第32話 私の服を汚しても
婚礼の衣装を初めて着た日、ミラはお茶をこぼした。
裾の端に、小さな茶色い染みができた。
部屋が静かになった。
ミラは反射で布をつかんだ。裏へ返す。見えないようにする。誰かが気づく前に。
その手を、ベスがそっと押さえた。
「擦ると、広がるよ」
ミラは動きを止めた。
「申し訳ありません」
「誰に?」
老女は濡れ布を取り、染みを軽く押さえた。
「私が、縫ってくださったものを」
「着るために縫ったんだ。汚れることもあるさ」
リネが茶碗を片づけ、エダが床を拭いた。
誰も、なぜ注意しなかったのかとは言わなかった。
ミラは自分の袖を見た。
小さな星が、一つずつ違う形をしている。
姉の衣装に血を落とした朝と、同じ白い布だった。
けれど今日は、隠さなくてもよかった。
「落ちなかったら、どうしましょう」
「帯の端を少し長くしてもいい。花を一つ足してもいい。そのままでも、小さい」
ベスは選べるものを並べた。
ミラは少し考えた。
「まず、乾くのを待ちます」
「それがいい」
老女は満足そうに頷いた。
失敗した瞬間に、自分の価値まで決めなくてよかった。
ただ、お茶が乾くのを待てばいい。
鏡の前に立つと、白い服が足元で柔らかく広がった。
首元は詰まりすぎず、祖母の小さな石の首飾りがよく見える。青い帯は腰の横で結び、端が歩くたび揺れた。
袖は手首に合っていた。
ミラは両腕を少し上げた。
「動けます」
「当たり前だよ」
ベスが笑った。
「花嫁を包んで飾るだけの服じゃない」
エダが、くるりと回ってみてくださいと言った。
ミラはゆっくり回った。
裾が広がり、帯が遅れてついてくる。
リネが口元へ布を当てた。
「どうしたの?」
「何でもございません」
その言葉を聞いて、ミラは首を傾げた。
「何でもないという方ほど、信用できないそうです」
エダが吹き出した。
リネも笑い、目元を押さえた。
「嬉しいのでございます」
ミラは鏡から離れ、乳母を抱きしめた。
衣装が皺になっても、今は気にしなかった。
着替えて小広間へ戻ると、ルーカスが顔を上げた。
期待していたのが、隠れていなかった。
「まだ、見せてはいけないのか」
「はい」
「厳しい」
「今日は、お茶をこぼしました」
彼は一瞬、驚いた。
「火傷は?」
「していません」
「なら、よかった」
それだけだった。
服は大丈夫かと、先には聞かなかった。
ミラは椅子へ座り、夫の手を取った。
もう包帯はなかった。薄い新しい皮膚を、そっと撫でる。
「ルーカスは、いつも手を見てくださいますね」
「大事だから」
「衣装より?」
「比べなくていいだろう」
彼は彼女の指を持ち上げた。
「でも、君が気にしているなら、先に答えておく。服は直せる。君は痛くないほうがいい」
ミラは頷いた。
言葉にしてもらうと、古い癖が一つずつほどける気がした。
全部、すぐにはなくならない。
けれど、次に何かをこぼしたときの顔は、今より違うかもしれない。
午後、フィンが到着した。
婚礼の招待を受け、師から休みをもらったという。鞄の半分はまた食料だった。
「今度は、道で全部食べずに済みました」
そう言って、南の焼き菓子を差し出した。
ルーカスが、砂糖だけの菓子かどうかを確かめたので、ミラは笑った。
「木の実です。お嫌いでなければ」
「ありがたくいただく」
フィンは小さな板包みも出した。
役場の絵の、別の小さな写しだった。
ただし、こちらは二人の顔だけが近く描かれている。
「お部屋に置けるものをと思いまして。これは、贈り物です」
ミラは受け取った。
夫は、やはり彼女を見ている。
彼女も、夫を見ていた。
「こんなに、近かったでしょうか」
聞くと、フィンは真面目に頷いた。
「休憩の後は、いつも少しずつ椅子が寄っていました」
ルーカスが横を向いた。
ミラは絵を持ったまま、頬を赤くした。
見られていなかったつもりのことは、案外よく見られている。
夜、二人は新しい寝室へ絵を置いた。
結局ルーカスの部屋を使うことになり、隣のミラの部屋は、昼に一人で休める場所として残された。
寝台はそのまま、帳だけを少し明るくした。窓辺の石の隣に、冬星草が置かれている。
ミラは祖母の首飾りの箱を棚へ運んだ。
ルーカスが、絵の置き場所を尋ねる。
「ここでいい?」
「朝、見えるところがよいです」
「寝台の向かいだな」
小さな絵が、棚へ立てられた。
その前に二人で立つと、同じ顔が二組あるようだった。
「毎朝、自分の顔を見ることになるのですね」
ミラが言う。
「俺は、君の顔を見る」
「隣にも、おります」
「それは、たいへん都合がいい」
彼は彼女の腰へ手を回した。
ミラは顔を上げた。
寝台が近いことを、意識してしまった。
ルーカスも、同じものを見たらしかった。
二人で一度黙り、それから笑った。
「あと、二日です」
ミラが言った。
「わかっている」
「長いですね」
夫の腕に少し力が入った。
「同じことを、考えていた」
口づけが落ちた。
ミラは彼の上着をつかみ、もう少しだけ近づいた。
自分の服に皺が寄った。
今度は、まったく気にならなかった。




