第29話 兄の名で負うもの
ヴァレリウスに会ったのは、翌々日の午後だった。
ルーカスの手にはまだ薄い布が巻かれていた。ミラも同じだったが、指は少しずつ曲がるようになっている。
客間の外には兵が立っていた。
扉の内側は、来たときと変わらず暖かい。茶も食事も用意されている。
ただ、ヴァレリウスが行きたい場所へ勝手に行くことはできなくなっていた。
「大事になったな」
兄は、二人を見るなり言った。
ルーカスは向かいへ座った。
ミラも隣へ腰を下ろす。
今日は、兄弟だけにしてくれとは言われなかった。
「負傷者は、全員回復する見込みです」
「それはよかった。私も、あの者たちが勝手に動くとは」
「兄上の札を、持っていました」
兄は口を閉じた。
ルーカスの声は静かだった。
「原本の別紙も、前金の記録も、マリアンネ殿が預かっています。俺たちが庇っても、なくなりません」
「庇えなどと、言ったか」
「これから言われる前に、お伝えしています」
ミラは夫の横顔を見た。
言われてから断るのではなく、言葉が自分の中へ入る前に止められるようになっていた。
ヴァレリウスは窓へ目を向けた。
「父は、怒るだろうな」
「そのお話も、伺っています」
「お前は平気なのか。家の名が傷つくんだぞ」
ルーカスは少し考えた。
「平気ではありません。でも、町の人が傷つくほうを選ぶ理由にはなりませんでした」
兄の口元が歪んだ。
「ずいぶん、立派になったものだ」
「立派でなくても、妻の手が火傷するのは嫌です」
ミラは膝の上の手を動かした。
ルーカスが自分を見る。
その目は、兄の前でも柔らかかった。
「俺の手も、同じです。帰って、好きな人を抱きしめるのに使いたい」
ヴァレリウスは何も言わなかった。
ミラは頬が熱くなったが、下を向かなかった。
夫が自分を選ぶ理由を、恥ずかしいこととして隠したくなかった。
卓の端に、鷹の印章が置いてあった。
マリアンネが確認を終え、証拠となる札とは別にして戻した品だった。
ルーカスはそれを手前へ引かず、兄の側へ押した。
「本家の名と、嫡男としての相続分は、兄上のものです。俺は求めません」
「砦は、欲しいのだろう」
「町から預かりたいと思っています。家から譲ってもらうものではなく」
「同じことだ」
「違います。町が別の人を選んだら、俺は引き継ぐ。それでもミラと暮らします」
兄はミラを見た。
測るような目だった。
「彼女に、そこまでの価値が?」
ルーカスが答えるより先に、ミラは口を開いた。
「私は、お兄様に選んでいただく必要がありません」
声は震えなかった。
「あなたにとっての価値を、今ここで示すつもりもありません」
ヴァレリウスの眉が上がった。
ミラは夫のほうへ、少し体を向けた。
「この人には、毎日、選んでいただきたいと思っています」
ルーカスが、布の巻かれた手をそっと彼女の手の上へ置いた。
痛くない重さだった。
兄の視線が、その二つの手へ落ちた。
「お前たちには、お前たちなりに合っているのだろう」
ヴァレリウスが言った。
負けを認める言葉にしたくないのが、わかった。
ルーカスは頷いた。
「そう思います」
ミラも頷いた。
兄はそれ以上、皮肉を重ねられなかった。
悪口にするつもりの言葉を、二人が喜んで受け取ってしまったからだった。
部屋を出る前、ルーカスは一度振り返った。
「川から助けてもらったことは、忘れません」
ヴァレリウスが顔を上げる。
「だからと言って、今後、同じように従うことはありません」
期待が一瞬で消えた。
兄は窓へ顔を向けた。
「好きにしろ」
「そうします」
ルーカスは礼をし、扉を開けた。
ミラも続いた。
後ろから、呼び止める声はなかった。
廊下へ出てから、夫はしばらく黙って歩いた。
ミラは腕へ触れたが、何も聞かなかった。
小広間へ入ると、彼は窓際へ行き、町を見た。
煙突から煙が上がっている。
屋根には雪が残り、橋の上を荷車が一台進んでいた。
「終わった気がする」
彼が言った。
「何か、大きなものがなくなると思っていた。でも、思っていたほどではない」
ミラは隣へ立った。
「もう、ほかのものがあるからでしょうか」
「たぶん」
ルーカスは彼女を見た。
「君に、価値を示せと言わせたくなかった」
「言いませんでした」
「ああ。そうだった」
彼は小さく笑った。
ミラも笑った。
言わなかったことを、二人で喜べる日が来たのだと思った。
夕方、マリアンネから報告があった。
武器を用いた十八人は王国側で身柄を預かり、南口に残った二十二人は個別に事情を確かめる。中には、本当に採石の仕事を頼まれた職人がいた。
オルストは、武装要員が混じることを知っていたと認めた。ヴァレリウスから受け取った札を、予定以上の移動の根拠に使ったことも。
「公国側は、この行動を正式な軍の派遣とは認めていません。商会の出資と、現地での越権の問題として調べます」
マリアンネは言った。
新たな戦が始まるという話ではなかった。
ミラは、その一点に胸を撫で下ろした。
「兄上は、どうなりますか」
「王都へ同行してもらいます。家の相続の話は家の問題ですが、国境の任務へ関わることは、当面認めません。前金の返還も、正式に請求されます」
ルーカスは頷いた。
誰かの代わりに答えようとはしなかった。
その晩の夕食には、薔薇の砂糖漬けが少しだけ添えられた。
エダが申し訳なさそうに言う。
「セレーネ様が、持ち帰らないと。皆で分けても、まだ残りまして」
ルーカスは皿を見た。
ミラも見た。
「半分にしますか」
「一つを?」
「はい」
小さな菓子を、さらに二つに分けた。
口へ入れると、やはり甘かった。
ルーカスが水を飲み、ミラも続いた。
「変わらないな」
「変わりませんね」
それでも、二人とも笑った。
兄の好きなものを、兄のように好きになる必要はなかった。
自分たちなら、二人で半分にして、やっぱり甘いと言えばいい。
それくらいの距離へ、ようやく離れることができたのだった。




