第26話 離すためにつなぐ手
最初の兵が、青い柱へ辿り着いた。
肩に支えられた男は片足を引きずっていたが、自分で立っていた。ミラはその姿から目を離さず、道の端を岩に沿わせた。
光は薄かった。
山の向こうから吹き下ろす風を、ほんの少し避けるだけだ。それでも、人が一歩踏み出すには十分な幅になった。
「あと二人」
ルーカスの声がした。
ミラは頷いた。
掌が温かい。熱いとはまだ言えない。そう考えているうちに、指の付け根がちりっとした。
「熱く、なりました」
「俺も。ノア、止める合図を」
白い布が二本上がった。
向こうのガレスが腕を大きく回す。最後の二人が岩陰へ入り、こちらへ顔を向けた。
二人で手を離す。
途端に風が音を立てた。
ミラは石から一歩下がり、足元へ目を落とした。膝が頼りない。ルーカスが肘を支えてくれる。
「座ろう」
「あなたも」
「二人で」
壁の陰へ腰を下ろすと、ノアが水と濡れ布を持ってきた。
ルーカスはミラの掌を確かめ、自分の掌も見せた。赤くなっている。彼のほうが濃い。
「次は、もう少し短くしてください」
「君がそう言ったら、離す」
彼女は顔を上げた。
いつもなら、あと少しと言う人だった。
今は、自分の言葉を待つと言った。
ミラは頷き、濡れ布を彼の手へ押し当てた。
向こうの十八人は、作業を止めていた。
こちらが風を動かせるとわかり、橋へ出るのをためらったらしい。だが退こうともせず、組みかけの鉄材のそばへ集まっている。
ノアが望遠鏡を渡した。
ミラが覗くと、男たちの服の下に金属の縁が見えた。槍を持つ者が四人。弩は二挺ある。
遠くから見ていたときより、一人ずつの顔がわかった。
若い男が口元を袖で拭いている。寒さに震えている者もいた。
怖い相手なのに、人だった。
ルーカスへ望遠鏡を返した。
「全員を、ここで止められますか」
「石だけでは、続かない。ガレスたちが南へ戻る道を押さえ、話す時間を作る」
「町へ入らせないことが、先ですね」
「ああ。勝つために、長く石を使い続けるわけじゃない」
それを聞いて、ミラは息を整えた。
敵を全部倒すまで立っていなければならないなら、怖くてたまらなかっただろう。
今することが、わかる大きさになった。
ガレスから次の知らせが来た。
負傷者は退避できた。骨は折れていないようだ。隊の代表へ停止を求めたが、家の許可があると言い張っている。
「では、許可した本人に、取り消させる」
ルーカスが言った。
ミラは彼を見た。
兄をもう一度信じるのかと思ったが、その次の言葉は違った。
「マリアンネ殿の前で書かせる。彼女の停止通知と一緒に、読み上げる。兄上の曖昧な札を、口実にはさせない」
ノアが使いを走らせた。
ルーカスは壁の向こうを見た。
「兄上を現場へ連れ出す必要はない。これ以上、勝手に約束を増やされても困る」
ミラは少し笑ってしまった。
こんなときなのに、夫の言い方に安心した。
兄がよい顔をするための席を、もう用意しないのだ。
雪が、急に濃くなった。
旗の向こうの人影が見えにくくなる。
ルーカスが立ち上がり、ノアと位置を確かめた。そのとき、古い軍道側で、鉄のぶつかる音が響いた。
男たちが橋材を押し出している。
「見えない間に、進めるつもりか」
ノアが低く言った。
ルーカスは石へ戻った。
「ミラ。こちら側の橋のたもとだけ、見えるか」
彼女も立つ。
青い柱のさらに左に、黒い岩が一つある。その手前なら見える。
「岩までなら」
「そこへ、人が出る前に風を戻す。今度は道を作らず、こちらへ流れ込む雪を外側へ逃がすだけだ」
「橋の上の人は」
「まだいない。いないうちに、通れないと知らせる」
ミラは掌を置いた。
温もりが戻り、すぐ熱へ変わり始める。
夫の呼吸が聞こえた。
白い膜が岩の前へ現れ、雪を横へ流した。鉄材の先が揺れる。向こうの男たちが手を止めた。
ガレスの旗が上がった。
赤。
ルーカスがすぐ手を離した。
ミラも続いた。
わずかな間だった。それでも掌は痛かった。
「ここまでだ」
彼が言った。
「次は、兵に任せる」
ミラは頷いた。
石から離れるのが、逃げることではないと、今度はすぐに思えた。
ほどなく、マリアンネ本人が壁へ来た。
手には二枚の書面があった。
「兄君は、取り消しに署名しました。自分の言う意味と違う動きなら止めるべきだ、と」
ルーカスは短く息を吐いた。
「都合のよい言い方ですね」
「ですが、文字は残ります」
彼女はノアへ書面を託した。
伝令が岩陰を通り、ガレスのところへ向かう。
ミラは、その背中が小さくなるのを見ていた。
自分の手では届かない場所へ、誰かが運んでくれる。
だから石を離せた。
自分が何もかも抱えなければ、壊れないのだということを、今日は体ごと覚えていた。
壁の陰へ戻ると、ルーカスはミラの手袋を持った。
「はめられるか」
「少し、触ると痛いです」
「では、包むだけにしよう」
柔らかい布を巻き、その上から外套の袖で覆ってくれる。
彼自身の手も赤いのに、動きは丁寧だった。
ミラはその袖をつかもうとして、うまく指が曲がらなかった。
ルーカスが顔を上げた。
「どうした」
「近くへ、来てください」
彼はすぐ隣へ座った。
ミラは肩へ頭を預けた。
自分から抱きつけなくても、近くに来てもらえる。
それも、覚えておいてよかった。
「婚礼の日までに、治りますか」
「治す。急ぐ理由があるから」
「私もです」
彼の頬が髪へ触れた。
雪の向こうで、声が上がった。
ガレスが書面を読み始めたらしかった。
二人は顔を上げた。
まだ終わってはいない。
けれど、二人だけで終わらせる必要もなかった。




