13,死人の願い
振る剣が奪うものは命か、それとも心か。水溜まりに映る黄金が訴えかける真実。
花の棺に横たわるクレスロードを愛おしげな手つきで撫でる少女は、確かに、過日に亡くなられたカレン・ダイ・グランドロス王女であった。
信じられない。
でも事実、そうなのだろう。こんなにも美しく清らかな人はこの世に二人といない。
「クレス様……」
大粒の涙が、微笑みを保つ頬を流れた。消えそうな声で繰り返し名を呼び、その髪を梳く。クレスロードの目元に落ちた涙がまるで彼のものであるかのように、流れる。
蝋燭の揺らめきの中、絵画の如く美しく、そして悲しい情景だった。
「何から話そうか」
物静かな低音の声。場の憂いを享受した瞳がクライスを見つめる。
「クライス」
「え……」
何故。
名も知らなかった彼に呼ばれ、懐かしさを覚えるのは何故だろう。
「何が知りたい」
この声を昔、どこかで聞いた。でもそれがどこでいつなのか、思い出せない。
色々なこと。沢山のこと。知りたいことは山ほどあるけど、全てを知るにはあまりにも心が疲れ切っていた。
――お前には時間が必要だ。
男の唇が言葉なく動く。
――真実を知り、心の荷を降ろせ。そしてゆっくり休むと良い。
再び黒い書物が開かれる。瞬く間に部屋を包んだ白い光に、クライスは目を閉じた。
*****
真実が明らかになっても降り注ぐ雨は止まぬまま、城前に立ち尽くすクライスの身体を強く打った。
運命という名の筋書きを進める神を前に、人はあまりに無力だ。
神よ。命を与え、そして奪うことさえ、慈悲だと言うのか。
「……運命、か」
真夏の夜。ミラーを、バルトークを見送り、王子を、王女を葬った。
後に残されて一人睨め上げた天空に光はない。立ちこめる暗雲から降る雨粒だけが、煌めきを装って王城を濡らしている。
耳元で木霊する声。穏やかで、悲痛な、王女の声。
『わたくしを殺してくださいませ』
男の、バルトークの話が終わると、カレンは懇願した。
クライスの拳を包む冷たい手。クライスの顔を映す硝子玉のような瞳。愛する人の死を目の当たりにしても動かない心。それは、不完全な命だった。人体甦生という、道理に逆らう禁忌の業で得られたもの。それは、生命と呼べるものではなかった。
同じ一つの命を持ってしても、失われたものを取り戻すことは出来なかったのだ。
『どうか、クレス様のご友人の……騎士様』
微笑みを湛えたまま、金色の瞳から幻の涙が零れた。その顔と、カレンの葬儀の日に見たクレスロードの顔が重なる。
彼の人も、愛する少女を亡くし同じように涙を流していた。そしてやはり同じように、自らの死を願っていたというのだろうか。
『どうか、お願いします』
抗うことは、出来なかった。
白く細い首筋を目がけて剣を抜く。鞘を走る音を聞きながらクライスはぎゅっと目を閉じた。勢いに任せないと、心が挫けてしまいそうだった。
『……ありがとう』
振り切る寸前、カレンの声を聞いた気がした。瞬間、頬に生暖かい感触を感じて目を開けた。
剣を投げ捨て、死血の向こう、足許から崩れるカレンをクライスは地に落ちる前に抱き留めた――否、抱き留めることしか出来なかった。
血に汚れた白いドレス。白い髪。
美しき少女の亡骸を抱いて、クライスは声にならない悲鳴を上げた。
(俺は、何をした?)
聖者を気取り、道理にもとる行いを正したつもりでいた。しかし。
雨に流れ落ちる頬の血痕。血の匂い。花の香り。
人の命を奪うこの手はあまりに罪深く。
神に祈り、縋る資格さえない。運命を享受し人としての心を育てていくことほど業の深い行いはない。血塗れの手で誰かに触れその命を救うことなど出来るはずもない。
何故、そう思うのかはわからない。ただ、俯いた顔の下、足許に溜まった水面にいやにはっきりと映る自分の顔を見ていたらそう思った。
禍々しい黄金の光。縦長の瞳孔。同じ金色でもクレスロードやカレンのそれとは全く異質な自分の目を見て、そう、思い知っただけだった。
*****
全てが終わり、始まるのに長い時間はかからなかった。
クライスの予想した動揺が国中を駆け巡り民に知れ渡る頃には、王室は既に動き始めていた。
「『クレスロード殿下、第一王位継承権を委譲』」
カレン王女の死に折り重なったクレスロードの死は、世間には伏せられているようで、病に倒れた、もともと王権を継ぐ気がなかった、次期国王に適性ではなかったなどと、王権譲渡の理由に関する噂話が好き勝手に世に出回っていた。
度重なった不幸を隠した王室の措置は賢明と言えるが、真実を知る者としてクライスは胸が痛むのを止められなかった。
「『王権の移行先は黒炎の王子と名高きサリヴァン第二王子』」
読み上げていたのは、巡回中に道端で拾った号外の見出しだ。クライスは片手でそれを握りつぶした。
「……気分でも悪いのかい、クライス中隊長」
気遣うような店主の声に、クライスははっと顔を上げる。
「いえ、どうして?」
直ぐさま否定したクライスの顔を眇めた目で見てレイは溜息を吐いた。
「君に暗い顔は似合わないよ」
クライスが隠し事には向かない性格の持ち主だと、レイは承知している。あまり人には話したがらないが、悩みのない人間ではないことも。
にこりと笑うレイに、クライスは言葉なく、微笑みを作って返す。
顔に出ているのだろうか、とクライスは思う。
感情を露わにしているつもりはないのだが、周囲に見透かされることが日頃から少なくない。付き合いがそれなりに長い相手には特に。
「感情を押し殺さなきゃならないほど、君は大人じゃない。悲しい時は悲しいと言っていいんだ」
レイは聡い。しかし必要以上に踏み込んで来ない。
彼と話しているといつも言葉の持つ力を感じた。人を安心させる、優しさと気遣いに満ちた優しい言葉を掛けてくれる。
「レイ……」
ここ最近起こった出来事を、一人では抱えきれない。でも全てを話すことも出来ない。クライスは組んだ手に額を預け、深く呼吸をした。
「……そうだよな。ありがとう」
クレスロードと出会い、カレンの葬儀に行き、クレスロードの死を知り、初めて任務の外で人を斬った。出来事の口上を述べるならばこんなところだ。
脳内で回想するがしかし口に出すにはあまりに重い。
この手に生々しく残る、動かない身体の感触。肺を占拠した血の匂い。
目を閉じると、瞼の裏で白い光が弾けた。集束する光のその先に、黒革の本。それを持つ、黒ずくめの男。銀色の髪。蒼い瞳……――
そうだ。彼はどこへ行ったのだろう。曰くありげなあの本と共に現れ、そして消えていった男、バルトーク・ロルカは。
*****
開かれた黒い本のページを捲り、男は静かに目を閉じる。その様子を見つめる王女のカレンは祈るように、胸の前で手を組む。クライスは、棺に横たえたクレスロードの閉じた瞼から目を上げる。
男も、王女も、どちらも生きた人間には見えなかった。闇を吸い寄せる魔性と光に溶け込む美貌は、この世のものとは思えない。人形のようだった。二人とも。
ページが変わる度に揺らぐ白い光が、真実を語った。言葉など必要とせず、それは頭と心の両方に直接伝わってきた。
虚構の中に潜む真実と、それに気付くことの出来る者。
それが今回、偶々揃っていただけのこと。
「この本は、危険図書として法政部に出版差し止めの通告を受けたものだ」
男は言う。危険図書、さほど物騒には聞こえないが、何とも言えない不穏さを内包した言葉だった。
「人体甦生の理論構築を記した節がある。それが検閲に掛かった」
人体甦生。耳慣れぬ言葉ではあるが、そのものの意味するところくらいはわかる。しかし、理論構築とは。
「もともと作物語なのだが、その処々方々に研究の結果や実験過程などを書いた。魔導研究者として、作家として、最後の著書とするつもりだったのだ」
口々に語られる、魔導研究所での人体実験の噂。事実でも、嘘でも、自分にはおよそ関わりのない事だと思っていた。
だが違う。
もしも噂が事実なら。そう考えるたび心臓が蹴り上げられたかのように跳ねた。
焼け跡を捜索して、真相に近づいて、そして気付いてからと言うもの。掻き集めた灰が手肌から染み込んでくるような、吸い込んだ空気が口から鼻から体内を蝕んでいくような、そんな感覚が拭えなくなった。
――お前は、そんな噂を信じるのか?――
右から左に耳を抜ける、ルドの声。
焼け跡捜索から戻り鍛錬場で事の一部始終を話した後、感想の代わりに彼はそんなことを言った。……もっともな言葉だった。
――あの研究所の所長は愛国者で人格者、そして王の友人だ――
所長だという人物そのものを知らないクライスは、それを聞きただただ感嘆の声を漏らすばかりだった。
――彼は確かに研究熱心だが、命の重みを知っている人だ。人体実験など謂われない噂に過ぎん。お前も国に仕える騎士ならば考えてものを言え――
一本気で純真に国を想うルドは、クライスの目に時として盲目的愛国者と映った。
愛国者で、人格者で、王の友人。どれもきっと正しいのだろうけれど、それが人道を外れた実験をしない理由にはなり得ないと、クライスは思った。国を愛するあまり、何かを案じるあまり、道を違えるということは良くあることのように思えたからだ。
――彼に会えばお前もわかるだろう――
だとしたら、今わかるはずだ。……本当に、そうだろうか。
「だが私は書き続けることにしたのだ。今はなき魔導研究所と、共に研究をしてきた同胞のために、それらの責任者として」
荘厳とした佇まい。魔導の世界へと続く重い扉。あの研究所はこの男のものだったという確信。
そう遠くない記憶、研究に没頭する彼とそれを支える数名の研究者たち。希望と信頼、絶望と苦悩。雑多な感情が胸に氾濫して破裂しそうになる。これはきっと目の前に立つこの男の記憶なのだ。
「今更何のためになるとも分からないが、私はこの書を回収して国を回っていた。これが、最後の一冊だったのだが」
淀みなく紡がれていた言葉が途切れる。ふと憂いを帯びた光が蒼眸を過ぎり、今まで全くの無表情だった男の顔を暗くした。
その先に続く言葉を読み、クライスは無意識に眉を寄せる。
「遅かった。全て。動き出すことも、私の歩みも、後悔さえも」
そして彼は押し黙る。伏せられた瞳はクレスロードを見つめているように見えた。
暗に示された、起こってしまった悲劇。言葉がないのはクライスも同じだった。
「私には、甦生したカレン王女の命を補完することしか出来なかった。そしてその先の選択を彼女に任せ、行く末を見守ることしか」
ふわりと、視界の端で王女が動く。無造作に垂らした髪さえ美しく、しめやか。
生前、別世界の住人と思われた彼女は、死して、そして甦ってもやはり、クライスと同じ世界にはいなかった。同じ地を踏んでいても、手の届く距離にいても。彼女の立つ場所は他者の侵入を拒む異世界。唯一その世界に踏み込むことの出来た人も、もうこの世にはいない。
「不当に地上と結びつけられたこの命……先に道があるとは思っておりません」
先刻見たのと同じように手を胸の前で組み、強く握る。カレンはあどけない表情を歪ませることなく、微笑みのまま告げる。
不思議な光景だ、とクライスは無関心に思った。死んだ人間が、愛する人間の死を前に微笑んでいる。とても、穏やかに、幸せそうに。
何故だろう? 彼は彼女の為に命を落としたというのに。
それともそういうものなのだろうか? 愛する人が自分の為に死を選ぶ、それは幸せなことなのだろうか。
わからない。
しかしカレンは、確かに、笑っている。
「命を手放す覚悟がおありですか、王女」
男の声。大気を震わせ、心を動かす。
落ち着きない蝋燭の揺らめきに惑う、三つの影。
「心なきこの身に、与えられる未来などないのです」
消えぬ微笑み。死に向かう命。覚悟を決めた彼女の言葉を、否定出来る者などいない。
いつの間にかクライスに向き直り、変わらない表情の奥に縋るような想いを隠して、王女が口を開く。
「わたくしを殺してくださいませ」
白く小さな手が、握りしめられたクライスの拳を包む。死を思わせる冷たさが肌を刺した。彼女は紛れもない死者なのだと、改めて思い知った。
*****
結局、何も話すことは出来なかった。何を話せばと記憶を探ると、クレスロードやカレンの顔が思い出されて胸が詰まった。
レイは話すことも、話さないことも、どれ一つ強要しなかった。今はその気遣いに甘え、目を瞑ることにした。
「今日も、あの人が来るね」
ぱっと電源が切り替わったように声の調子を上げ、レイが話を変える。唐突だが、ありがたかった。
カウンター上に新聞を広げているレイの横、死んだように眠っていたテレサが目を覚ます。ぼさぼさなセピア色の髪を揺らすように頭を振ると、白く長い袖でごしごしと目をこすり、ようやくまともになった顔を上げた。
「うん」
心なし、嬉しそうな声。クライスは閉じた目の奥で、僅かに頬を緩ませたテレサの顔を想像する。少し幸せな気分になる。
「……話を聞いてもらうには良い相手かもね」
レイの声がそう呟くと、ぽんぽんと頭を撫でる手があった。クライスが傷悴した顔を上げると、困ったような顔で笑うレイと目が合った。
「誰が?」
戸惑いを隠せない声は弱々しくまるで子供のよう。
情けないくらいに、縋れるものを探していた。
「テレサのお父さんだよ……――ほら」
木戸の開かれる音。
嬉しそうなテレサの顔。
ゆっくりと顔を振り向けたその先に、銀髪蒼眸の男が立っていた。




