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雨天決行  作者: 公星
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1-2『喪失』

今回、登場人物が多いです。



 冤罪――というにはあまりにも乱暴で、最早ただの言い掛かりだとすら思えた。

文霽の父・文邕(ぶん ゆう)は、文霽と引き合わせてくれた人だ。そして、文霽との日常を、許してくれた。

そして悪意から、影でも日向でも守っていたのは、他ならない文邕だった。

父と呼ぶには遠く、けれど他人と言うには近過ぎる、雨昕にとって文邕は、そんな距離の存在だった。


 雨昕は文邕個人をよく知っていた訳ではない。もしかしたら、雨昕が知らないだけで、清廉な人物ではなかったのかもしれない。

けれど、朝廷の実権を掌握し、権勢を恣にした将軍に与した、などとは到底信じられなかった。

何処かの高官が言い出したと聞いたが、そんな誰が言ったかも分からない噂が、いつの間にか“事実”の顔をして広まっていた。

そんな訳はないと雨昕も声を上げたが、幾ら武名を上げようと、一介の兵に過ぎない少女の声が、太守、ましてや君主にまで届く事はない。まして、覆せるような力はなかった。それを、この時の雨昕は、まだ理解していなかった。


 それだけでも充分、二人の少女達には過酷な現実だったはずなのに――追い打ちを掛けるように、文邕邸に賊が押し入った。

商家の護衛依頼から戻った雨昕が駆け付けた頃には、既に役人達が後片付けを終えていた。

整然としていた邸内は乱雑に荒らされ、壁や柱には――抵抗したのだろう、刃の痕跡が多く残されていた。

邸内を進む。文邕の部屋も、そして文霽の部屋も、悉く荒らされていた。

聞いた話では、玄関に残った鉄の匂いと赤黒いシミ――その中心で事切れた使用人の顔は、凄絶その物だったのだそうだ。今は、人の気配など微塵も残っていない。


 文霽の部屋で立ち尽くし、呆然とする雨昕の目に小さな木簡が目に入る。震える手で拾い上げたそれは、以前、文霽と共に作詩したもので、見慣れた美しい文字が、見知ったまま整然と並んでいた。


「文霽……助けなきゃ……っ!」


 それは、文霽という存在が確かに雨昕と共に在った証明。そんな当たり前の事を、無かった事にするなんて出来ない。

それなら、此処で立ち止まっている場合ではない。何が起きたのか調べねば。

そう思い立つと、雨昕の眼には消えかかっていた光が再び灯る。木簡を握り締め、震えを無理矢理押さえ込んで、踵を返した。

迷いを断ち切った雨昕は、風の如く走り出す。



玄欒(げんらん)様へ!――急ぎっ、目通り願います!」


 既に月が真上に差し掛かり、子の刻になろうとしていた。

道中、何度か迷いが雨昕を襲った。もっと早く依頼を終えていれば――。いや、そもそも文霽の側を、離れるべきではなかった。沸き上がる後悔に、けれど今更唇を噛んでも何にもならない。

後悔は、足を止める枷にしかならないと雨昕は知っていた。悩んだからといって、文霽が居ない事実は覆らない。今はただ、足を前に出すだけだ。

文霽は、まだ死んだと決まった訳ではない。少なくとも、雨昕はそう信じた。それに――居なくなったということは、何処かで助かった可能性だってある。

それならば尚更、今彼女を迎えにいけるのは雨昕だけだ。文霽を護ると、決めたではないか。

そうして雨昕が訪れたのは、太守や君主から信頼の篤い――太守に次ぐ、郡丞(ぐんじょう)の地位の人物だった。

そしてその人は、今の雨昕に頼れる、唯一の存在だった。


「夜半の訪問、無礼は承知しております!どうか、どうか玄統善(とうぜん)郡丞にお目通りを!」


 息を整えた雨昕は、玄欒を(あざな)で統善と言い換え、声を張った。

必死な少女の声に顔を出した門番は、主の呼び名も含めて、只ならぬ様子の少女を見下ろす。

総白髪の三つ編みを垂らした、菖蒲色の瞳の少女。こんな夜更けでも、雨昕の見た目は分かりやすかった。

だからか、門番は一度名を確かめるように口を開きかけ、やめた。

ただ、「噂の少女が、こんな夜更けに何用か」と問う。


「親友、文霽の行方を伺いたく存じます!文苞賢(ほうけん)大夫(たいふ)邸宅に入った賊は、玄郡丞が取り押さえたと伺いました!」

「……文大夫令嬢の行方については、現在調査中だ」


 雨昕の言葉に、門番とは別人の低い声がそう答えた。

声の主が雨昕に門の内に入るよう指示すると、潜り戸――正門脇に設けられた小さな戸が開いた。言われるまま、雨昕は少し頭を下げるだけで通れる高さの戸を抜ける。

そこに居たのは玄欒本人ではなく、玄欒の側近、衡寂恒(こう じゃくこう)その人であった。

雨昕の記憶では、いつも玄欒の傍らで仏頂面を崩さない男だ。――玄欒も、大概ではあるが。

その衡寂恒が夜半にも関わらず、夜の静けさに似つかわしくない鎧を纏っていた。

その姿が意味するのは――賊の件は、まだ終わっていないのだろう。雨昕の背に緊張感が走る。

付いてくるよう言われるまま、衡寂恒の大きな背を追うと、屋敷の奥の部屋に通された。

そこには地図を広げ、衡寂恒同様に武装した、見知った将らが何人か、厳めしい顔を並べていた。


「早かったな。……いや、疾風迅雷のお前にしては、遅いと言うべきか」


 雨昕に投げられたその声の主に視線を向ける。雨昕の白髪とは対照的に、黒々とした髪をきちりと結い上げた、壮年の男だ。その顔は精悍さよりも威厳が目に付いて、畏れを抱き目が離せない。

雨昕は、その人物――玄欒を正面に捉え、右手を左手で覆い隠し、深く頭を下げた。文霽から教わった、最初の礼法だった。


「やあ、羅雨昕。待っていたよ」

「……黎景(れいけい)様」


 玄欒が「良い」と短く、雨昕に頭を上げるよう言った。従うと玄欒のその隣、この厳めしい顔触れの中にあって唯一、柔和な表情を浮かべた男が、雨昕に向けて軽く手を振った。

長身痩躯に淡い色の髪、一番年若い玄欒の軍師――黎景だ。

彼は雨昕を手招きすると自身の隣に置き、この場を仕切り始めた。

黎景は雨昕に文邕邸での出来事を簡潔に説明すると、捕らえた賊は北方に位置する朔原(さくげん)を支配する、野蛮と有名な異民族の出だと続ける。

そこまで聞いて、雨昕は耳鳴りで音が遠退くように感じた。――理解したくなかったのだ。

今も心の何処かで、本当は玄欒邸に文霽は匿われているのではないかと、無事だったのだと、言って欲しかったから。

しかし無情にも黎景は、彼女は連れ去られたのだ、と断言した。しかしそれを証言した賊の言葉までは、黎景は言わなかった。

それが意味する事の重さを、雨昕にはまだ、分からないだろう。判る訳もなかった。解らないうちは、解らなくていい。文霽の身に起こる出来事は――雨昕には、想像すらも出来なかった。

けれどそれを、誰が責めるだろう。まだ元服前の少女に、教える事すら憚られる残酷な現実。

大人達のそんな沈黙すら、何も分からない雨昕には、責める事は出来なかった。

文霽を案じ、雨昕が意識せず握り締めた拳からは血の気が引き、白く染まっていた。その異変に、黎景は気付いた。

言葉を続けながらも、雨昕の小さな手を取り、その指をそっと開かせる。


「羅雨昕。私達は君を、朔原に行かせる訳にはいかない。何故か、分かるかい?」

「……私は、誰の配下でもありません」

「その通りだとも。けれど、君は既にこの瑞陽(ずいよう)の英雄だ。君が動けば、玄欒殿だけでなく、太守にまで迷惑が掛かる。……君にそんなつもりが無くても、ね」


 柔らかい声色で、けれど有無を言わさぬ黎景の言葉に、雨昕は俯いた。

僅かな時間すら惜しむべき時に、けれど誰も雨昕の無言の葛藤を責めず、また慰めの言葉など掛けもしなかった。

それは誰もが分かっていたからだ。彼女がどれだけ文霽を慕っていたのかを。そして安易に慰められる程、この場の誰も、雨昕と懇意ではない。

むしろ、衡寂恒や、その従兄弟で勇将と謳われる衡迅燿(こう じんよう)は、いつ雨昕が暴走しても抑え込めるよう、腰の刀の柄から手を離さず、いつでも斬れる構えで立っていた。

雨昕はまだ、何も出来ない。何者でもないのだから。

再び握り込みそうになる手を、黎景の大きな手が阻むよう包み込む。それはまるで、迷子の子供にするような仕草だった。

けれど雨昕は、泣いて立ち止まる少女ではない。

――だからこそ、雨昕は警戒され、危険視され、そして護られていた。


「羅雨昕」


 耳が痛くなるような静寂を打ち消そうと、雨昕が「それでも」と口を開き掛けたその時だ。

玄欒の呼び掛けが、雨昕を止めた。その声に呼ばれただけで背筋が伸びるのは、雨昕は畏れているからだ。玄欒に拒まれたら、次の宛は、もう――。

その声が何を続けるのかを聞き逃さぬよう、雨昕は口を噤み、恐る恐る視線を玄欒へと向けた。


「異民共の討伐は、直ぐには動けん。土地、兵、兵糧、その何れも、半端な備えでは被害は他にも及ぶ。……我が軍門に下らずとも良い。だが、勝手は許さぬ」


 聞き分けの無い子供を叱るにしては、強い口調だった。玄欒は、そういう男だ。

少しの間の後に、「その時が訪れれば、お前に先鋒を任せよう。今は耐えよ」と続けた。

玄欒は、雨昕を見下さなかった。ただの少女と侮らず、ただの子供と切り捨てなかった事に、今は感謝すべきなのだろう。

雨昕もそれは――納得しなければいけないのだと、分かっていた。


 雨昕がそれ以上の反抗的な態度をしなかったのを了承と受け取った玄欒は、屋敷の空き部屋に泊まるように言って雨昕を下がらせる。

玄欒の好意に従い、雨昕は頷いて踵を返した。一歩を踏み出す手前、黎景が包んでいた手を離し、その手で雨昕の頭を優しく撫でた。そして「ゆっくりお休み」と穏やかに言う。雨昕は静かに頷いた。

訪れた時同様に衡寂恒に伴われた後ろ姿が、黎景の目には、少女が震えながらも気丈に振る舞うように見えていた――だけでは、なかった。

あれは、何れ天に昇るか、地に爪痕を残す、“猛獣”の類いだと確信していた。

そうと思えばこそ、この場に於いて誰も警戒を緩めることが出来ない。優しい振りでも、繋ぎ止める必要があるだろう。

小さな背中が闇に消えていくのを見届けると、黎景の表情や声からは柔らかさが完全に消えていた。

玄欒も黎景も、彼女を盤上の駒として見ている。

実際、玄欒の言う「その時」となれば、雨昕は獅子奮迅の活躍を見せるだろう。幾度か戦線を共にしたからこそ、彼女の“武”をがどれ程危ういものか、この場の誰もが知っている。

ここでもし、雨昕が単身で朔原に向かえば、今後を悩ませる幼い脅威は取り除けるだろう。或いは、目障りな蛮族に深手を負わせ、優位な立場をもたらすかもしれない。けれどその時は、こちらにも牙を向けるのだろうが。


 大人達の理想は、雨昕が理解をする事だった。

今、感情任せに動く事がどれだけ世を乱し、そして彼女の取り戻したいと願う、文霽さえも危険に晒すのかということを。

けれど彼女はまだ幼く、その行動の末に待つ未来が見えない。そのくせ、誰よりも速く駆ける事が出来てしまう。

頭一つで理解せよというのは、あまりにも酷だ。

保護者の居ないこの猛獣の子が、世を乱さない為、そして傷付かない為――檻に閉じ込めるように、優しさではない理由で手を差し伸べたのだ。それが玄欒や黎景の判断だった。


 一方、雨昕に宛がわれた部屋は、普段利用する宿の何部屋分にも及ぶかという広さだった。その所為で落ち着かず、部屋の中に入ることさえ躊躇われた。

そんな雨昕を、衡寂恒は有無を言わさず部屋に押し込み、足早に去って行く。

だが間もなく、再び部屋の扉が叩かれた。そこに立っていたのは、またも衡寂恒だった。

その手には蒸した餅や干し棗、梨や桃に見たこともない果物を詰めた籠があった。仏頂面の男が持つには、あまりにも可愛らしい取り合わせだ。


「お前はまだ酒も呑めぬだろう。……こんなものしか無いが、気休めにはなる」


 文霽の家でしか――文霽の家でも見たことが無いような、高級果物や菓子に雨昕は再び圧倒された。

雨昕が目を輝かせながらも慄いた後、慌てて「貰えない」と断る。だが構わず雨昕の手に大きなその籠を持たせると、衡寂恒は満足そうに一度だけ頷いた。そして「早く寝るように」と言い残して去っていった。

無理矢理手渡された果物からは、甘く芳醇な香りが漂い、その気遣いの在り方に、どこか文霽を思い出させる。

わざわざ持ってきてくれた物を、追い掛けてまで返すのも申し訳なく、手元の籠を見下ろした。

珍しい果物はどこをどう食べるのかも分からず、恐れ多くて手を出せない。結局、文霽に分けてもらったことのある干し棗に指を伸ばした。恐る恐る口に含めば、噛む程にほのかな甘みが滲み、遅れて、胸の奥に痛みが広がった。


 翌朝、まだ日が昇るよりも早く、雨昕は目を覚ました。これだけの広さがある部屋だというのに、雨昕は長椅子に丸まって眠っていた。齧りかけの干し棗が、籠の傍らに転がっている。

籠の向こう、机の前の椅子に、長い脚を組んで舟を漕ぐ男がいた。

慌てて身を起こすと、男の睫毛が揺れ、片目がゆっくりと開く。


「おはよう。……ああ、驚かせてすまない」


 目が合うと一度だけ目を閉じて、今度は穏やかに微笑むその姿は、寝ている婦女子の部屋に忍び込んだとは思えない程、爽やかだった。文霽が居たなら、顔を真っ赤にして烈火の如く怒ったことだろう。もっとも、黎景という男は元より品行方正とは言い難い事で市井でも有名だ。

けれど雨昕は文霽と違い、そうした倫理的な違和感を抱かなかった。というより、知識が無いのだ。飛び起きたのも、人としての警戒ではなく――獣が気配を察した時の、本能的な反応だった。


「殿から君の面倒を見るように言われてね。ああ、もちろん、今まで通りに過ごして構わないよ」


 ゆったりと、どこか芝居掛かったその話し方を崩さずに黎景は言う。

そして、夜の間に僅かに萎びた――見慣れない果物に手を伸ばし、それを口にした。紫色の小ぶりな粒が幾つも房状に連なっている。雨昕は見た事もなければ、味なんて尚更知らない。

もうひと粒、指先でもぎ取るとそれを雨昕に差し出した。怪訝そうに黎景の手元を見ていた雨昕に、「食べてみろ」ということらしい。


「君はまだ、将というには色々と足りないからね。一つずつ教えていこうと思っているよ」


 そう言ってから、「武力では、もう君の方が上だけれどね」と付け加えた。

雨昕は黎景の話をあまり真剣に聞いていなかった。というのも、果物に興味が削がれていたのだ。恐る恐るその果物を受け取ると、どうやらこれは“葡萄”という高級な物なのだと、まるで世間話のように黎景は教えてくれた。厚い皮と中の種は食べないのだそうだ。

――それをもう少しだけ早く言ってくれていれば、口に放り込んだ葡萄の種を勢いよく噛んでしまって、渋いやら苦いやらで口の中が忙しくなる事は無かったかもしれない。

人の話は最後まで聞くべきだ、と身をもって雨昕は学んだのだった。


1/16は地獄の門が開く日なんだそうです。

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