第10話 夫の知らない約束
男は、よく磨かれた靴で雪道を来た。
だからミラは、彼が歩いてきたのではないとわかった。馬車は町の南に止めたという。だが靴底には泥がなく、外套の裾も乾いていた。
オルストと名乗った男は、南部商会の代理人だった。
「ヴァレリウス閣下との約束で参りました」
応接室で、彼は革筒を卓へ置いた。
ルーカスはミラを隣へ座らせた。妻として応接に加わってほしいと言われたのは初めてだった。何を話すかは決まっていない。ただ、知らない約束を二人で聞くことになった。
「どの約束だろうか」
夫の声は平静だった。
オルストは微笑む。
「冬至の後、東の峠を調査隊に開いていただく件です。石材の質を調べ、春の通商に備える。お忘れでは」
「内容を、もう一度確認したい」
革筒から出てきた書面には、ヴァレリウスの署名があった。
黒い封蝋に、アーレンス家の鷹。
ミラは夫の横顔を見た。表情は動かなかったが、膝の上の手が、一度握られた。
「東の峠は、冬に人を入れない」
「ですから、防壁の助けを借りたいのです。閣下は、婚礼が済めば可能と」
オルストはミラへ向き直った。
「奥様のご協力も必要でしょう。二人で道を開くと、伺っております」
知っている。
ミラは自分の掌を意識した。まだ、薄く皮がむけている。
「どのくらいの人数ですか」
「四十名ほど」
「荷車は?」
「十二台。道具が多いものですから」
雪の日に救ったのは一家四人と荷車一台だった。
十二台を通すことが簡単かどうか、ミラには判断できない。だから、できると言わなかった。
「現場の方に確かめなければ、お返事はできません」
オルストの笑みが少し薄れた。
「すでに、ご契約は成立しております」
「私は、今初めて伺いました」
それは本当だった。
ルーカスが紙を置いた。
「調査隊の名簿と、荷の内訳を預かる。返答はそれを確認してからだ」
「閣下は以前、それほど細かなことをお気になさらなかった」
「今は、気にする」
夫の言葉に、ミラは背を伸ばした。
以前の男の約束を、今ここにいる男が飲み込む必要はない。
オルストはしばらく二人を見ていた。
「ご結婚は、人を変えるものですね」
「お互い、変わります」
ミラが言うと、ルーカスが一瞬こちらを見た。
その目に笑いがあり、ミラは少し勇気を得た。
男が去った後、ガレスとバルトが呼ばれた。
東の峠の向こうはヴェイル公国だった。今は停戦しているが、三年前までは何度も境界を越えて兵が来たという。峠の石は白く硬く、守り石とよく似ている。採掘権を巡る争いが、昔から続いていた。
「商会の印は本物です」
バルトが書面を確かめた。
「ですが、この支所は去年、ヴェイルの出資を受けております」
「兄は、それを知っていたのか」
「そこまでは」
ルーカスは窓の外を見た。
怒りよりも、何かを数え直すような顔だった。
「だから、来なかったのかもしれない」
ミラは彼を見た。
「自分で断ると、約束を破ったことになる。ここにいなければ、病で話が通っていなかったと言える。俺が通せば、兄の手柄だ」
嫌なほど、理解できた。
姉の服を直し、失敗したら叱られ、うまくいけば姉が褒められる。
同じ仕組みが、土地と人を巻き込んでいた。
ガレスが言った。
「憶測で断罪はできません。ただ、冬の東峠へ四十名は多すぎる。道具の確認は必要です」
「断った場合、何が起きますか」
ミラが聞く。
「違約金を請求されるでしょう。アーレンス家へ」
その後、ルーカスへ来るのだろう。
夫は頷いた。
「構わない。確認が済むまで開けない」
ミラは彼の隣で、同じように頷いた。
会議が終わってから、ルーカスはしばらく動かなかった。
「すまない」
彼が言った。
「君まで、この話に」
「私は、道を開く側です」
「そうだが」
「知らない約束を守るより、知ってから選びたいです」
ルーカスは机の縁に触れていた指を離した。
「君は、怖くないのか」
「怖いです。だから、一人で答えませんでした」
彼の表情が少しほどけた。
「俺も、君がいて助かった」
ミラは席を立ち、夫のそばへ行った。
励ます言葉は、うまく出なかった。自分の兄が信用できないかもしれないという苦しさを、簡単に片づけたくなかった。
代わりに、彼の手を取った。
「今日、青い服ができました」
ルーカスが瞬いた。
「今、見ても?」
「はい。今がよいと思います」
悪いことが来た日に、よいことを後回しにする必要はない。
それを二人で覚えたかった。
着替えたミラが小広間へ入ると、ルーカスは立ち上がった。
灰青色の布は、歩くたび柔らかく揺れた。襟元には余計な飾りがなく、袖は手首に合っている。背中の紐をリネが整えてくれたので、息も苦しくない。
「どう、でしょう」
彼はすぐ答えなかった。
その沈黙が怖くなる前に、彼が近づいた。
「よく似合っている」
「地味では?」
「君が見える」
ミラは呼吸を止めた。
借り物の服を着ていたとき、見えなかったわけではないだろう。でも、その意味はわかった。
自分が選んだ色で、自分の大きさに仕立てた服。
姉に似ているかどうか、誰も確かめない。
「もう少し、褒めていただいても」
言ってから、自分でも驚いた。
ルーカスは目を丸くし、やがて笑った。
「背がよく伸びて見える。袖の先から手が見えるのもいい。歩くと色が変わるところも」
「服のお話ばかりです」
「君が、きれいだ」
欲張った分だけ、逃げ場がなくなった。
ミラは顔を伏せた。
「……ありがとうございます」
「足りた?」
「今日は」
彼が笑い、彼女の手を取った。
蓄音石はまだ棚にあった。
ルーカスが布を外すと、あの曲が始まった。
「一周だけ」
「一曲で、お願いします」
答える声が、少し弾んだ。
外には、不明な契約と、兄の名前と、雪の峠がある。
そのすべてを忘れたわけではなかった。
けれど踊る間、ルーカスの視線はミラにあった。
ミラも、彼を見ていた。
知らない約束より、今ここで交わす一曲のほうを、二人は確かに守った。




