↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉の身代わりで嫁いだ私を、旦那様は「誰にも返さない」と言いました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/37

第35話 花嫁は席を立ちません

 宴が始まって最初に起きた問題は、夫が戻ってこないことだった。

 ルーカスはミラの料理を取るために席を立ち、そのまま大皿のそばで三人に囲まれていた。

 一人は祝辞を述べ、一人は雪解け後の橋の話をし、もう一人は酒を勧めている。

 ミラはしばらく待った。

 それから立ち上がりかけ、座り直した。

 今日くらいは、迎えに行く以外の方法を試してもよい。

「ルーカス」

 名を呼んだ。

 夫がすぐ振り返る。

 ミラは自分の空いた皿を、少し持ち上げて見せた。

 彼の顔が変わった。

「失礼。妻を待たせている」

 誰の話の途中だったか気にする間もなく、戻ってきた。

 皿には肉と野菜が、きれいに半分ずつ載っていた。

「遅くなった」

「おかえりなさい」

「今日、何度でも帰ってきそうだ」

「何度でも、迎えます」

 二人が笑うと、近くの人まで笑った。


 新しい婚姻の記録へ署名するとき、ミラは一度だけペンを止めた。

 名の欄には、ミラ・アーレンスと書かれる。

 姉の名を外して得た自分の名に、夫と同じ家名が続く。

 その家名を兄も持っていることは、気にならなかった。

 隣にいる人が誰か、知っているからだった。

 ルーカスは彼女が書き終えるのを待ち、同じ紙へ署名した。

 役人が紙を確かめ、砂を振る。

「おめでとうございます」

 簡潔な祝辞だった。

 ミラは礼を言い、夫へ目を向けた。

 もう、どの欄にも姉はいない。

 夫の欄にも、兄はいない。

 紙の上でも、ようやく二人になった。


 リネの席には、何度も人が来た。

 ミラの幼い頃を知りたいと聞かれ、乳母は最初、何を話してよいか迷っていた。

 やがて、ミラが七歳のときに自分の靴へ林檎を隠した話を始めた。

「後で食べようと思われたようで」

「覚えていません」

 ミラが言うと、リネは笑った。

「翌朝、靴が履けないとお困りでした」

 ルーカスが肩を震わせた。

「今後の不足分だったんだな」

「そうかもしれません」

 笑われても、嫌ではなかった。

 幼い頃の失敗が、責めるためでなく、可愛がるために語られている。

 ミラは茶を飲みながら、頬の熱さを楽しんだ。


 音楽が始まった。

 最初の曲は、蓄音石で何度も練習した曲だった。

 楽師に頼んでいたのはルーカスだという。

「先生、お願いできるだろうか」

 彼が手を差し出した。

「今日は、妻です」

「では、奥様」

 ミラは手を取った。

 裾を踏まないようにと考えたのは、最初の一歩だけだった。

 彼の腕に合わせて回ると、足は自然に動いた。青い帯が弧を描く。袖の内側の星が、一瞬見えた。

 ルーカスの視線がそこへ行き、また彼女へ戻る。

「よく似合っている」

「思い出したお言葉ですか」

「今、増えた」

 ミラは笑った。

 あの日、彼の手を背へ置いただけで動けなくなった。

 今日は、もっと近くへ来てほしいと思った。

 夫はそれを、言わなくてもわかったようだった。

 支える手が少し深くなり、二人の距離が縮まる。

 曲が終わっても、ミラはすぐ離れなかった。

「もう一曲」

 自分から言った。

 ルーカスは嬉しそうに頷いた。

「何曲でも」


 次の曲では、エダがノアと踊った。

 最初の一歩でノアが足を間違え、エダが遠慮なく訂正する。

 ルーカスが、それを見て小さく笑った。

「懐かしいな」

「まだ、そんなに昔ではありません」

「随分前のようにも思う」

 ミラは頷いた。

 知らない名前で会った日から、季節は一つも変わっていない。

 なのに、暮らしている世界は違って見える。

 夫の手に触れている自分が、こんなに自然だと思う日が来るとは、あの馬車では想像できなかった。


 宴の終わりに、パン屋の一家が大きな丸パンを運んできた。

 半分に胡桃、半分に干し葡萄。

 真ん中は、柔らかくつながっていた。

「今日は、切ってもいいですよ」

 店主が言った。

「割ると、大きいほうを取り合いになるので」

 ルーカスはナイフを受け取った。

 ミラが隣で見守る。

 ゆっくり切り分け、皿へ置いた。

「同じくらいです」

 彼女が言うと、夫は満足そうに頷いた。

 トマがその間へ顔を出した。

「ぼくのは?」

 二人は同時にパンを見た。

 それから、自分の分の端を少しずつ切った。

 胡桃と干し葡萄、両方が少年の皿へ載った。

「やった!」

 トマが笑う。

 母親が礼を言い、父親も笑った。

 半分にすることは、二人以外へ何も渡さないことではなかった。

 まず自分たちで選んで、それから分けたい人へ分ける。

 ミラは自分のパンを一口食べた。

 少し小さくなっても、好きな味は変わらなかった。


 客が帰り始める頃、ミラは机の鍵を渡された。

 ルーカスが、何か入れておいたという。

「今、見ても?」

「部屋へ戻ってから」

 夫の声が少し低くなった。

 ミラは鍵を握った。

 宴の終わりが、急に別の意味を持つ。

 エダが近づき、そっと囁いた。

「お部屋は、整っております」

「……ありがとう」

 顔が熱くなる。

 ルーカスも、どうやら同じ言葉をバルトから聞かされたらしかった。

 目が合う。

 二人とも笑ったが、昼間と同じ笑い方にはならなかった。


 最後に広場へ顔を出し、来てくれた人々へ礼を言った。

 鉢の花は、明日それぞれの家へ返される。灯りは今夜いっぱい、城の窓へ残す。

 ミラは夫の左手へ、自分の左手を重ねた。

 二つの銀の輪が並ぶ。

「そろそろ、帰りますか」

 彼が尋ねた。

「はい」

 城の中にいるのに、帰るという言葉がぴったりだった。

 これから向かうのは、二人の部屋だった。

 ルーカスは彼女の手を引かず、歩き出すのを待った。

 ミラが一歩進むと、彼も隣で歩き始めた。

 花嫁は、もう誰かの席を片づけるために残らなかった。

 自分の夫と、自分の夜へ帰っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。