12,花の唐櫃
失われた命。引き止めることは出来なかった。地下墓地で明かされる遣る瀬ない想い。
風より早く、かの人のもとへ。
愛馬を駆って王城を目指すうち、雨に打たれた。頬を叩き髪を濡らす冷たい雨だった。雨は夏の外気をじとりと冷やし、道行く人を家々に追いやった。
人けのない王都を白い駿馬が駆け抜ける。はためかないマントから垂れる滴が、後に残された水たまりを揺らす。
広がる波紋。音もなく、降り注ぐ強い雨に掻き消された。
容赦ない雨粒は、人の世の不幸を嘆く、神の涙だ。
――さよなら――
彼を一人にしてはいけなかったのだ。
クライスは奥歯を噛み締めた。口の中に血の味が広がる。
何故。いや、理由など問うまでもなかった。
*****
城の入り口では、ミラーがクライスの到着を待っていた。副長であるルドの姿はなく、彼の傍には他の誰もいない。しんとした広間に、大理石を踏むクライスの足音が反響した。
扉横の柱に背をもたれ腕組みをしたまま、ミラーは何も言わず、クライスを見もしない。
金の前髪の隙間から水滴が落ちる。彼も雨に打たれたのだろう。身を包む藍色の制服も、重たげにその色を濃くしている。
「師匠……?」
ミラーにも急報が行ったのだろうか。わからない。
「殿下……クレスロード殿下は」
ミラーは何も言わない。
朝方であるはずの城内は逢魔が時を思わせる程に暗く、凝っていた。
クライスのいる位置からミラーまではせいぜい数歩と言ったところだが、髪の影に隠れた彼の表情を窺い知ることは出来なかった。
普段束ねられている髪は肩口で解け、首や耳元に張り付いている。なりふり構わないその様子にクライスが改めて息を呑むと、ややああってミラーが口を開いた。
「地下墓地を突き当たりまで進んだら、右の燭台を引け」
ややあって聞こえた声は、至極淡々としていた。が、相変わらず顔は上がらないまま、ミラーはそれ以上の言葉を継がなかった。
「……はい」
冷えていく体とは裏腹に鼓動が早くなる。クライスは足早にミラーの前を通り過ぎると、深呼吸を繰り返しながら歩いた。途中で一度振り返ったが、ミラーは見た時のままの姿勢で微動だにしなかった。ただ、じっと俯いているだけ。
降る雨の音が、随分と遠くに聞こえた。
長く、広大な広間を歩く間中、ずっと考えていた。
何故、ここにいるのだろう。今、この足はどこへ向かっているのだろう。
しかしその答えは、わかっていた。いや、正しくはこれから知ることになるだろうと予想していた。
示された行く先に全ての答えがあり、そのためにそこへ、向かっているのだ。
そして行き当たる。
正面には真っ赤な絨毯の敷かれた幅広い階段。その両脇にも、人二人やっと並べる程度の幅をした、階段。前者は玉座の続き間へ、後者は地下墓地へと続く。
地の底に向かい掘り進められた階段を行く。上階とは異なる趣を感じさせる、簡素で頑丈な作りの壁を指で伝い、薄暗いその道を降りていく。
一段一段、踏み締める度に僅かな靴音が響く。静かすぎて、潜めた息さえ耳にうるさかった。
降り立った場所。そこからは地下墓地の全容をほぼ把握することが出来た。
幾つもの石棺が並ぶその景色を、クライスは無感動に眺める。不思議と心は冷静で、心音もいつの間にか収まっていた。
瞬きの音すら聞こえそうな静けさの中、髪や衣服から落ちる水滴にも構わず足を進めた。制服が重い。肩も背も腰も、重力に押さえ込まれて潰れそうだった。
先人たちの棺を置き去りに、広くない通路をすり抜ける。彼らの生きた分だけ重量の増した空気を押し分けて、進むその先に灯る二つの火を見据える。
右に位置する鋼の燭台を見上げ、濡れた指先で炎を消す。蝋燭を取り去って台座を手前に引くと、足許の地面の下、何かが噛み合う音がした。
軽い地響きと共に、目の前の壁が左右に開く。
光――?
クライスは思わず顔の前に左腕を翳す。突然の光に包まれ、眩しさに目がくらんだ。
自然の発する光ではない。地下室にこの光量は有り得ない。
(一体何が?)
暗闇に戻りたがる目で光源を探す。まだ何も見えない。
(何が起きているんだ)
強烈なその輝きとは違い、光は温かみを帯びていた。身体に染み込むように、髪を、衣服を乾かし、心をほぐした。
やがて、少しずつ光が弱まる。ある一点に収束するかのように光は小さくなり、四隅で灯った蝋燭が目に入った。隠し部屋の姿が露わになった。
天井も、壁も、床も、大理石で出来た石室だ。光が消えてもなお一面が輝いている。
想像を遙かに超えて広い部屋。高さは優にクライスの身長の倍、奥行きはおよそ、五馬身ほどある。
そして、目映さに惚け、彷徨っていた視線を正面に戻す。そこに――
部屋の中心に置かれた白い棺。それに添うように倒れたクレスロード。
「殿下!」
クライスは一心不乱にクレスロードに駆け寄り、抱き起こした。片膝で背中を支え、身体の横に力無く垂れた手を取る。
冷たい。
その温度の低さに、全身の動きを奪われた。
「……殿下」
まさか。そんな。
予感された事実にクライスは一人必死で否定を繰り返した。信じない。そんなことが、あるわけないと。
「起きてください」
閉じた瞳。動かない身体は、既に命の失せた朽ちるのを待つだけの器。
「お願いです、殿下……目を、開けて」
何故。どこにも傷はないのに。
自分とは比べ物にならない華奢な肩を揺する。光をなくした金髪が揺れるだけで返事はなく、目覚めもなかった。
「嘘だ…………こんなの」
細い身体を強く抱きしめる。死と、花の匂いがした。
知らず溢れた涙がクレスロードの肩口を濡らしたが、構っていられなかった。
「嘘ではない」
唐突に、前触れなく、何らかの音が聞こえた。
クライスは自分の耳に入った音を人の声と認識するのに十秒近くを要した。
「王子は亡くなられた」
顔を上げる。黒い足許が見え、その影がぐにゃりと動く。蝋燭の揺らめきのせいだ。
「神の御もとへと逝かれたのだ」
さらに視線を上げる。蝋燭の光を映した蒼眸が、クライスを静かに見下ろしていた。
「貴方は」
晴天の蒼を溶かしたような瞳。その上で揺れる銀色の髪。
見覚えがある。酒場で見た男だ。
「誰です」
袖で涙を拭い、訊ねる。失われていた感覚が戻ってきた。
「…………」
男は答えない。
不意に男の手元が光る。開いたまま持たれた書が光を帯びて、紛れもない魔力がそこから溢れていた。
先程の光もおそらくこの男の魔術だろう。
「答えろ。何者だ」
腕にクレスロードを抱いたまま、クライスは男に見えないよう剣の柄を握った。
もしもクレスロードの命を奪ったのがこの男であるのなら。そのようなことを答えるか或いはこちらに攻撃を仕掛けてくるのなら、迷いなく斬り伏せる覚悟で。
「もう一度だけ聞く。貴方は、何者だ」
男はゆっくり一度瞬きをし、片手で書を閉じた。光が失せる。
黒い、革張りの表紙を指でなぞり、しばし目を伏せてから、ようやくクライスを見る。
「私は、この本の筆者だ」
言いながら、男は書物の向きを変えクライスの前に差し出した。
多少古びたその本は、表紙の端が劣化して皮が剥がれている。しかし上部に記されたタイトルらしい金の文字は、完全な状態ではないものの十分に読むことが出来た。
「……『狂人の足跡』?」
知らない。クライスは思う。だがしかし先を促すような男の視線に圧され、その下方にある同じ金色の、今度は少し小さめの文字で記された単語を読み上げる。
「『バルトーク・ロルカ』」
口に出し、息を呑んだ。
記憶が繋がる。
焼け跡に残された、あの手記だ。
男は書物を懐に仕舞う。蒼い目でクライスの腕の中の王子を捉えると、小さく溜息を吐いた。形の良い眉を顰め口を真横に結んだ、何かに堪えるような顔。その沈黙が孕むものを、クライスは理解出来ない。
「貴方が……バルトーク?」
「左様」
喪に服する黒い出で立ち。
彼は、何故ここにいるのか。クレスロードは、何故死んでしまったのか。クライスを城へ呼んだのは誰なのか。わからない、何も。わからないことだらけだ。
確かなのは、この腕に抱いた身体がもう動かないことだけ。
そう、今この場で、それだけが確かなこと。悲しいくらいに、この腕に伝わる力無い肉体の重みだけが、知れた現実だった。
眠れる王子の瞼に唇を落とし、クライスはその身体を抱いたまま立ち上がった。白い、花の棺が目に入るが、そこに横たわるはずの美しい少女はいない。
そっと、不在の花床にクレスロードを寝かせる。囲む花にとけ込みそうな髪と肌を一撫でし、すっと息を吸い込む。情けなく狼狽える心を落ち着かせねばならなかった。
おそらくは、目の前にいるこの男が全てを知っているのだろう。それを、聞き、受け入れねばならない。知ることがクレスロードへの、そしてきっとカレン王女への供養だ。クライスは両の拳に力を入れた。
現実は、避けては通れないのだ。
「事の次第を、教えてください」
乾いた涙の跡が引きつる。消えそうな蝋燭の炎が、クライスの声に揺れる。ゆらゆらと波打つ、男と自分の二つの影は絶望と悲しみに揺れ動く心のようだった。
「私の知る事は少ないが、望むのならその全てを教える」
低い声が響き、さらなる揺らめきをもたらす。その時、クライスの背後でもう一つ、小さな影が踊るのが見えた。
男がクライスの肩越しに何かを見つめていた。ひどく、悲しい目だ。
振り返る。
石室の入り口で、あどけない顔が悲しげに、物言わず微笑んでいる。
「カレン……様」
白金の髪。月色の瞳。彼の、クレスロードの、愛して止まなかった少女がそこに佇んでいた。