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14,町酒場パメラ(2)

薬の匂い、優しい音色、朝を告げる声。雨風の吹き荒れる心に呼びかける声の正体は。




 髪と同じ銀色の眉を微かに顰めた、男の顔。先程のレイの言葉がゆさゆさと頭を揺さぶる。この男が、誰だって?

「いらっしゃいませ。おじさん」

 おじさん?

 クライスはつい怪訝な顔になり、レイを見る。彼はクライスの視線が伝えんとすることを読み取り、言う。

「言ってなかった? おじさんはうちのばあさんの兄君で、相当お世話になってる。あ、言ってないな、これは」

 目を丸くするクライスにレイは笑って肩を叩くだけ。もちろん初耳だ。

「まぁ、そういうことなんだよ」

 それはつまりレイたちとテレサが遠戚関係だということでもある。そんなことは知りもしなかった。しかし今更に知らされた事実に驚いてみせるのはなんだか癪に障るので、敢えて平静を装った。

「そうなんですか」

「言ったつもりだった。ごめんごめん」

 別に謝らなくても。

 と反発しつつも、人の良さそうなレイの笑顔を見るとまあいいかと思ってしまう。彼は、ずるいというか得な性格をしている。

「お好きなところへどうぞ」

 何事もなかったかのように接客するレイ。

 クライスが初めて男を見た時と同じ言葉で、同じ笑顔で迎える。彼らが親戚なのだと思って聞いていると途端に親しみに溢れた声に聞こえた。

 自分の祖母の兄、か。

 それが一体どんなものか、クライスには見当がつかない。近すぎず遠すぎないと思われるその距離感は、心地良いものなのだろうか。

「コーヒーを」

 平坦な低い声。ふわと香るコーヒーの匂い。

 いつになく準備の良いテレサが、あの日と同じようにコーヒーメーカーとカップソーサーを手に厨房から現れた。しかし、一つだけ違うところがある。

 今日のカップにはコーヒーが注がれていない。

「あぁ、テレサ」

 嬉しそうなレイの声。席に向かう男の、流し見る視線。

「どーぞ」

 ぶっきらぼうな物言いの、照れくさそうなテレサ。

 音もなく席に着いた男の前に置かれたメーカーとカップ。

 慣れない手つきでコーヒーを注ぐテレサの手元を、蒼い瞳が静かに見つめる。テレサの横で一歩引いてレイも同じように見つめている。

 暖かい、家族の眼差し。

 彼らと自分の間に、薄くて重い、透明な帳が降りてくる。遙か上空から、ゆっくりと。世界を隔絶する、降りたら最後二度と上がらない帳が。

 お前の入れる世界ではない。触れることなど出来ない、手を伸ばすことさえおこがましい。お前にはお前に見合った世界があるのだ。見えない誰かがそう言っている。

 何故、そう思うのかはわからない。ただ、天井に向かい立ち上るコーヒーの湯気や、見たことのないテレサの笑顔を見ていたら、そう思った。

 目の奥が燃えるように熱い。不意に視界がぼやけ、歪み始める。まるで靄のかかったようなその視界の悪さを振り払うため、クライスは強く目を閉じた。

 知らず、帳の外に向かって伸びていた手を引き戻し、痛む目を押さえようとする。そこに――……

「クライス」

 震える腕を掴む手。己の内に沈み込みそうになる意識を呼び止める声。

 顎の先から汗が滴る。木目の床に落ちて跡を残す。顔を上げると、曇りなき蒼天の瞳に捕らわれた。底のない井戸からすくい上げられたような深い安堵を感じた。

「――はかせ」

 この人を知っている。ずっと、ずっと昔から。

 微笑みの欠片もないその顔がひどく懐かしくて、クライスはそのまま男の腕の中に倒れた。意識を手放す瞬間、覚えのある薬品の匂いがした。




*****




 何の、音だろう。

 力強くて、それと同じくらい繊細で、優しい音色。

「クライス」

 朝を告げる低い声。音が止み、閉じた目の上に緩い影が差す。

「起きなさい」

「あと五分……」

 髪を撫でる指の感触。ひんやりとした心地よい温度が額に伝わる。

「クライス」

 穏やかな声に名前を呼ばれるのが嬉しくて、わざと目を開けない。慈しみを籠めて頭を撫でる手が好きで、起きるのを渋る。

「クライス」

 何度、その名を呼ばれただろう。

 数え切れない程の声を記憶に刻みつけ、胸一杯の幸せを噛みしめた。

 この人が大好きだった。

 大好きで、いつも一緒にいた。ずっと、彼の後をくっついて歩いた。

「起きなさい」

 笑顔を見せる彼を覚えている。何度も見た。暗闇にそっと灯された蝋燭のような、穏やかで心を柔らかく包む微笑み。

「はかせ?」

 目を開けると、窓から吹き込んだ風に銀髪が揺れているのが見えた。その下で窓の外を同じ、澄んだ蒼い瞳が瞬いている。

「目は覚めたか」

 クライスの小さな顔に手を添えて、額に軽く唇を落とす。それでようやく起きあがったクライスは、おもしろがって彼を真似た。

「おはよう、はかせ」

 足許に掛けた彼の頬に口付け、クライスはぽんとベッドを降りた。額にするには、少しばかり高さが足りなかった。

「お早う」

 優しい笑顔。いつも傍にあると思っていた。

 何故、別れることになったのだろう。

 幼い自分が遠くに見える。何故、忘れていたのだろう。こんなにも大切な時間を。

(……博士)

 身に覚えた過去。しかし。

 遠くて、遠すぎて、それ以上思い出せなかった。




*****




 何の、音だろう。

 力強くて、それと同じくらい繊細で、優しい音色。

「クライス」

 夢の中と同じ音。違う声。

 名を呼んでいるのはナナだ。

「目が覚めた?」

 気怠い上体を起こし、クライスはこめかみを押さえる。

 ここはどこだ。周囲を見渡して確認する。“パメラ”の二階だ。何故ここにいる。

「突然倒れたって聞いたけど、大丈夫?」

 そうだ。下で倒れた。理由は判然としないが、記憶は繋がる。大丈夫だ。

「ああ。迷惑かけたな」

「そんなことないわ」

 長い二本の三つ編みを揺らして否定するナナ。その前を、ベッドから降りて横切ろうとする。すると、案の定しなやかな長い腕に止められた。

「無理しちゃだめよ」

 部屋を出ようとするクライスの胸を押し返し、ナナは不安げに眉を寄せる。

 口元に迫るナナの頭。薄茶色の柔らかそうな髪から、涼しげな甘い香りがする。

「大丈夫だよ。ありがとう」

 テレサとは全然違う。

 髪の色が、匂いが違う。もっと背が低いし、こんな風に止めたりしない。

 心配そうなナナの顔。くっきりと丸くて茶色い目。高い鼻、柔らかそうな唇、長い髪。 違う。

「……そう?」

 テレサはこんな風に心配したりしない。

 表情はほとんど変わらない。大きな目はいつも眠そうで鼻は子供みたいにつんとしている。語る言葉の少ない唇は薄く見るといつも真横に結ばれている。頬を包むような前下がりの髪は短い。

「レイと……彼はどこに?」

 階下から響く音に、弓を動かす彼の姿を想像する。

 よく見ると、似ているかも知れない。

 瞳の奥に鋭さを押し隠した男を思い出し、そう思った。




*****




 苦そうなブラックコーヒー。

 それを口に運ぶ優雅な所作を横目に、クライスはここ最近回数の増えた溜息を吐く。

 彼は何も言わない。二階から降りてきてホールに入ったクライスを見もしない。無視されているのか。そうではないのか。

「またのお越しをー」

 巨大な荷物を背負った旅人風の男がクライスの後ろを通り、店を出て行った。レイがそれを笑顔で見送る。

 気を失っている間に来ていた客が帰り、客として店に残るのはクライスとカウンターの一番奥の席でヴァイオリンを片手にコーヒーを飲む男の、二人。

 静かな午後だ。久しぶりに。

 気が急いて、剣を振らずにはいられない日々が続いていた。切り捨てるように、振り払うように、何かに向かって剣を振るった。

 嫌なことばかり考えるこの心をこそ、ずたずたに切り裂きたかった。

 本当は。

 空に同調して荒れ狂う心を、殺してやりたかったのだ。

 逸る呼吸。吹き出る冷や汗。震える指先。視界が揺らいで意識が飛びそうになる。

 何故。

 木や縄巻き丸太に向かって無我夢中で斬りかかる自分。剣から掌に根が張ったように、手放せなかった。不安定な心を押さえつけようとすればするほど、柄を握る手に力が籠もった。そして思う。

――壊したい。何かを――

 何故。

 不幸が続いて精神が荒んでいるのか。何かを捨てたくて、何かを手にしたくて、堪らなかった。それなのに、衝動を抑える為に必要なものが何かわからなかった。

(…………殿下、王女…………)

 この国に生まれた嵐は、沢山のものを奪っていった。

 人々の王女を。

 クレスロードの王女を。

 人々の王子を。

 カレンの王子を。

 彼らの為に何かしたいと思っていたその気持ちを。

(どうか、安らかに)

 嵐の、中で。

 吹き飛ばされたのは想いだけだろうか。ぎしぎしと軋む心を感じると、そうは思えない。

 カレンの死を、クレスロードの涙を、バルトークの瞳を、死に臨む愛を……――この目で見た。ずっと、何を感じていただろう。

(安らかな、眠りを)

 鏡映しに見返してくる黄金の瞳。細った瞳孔。クライスとそっくりな顔をした誰か。

――眠りはもういい――

 笑った口元に覗く牙。首筋に浮かぶ文様。クライスとそっくりな別の生き物。

――揺り起こせ――

 額から右瞼、右頬を通る傷跡。クライスにはない。

――血胤に目覚めを――

 闇色のマントが舞い上がり、そこにいた誰かは消えた。

「クライス」

 血の気の引いた手に何かが触れる。気が付くと、クライスはカウンターに突っ伏していた。

 冷えた手を握りしめる、同じくらい冷えた手。手の先に続く腕、身体、顔。

 青空の瞳。白銀の髪。

「……はかせ」

「私がわかるな」

「……はい」

 ほっと肩を下ろす彼を見つめた。何故か涙が出た。

 何も言わず肩を引き寄せた彼に頭を預け、クライスは声も上げずに泣いた。心から絞り出されたような涙だと思い、誰のための涙だろうと思った。

 体温の低い身体から直に優しさが伝わる。

 この胸が苦しみから逃れる為に必要なものは、きっと目に見えぬものなのだろう。

「クライス」

 名を呼ぶ声を聞きながら、呼んでも二度と帰らない名を思う。

 年若き王子と王女。青空の彼方で、二人は出会えただろうか。今度は幸せになれると良い。繋いだ手を離さずに、心の底から笑い合っていれば良い。


 昼下がりの街酒場。流れる哀悼の涙は人知れず。心静かに、悲しみは溶けゆく。




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