた。次は高めのスライダー。二番打者はバントの構えのまま、バットにボールを当てた。既に猿渡は走っている。
「!!」
金条はすぐさま拾い上げ、一塁へと送球。ファースト伊奈がしっかりと捕球してまずはワンアウト。その間に猿渡は難なく三塁ベースを踏んでいる。
「っしゃワンアウト!」
ベンチから盛り立てる。打席に立つのは三番バッター。次が四番平田であるが故にここで打たれることなく行きたいところだった。
(外野に運べば猿さんは帰ってくれる……意地でもあててやら)
一球目のシュート高め。掬い上げた。
(こいつらさっきから初球打ちばっかり……!)
ライト小林が緩く上がった打球をノーバウンドで捕球する。かなり浅い。ホームベースまでの距離もそこまでない。しかし、猿渡は走った。
「この距離でタッチアップかよ!?」「バックホーム!」
猿渡が走り出すと同時に小林の肩が振り抜かれ、バックホームの送球。ぴたりと金条のキャッチャーミットに収まる。猿渡は既に三塁ベースを飛び出している。
「良い送球だったな」「さすがの猿渡も帰れないか」
金条のブロックにより、猿渡はタッチアウト。そうなると誰もが思った――しかし、猿渡は、腰を落としてブロックの体制にはいる金条の目の前で大きくジャンプした。
(えっ!? はっ!?)
軽く頭上を越えていく猿渡。金条がキャッチャーミットを振り上げ、何とかタッチしようと試みるが、そんな彼の浮いた腰のすぐ後ろ――ホームベースの隅を、猿渡はかかとでしっかりと踏んだ。
宙返りだ。猿渡は金条のブロックを宙返りで避けたのだった。
「うわあ!!!」
今のプレイは観客の度肝を抜いた。初回から先制点を決めた鶴高校。
「今の見たか?」「ライト良い肩してる」「いや。それよりも猿渡だよ」
派手に宙返りして一点を手にした猿渡が作り出したこのムード。観客は完全に呑まれ、鶴高校を応援する声もちらちらと見られるようになってきた。
「これはクロ高が2回戦で消える――なんてこともあるぞ」
「ツーアウトランナー無しだ! ラストひとりしっかり行こうぜ!」と今宮。
「気にすんな静! あんなの体操やってろってんだ!」と田中。みんなが新田に声をかける。
(ははっ……俺かなり心配されてんな……でも大丈夫。俺はまだ、投げれるよ)
そうやって頭の中で考えながら、続く四番平田。彼相手に三球三振でバットにかすらせることすらさせずに終えた。
そして、クロ高の攻撃となる。
ゲッツー……併殺。打ったバッターだけでなく、塁に出ていたランナーもアウトになったときのこと
ドロップカーブ……縦に割れるカーブ。カーブよりも上下に変化している。落ちるカーブ




