第15話 答えを持ってこない人
王都から来た監察官は、城へ入る前にパンを買った。
それを知ったのは、昼食の席で彼女が自分の包みを開いたからだった。
「道中の食事は、冷める前に食べることにしています。お許しを」
マリアンネ・ソルドという名で、四十歳ほどに見えた。灰色の外套に飾りはなく、腰に短い剣を帯びている。書記を一人伴っていたが、荷物は自分で持ってきた。
「お返事を待たずに、町へ話しました」
ルーカスが言うと、彼女は頷いた。
「聞きました。パン屋で」
ミラは背を伸ばした。
「どのように」
「まだ怒っている。でも、二人で来て話した。それから、パンは相変わらず半分ずつ食べるらしい、と」
最後の一つが何の情報になるのか、ミラにはわからなかった。
マリアンネは包みを畳んだ。
「私は、お二人がよい夫婦かどうかを決めに来たのではありません。誰が何を知り、何をしたかを確かめに来ました」
「はい」
「ですから、今日はお一人ずつ伺います」
ミラはルーカスを見た。
別々に話せば、言い方が違うかもしれない。彼に不利なことを言ってしまうかもしれない。
夫は静かに頷いた。
「君が見たことを、そのままでいい」
それでようやく、ミラも頷けた。
最初に呼ばれたのは、ミラだった。
小広間の卓には水と紙があり、窓際の絵には布がかかっていた。マリアンネはその絵を一度見ただけで、椅子へ座った。
「婚礼の前に、夫の正体を知ったのですね」
「はい」
「拒否すれば、どこへ行くつもりでしたか」
「そのときは、考えられませんでした」
彼女は筆を動かした。
「相手から、客として残れると提案は?」
「ありました。結婚しなくても、リネの傷が治った後もいてよいと」
「その条件を、誰かほかに聞いていますか」
「立会人を集めた席で、ルーカス様がもう一度おっしゃいました」
マリアンネは頷いた。
家でのことも聞かれた。ミラは飾らず、覚えている順に話した。姉が病人との結婚を嫌がったこと、母に肖像画の話をされたこと、首飾りを外されたこと。
泣くつもりはなかったが、修道院の話で声が細くなった。
監察官は慰める代わりに、水を寄せた。
「今、その家へ戻る意思はありますか」
「ありません」
「夫と離れて暮らす意思は?」
「ありません」
その答えは、はっきり出た。
マリアンネは顔を上げた。
「夫が砦を預かれなくなっても?」
「一緒に家を借りる相談をしました」
「どこに」
「南に。まだ場所は決めていません。でも、部屋は隣に」
そこまで言って、ミラは口を閉じた。
監察官の筆が一瞬止まった。
「そこは、記録しなくてもよいでしょう」
淡々と言われたことで、余計に恥ずかしくなった。
聞き取りは昼過ぎまで続いた。
ルーカス、立会人、リネ。最後にガレスが地図と東峠の書面を持って入った。
ミラは廊下で夫を待った。
彼が出てきたとき、少し疲れた顔をしていた。
「何を聞かれましたか」
「君が断ったらどうするつもりだったか。今も同じ相手を選ぶか。それから、家を借りる話をしたか」
ミラは顔を覆いたくなった。
「お部屋の話まで?」
「ああ。隣かと聞かれた」
「記録しないと、おっしゃったのに」
ルーカスは少し考え、笑った。
「確かめたんだろう。同じ相談をしていたか」
それなら、役に立ったらしい。
けれど、ひどく恥ずかしい確認だった。
彼はミラの指輪へ触れた。
「今も同じかと聞かれて、はいと答えた」
「私もです」
二人の答えが揃ったことを、その場でもう一度確かめた。
夕方、マリアンネは二人を呼んだ。
「婚礼で結ばれたのは、実際に立ったお二人です。立会人も、その意思を確認しています。姉君が戻っただけで、妻が入れ替わるという扱いにはなりません」
ミラの指から力が抜けた。
ルーカスの肩も、わずかに下がった。
「ただし、王都の婚姻簿には、まだ両家が届けた予定しかありません。そこを正すには、虚偽の経緯を正式に報告する必要があります。お二人にも責任は残ります」
「承知しています」
ルーカスが答えた。
「砦については?」
「アーレンス家の相続地とは別です。王国の預かり地で、町の承認と王国の任命が要る。これまでは代々同じ家が出してきたため、一体のように扱われていましたが」
ミラは以前バルトに聞いた話を思い出した。
「町が別の人を選ぶことは、できるのですね」
「できます。今の二人を本名で選び直すことも。ただし、それだけで過去の虚偽が消えるわけではありません」
都合のよい答えだけを持ってきた人ではなかった。
だから、最初の言葉も信じられた。
姉が来ても、夫は自動的に姉の夫にはならない。
それだけを、胸の中で何度も確かめた。
東峠の地図が、卓へ広げられた。
マリアンネが指したのは、オルストの調査予定路だった。
「ここは、石材を調べるなら遠回りです。古い軍道へ近い」
ガレスが頷く。
「私も、それが気になりました。荷の内訳には、組立式の橋材があります」
「谷の測量に使うと、説明はできるでしょう。しかし、兵を通すことにも使える」
ルーカスの目が鋭くなった。
「王国側から、確認していただけますか」
「します。ただ、商会全体を敵と決めるには足りません。相手の説明も聞きます」
ミラは地図へ身を寄せた。
道は一本ではなかった。町へ向かう線と、北の外壁の裏へ回る線がある。
「こちらへ進むと、門を通りませんね」
「ええ。だから、この道は冬の間閉じている」
マリアンネは彼女を見た。
「お二人が知らないからといって、相手が待ってくれるとは限りません。返答と警戒を、分けてください」
ルーカスはガレスと視線を交わした。
商人へ返事をする前に、古い軍道の見回りを増やすことになった。
ミラには戦の知識はなかった。
それでも、道を開く手を持つ者として、自分もこの地図を覚える必要があるとわかった。
夜、ルーカスはミラを外壁へ誘った。
風は弱く、星が見えた。婚礼の石は月の光を受け、静かに白かった。
「寒くないか」
「少し。でも、ここに来たかったです」
彼が外套を寄せる。
肩を並べ、二人で町を見下ろした。
どの窓にも、誰かの生活がある。自分たちを怒っている人も、心配している人も、今夜は別のことで忙しい人も。
「選ばれなかったら、悲しいですね」
「ああ」
「でも、選んでほしいと、今度は本当の名前で言えます」
ルーカスが頷いた。
ミラは守り石へ手を置かなかった。
今夜は魔法を使うためではなく、隣に立つために来た。
「私、あなたの奥様でよかったです」
彼がこちらを見る。
「最初の夜は、窓枠を持った人ならと思いましたけれど」
「信用の根拠が、そこから始まるのか」
「今は、私が言い終わるまで待ってくださる方だから」
ルーカスは笑わなくなった。
ミラの頬に手を添える。
「俺は、君が帰ってきて、今日あったことを話してくれるからだ」
「それだけで?」
「俺のいる場所へ帰ろうと思ってくれる。それは、たいへんなことだ」
彼女は夫の外套を握った。
城を家だと呼ぶ前に、この人のいる場所へ帰りたいと思った。
その順番を、覚えておこうと思った。
星の下で触れた唇は冷たく、すぐ温かくなった。




