1-17『作戦会議』
翌朝、まだ空気の冷たさが残る刻限に、鵑は沈司朗の名を出した兵に呼び出された。
簡潔な伝言は「軍議室に来い」の一言だけで、理由も余白も与えられない。
顔を洗い、髪を結い、いつもの鍛練が終わった後の出来事で、身なりは整えてあったとはいえ、沈司朗の行動の速さに呆気にとられた。
鵑は棍を背負い、李峻に断り、家を出た。
道中、昨日の事を思い返す。
濃い一日だったな、とまとめた感想が思い浮かんだ。沈烔堅との謁見。沈司朗との私闘。水鏡の案内。水門の巡回。
鵑の悪い噂も、早々に広まっただろう。――師が聞いたら、呆れるだろうか。いや、面白がって揶揄ってくる、そういう人だ。
そこまで想像しておいて、鵑は首を振った。師の事を考えるのは、やめだ。やめたつもりでいたのに、どれだけ鵑の根本に根付いているのだろう。今は、水鏡に来る前の事なんて、考えたくないのに。
ともあれ、疲労は残っていない。それに、鵑は呼び出しを無視できる立場ではない。
早々に呼び出しに応じようと、薄く白んだ空の下、城へ向かう道を歩く。
胸の奥には小さな不安と、何が起こるのかという期待が弾んでいた。
城門前では、昨日の殴り合いの噂を聞いたのだろう門番に、凄い渋面をされた。眉間の皺が凄い事になっている。
その顔のまま、門番が武器の預かりは強制だと言う。元より、こんな長物を城内に持ち込むつもりはなく、道中の護身用だ。
鵑は素直に棍を差し出すと、奪うように持っていかれて少し驚いた。そして見た目よりも重い棍に、その門番は一瞬よろけて鵑を睨んできた。それは少し理不尽ではないだろうか。
あまりに露骨な態度だけれど、そもそも鵑が殴った相手は民間にも人気のある、この都市の正統後継者なのだから、当たり前だろう。
こんな所で揉める必要が無いと割り切り、鵑は門番の態度に異議は唱えなかった。
「……帰りに忘れるなよ」
警戒を隠しもしない声で送られた忠告に短く頷き、鵑は城内へ足を踏み入れた。
石畳の回廊に、行き交う文官や兵の足音が硬く反響している。
沈司朗に案内されたとはいえ、これだけ同じような造りが続くと、記憶より先に方向感覚が狂いそうだ。
それでも何とか記憶を頼りに角を曲がり、見覚えのある柱や庭の配置を確かめながら進む。何度か立ち止まっては振り返り、わずかに遠回りをした末、ようやく軍議室の前へ辿り着いた。
扉を叩き、短い返答に導かれて中へ入る。
室内では、几案に地図と竹簡を広げ、几案を挟んで向かい合い、作業する人影があった。
その一人である沈司朗は、腕を組んで立ち、竹簡を睨むように見比べている。その向かいで、椅子に腰掛け、別の書簡の文字を追っていたのは朱澤だ。
「遅い」
沈司朗の開口一番の言葉はそれだった。
淡々とした口調だが、明らかな苛立ちが混じっている。鵑は思わず眉を寄せた。
「昨日、案内したはずだ」
更に続いた言葉に、鵑は口を噤んだ。
沈司朗は何を急いているのか、言い訳を聞く気は始めから無いらしい。再び竹簡に視線を落とし、何か考え事をしながら、指先で何もない几案の上を叩いている。
その向かいで朱澤が顔を上げ、鵑に向けてにやりと口元を歪める。
「そうだぞ。迷うような城でもないだろ」
便乗するような、どこか揶揄うような声音に、鵑は思わず顔をしかめて舌を出し、子供がするような冷やかしの仕草を返した。
あ、と朱澤が声を漏らし、何事かと沈司朗が顔を上げる。そして沈司朗が振り向くよりも早く、鵑は何でもない澄ました顔に戻した。
元より、沈司朗の態度も朱澤の揶揄いも、言い返す程の事ではない。ただ黙って頷くのも癪だっただけで、悪戯染みた行動で溜飲は下がった。
訝しげに見てくる沈司朗に、鵑は拱手して遅れた事実を詫びる。朱澤もそれ以上は何も言わなかった。
一歩前に進むと、軍議室には薄く乾いた墨の匂いが満ちている事に気付く。
誰かが夜を費やした痕跡だろう。その香りは懐かしく、鵑は無意識の内に、指先で笄を確かめていた。
鵑の郷愁に気付いていない沈司朗は、資料の山の一つを押し出し、低く告げる。
「昨日、帰ってから改めた。整理するのに必要な箇所も書き写してみたが、前回の浚渫が甘かったとは思えねえな……」
沈司朗はこともなげに言うが、改めたと言っても、資料の文言から見る限り、水門の開閉や水位、通行記録、舟や荷の記録、納税記録、積込港、徭役名簿、その他と、浚渫に関わらず膨大な記録だった。
山のように揃えられた竹簡や書簡の束は、簡単な確認で済む分量ではない。現状を整理し、書き込めるように書き写したのだろうが、どうかしている量だ。
朱澤が筆を置いて軽く肩を回しながら、半ば呆れたように口を挟んだ。
「今回調べた、ここ三年分で言えばそうですね。時期的にも、そこまで不自然では無いかと思います」
三年分。朱澤の疲弊した声が、そのまま紙の厚みに宿っているようだ。
やれやれと言わんばかりの朱澤だが、昨晩、鵑達と別れた後、李峻の考えを沈司朗に報告に来たのだろう。
そして全容の見えないまま、この難儀な作業を手伝った。その苦労は、目の下の隈が雄弁に物語っている。乳兄弟や家臣とはいえ、律儀なものだ。
それに、近年流通が増えたとはいえ、未だ高価な紙がこんなに使われている――いや、この“量”が手に入るのは、流石水鏡というべきか。鵑は目を細めた。
二人の反応に構わず、沈司朗は今まで見ていた竹簡を巻き直しながら、低く呟いた。
「何もないならそれでいい。だがよ、親父殿や水鏡をナメられたんじゃ、見過ごすわけにはいかねえ」
沈司朗の言葉の端に滲む必死さは、賢君の後継者である自覚だろう。責任を背負う者の声音であり、言い訳の余地を探す気配がない。
だが朱澤が、すぐに首を振る。
「それはそうですが、これらの記録に不審な点は見当たりません。李家の主人の言ってることはあくまで李家の問題で、水鏡の問題ではないのでは……と、僕は思います」
沈司朗の目も、夜通し数字を追い、異変を拾い上げようとしていたのだろうに、今も尚ギラギラと鋭く光って見える。
これだけの事をしても尚足りないというのなら、君主とはどれだけ過酷な生き方だろう。
計り知れないその横顔を眺め、鵑は半ば呆れ、半ば感心した。
問題は、朱澤の言う通り、自然にも起こり得る事以外には何も無いのだ。より正確に言うのなら、“まだ”問題は起きていない。ではいつか、といえば、それも分からないのが現状だ。そんな事に時間を割く程、沈司朗は暇ではないだろうに。
けれど沈司朗の必死さの理由に、鵑は覚えがある。
大厄は、些細な積み重ねが複雑化し、何かの切っ掛けで弾ける。だからこそ、日々の違和を見逃してはならない。
それはいつだったか、師の仕える太守を護衛していた折、どうして細かい陳情にまで太守自ら確認するのか、という興味本位の質問に返ってきた言葉だった。
沈司朗の根本にも、それに近しい考えがあるのではないだろうか。
「あの」
「なんだ」
それにしても、この几案の上に並ぶのは、水鏡という大都市の国家機密そのもの。
沈烔堅に直接、客将というには不安だ、と拒まれた身である鵑にとって、これ以上は近寄りがたい情報だった。
鵑が文字の読み書きは出来ないと思われているのだろうか。そうであれば、あまりにも無防備だ。
けれど、少なくとも朱澤は、昨夜一緒に李峻の帳簿を見た時に鵑が文字を読んでいた事を知っている。それを沈司朗に言わない理由がない。
だとしたら、どうして。
そんな疑問を視線から察した沈司朗は、わざとらしく息を吐いて腕を組む。
「お前の客将としての口利きに必要な事だろう?俺だけが認めても、親父殿は納得しねえ」
それを言われればその通りだ、とは思うが、それにしても豪胆過ぎる。
鵑の驚愕は、朱澤が呆れに変換して沈司朗に投げ掛けて言った。すると沈司朗は、少しだけ笑って「勘だ」と言う。
「手合わせして思ったが、鵑は信用できる。それに……次こそ、本気のお前と手合わせがしてみたい」
「……要するに、それが本音ですか」
言葉を失う鵑を見ながら、沈司朗は短く声を上げて笑った。鵑の代わりに言葉を返した朱澤は、じっとりとした視線を送っている。ついでに小さく、戦闘狂の筋肉馬鹿め、と呟いたのを聞かれ、笑顔で青筋を浮かべた沈司朗に小突かれ、大袈裟に痛がっている。
そこまでが彼らの様式美なのだと気付いた鵑は、ただそれを見守っていた。
沈司朗は鵑へと視線を滑らせ、互いの視線がかち合う。そして、まるで悪戯を思い付いた悪餓鬼のような顔を鵑に向けてくる。
「お前だって、今更逃げねえだろ?」
挑発めいた言葉は、けれど確信だった。
きっと、鵑が沈司朗に抱いた同族意識は、彼にもあるのだろう。そうやって言えば、鵑は乗ってくる。まるで昔から知っていたような態度が癪だけれど、その通りだと鵑は一歩、前に進んだ。
「私の方が、怪我も少ないですからね」
「ハッ。こんなの、かすり傷だ」
重たい拳を受けた鵑と、棍と小さい拳の手数を受けた沈司朗。その手合わせの決着は付いていない。自身の優位を主張したのは戯れだったけれど、沈司朗なら乗ってくると思った。案の定、鵑の思った通りの反応に少しだけ笑ってしまう。
鵑は沈司朗の正面に立つと、今一度拱手して深く頭を下げる。沈司朗はそれを受けて、満足そうに頷いた。
わだかまりが解れた所で、これからが本題だ。
沈司朗達がここまでしてなお、自然被害以外の綻びが見つからない。
これが誰かの思惑だとしたら、露骨な手ではなく長期的な策を仕掛けている可能性が高い。
ただの猜疑心ではないだろうか。その考えは常にあるが、鵑は意図的にこれを無視していた。そう思ってしまえば、結論を急いて違和感を見逃してしまう。この資料の山を前にして、その努力を無下にする事は出来ない。
几案の上の紙束が、沈司朗の指先に押されてわずかに軋んだ。
そこまで二人を見守っていた朱澤が、腕を組んだまま息を吐き、ひとまず、と声を上げて区切る。
そして視線を地図から外し、鵑、沈司朗の順に見た。
「確認ですが」
鵑を見たのは、少しでも認めてくれたからだろうか。
分からないが、いずれにせよ朱澤の次の言葉を待つように耳を傾けた。
「鵑を送った後、李家の主人から帳簿の話を聞き、そのまま三人で水門まで足を運びました。そしてその帰りに至るまで、特別、問題は起きてはいませんでした」
鵑の脳裏に甦るものと大筋は同じで、黙って頷く。
水路を見ながら歩いた夜道、人の気配の少ない桟橋、耳に残る水音、風に揺れる灯火の影。
何もなかったという事実が、かえって不自然に感じられるのは何故だろう。
朱澤は一拍置き、今度は沈司朗へ視線を向ける。
「その上で、ですよ。鵑の実力を示すにしたって……この件、このまま三人で進めるつもりですか?」
この違和感を公にするかどうか、そんな問いに、室内の空気がわずかに引き締まる。鵑を引き立てるだけなら、もっと別の事でも良いのではないか、と暗に言っているのだ。
何せ、まだ何も起きていない。
だからこそ、朱澤のこの問いは、鵑ではなく沈司朗の立場を危ぶんでの質問だった。鵑も沈司朗の言葉を待つように、その横顔を見た。
孝は忠の根ともいう。その孝心を疑われ、人心を失くすような軽率な行いは、沈家嫡男であるからこそ許されない。だからこそ、朱澤はずっと乗り気ではないのだろう。
沈司朗はすぐには答えず、広げられた地図に視線を向けた。まるで、地図に広がる水鏡自体を見据えているようだ。
やがて、沈司朗は静かに首を振る。
「まあ、もっと楽な手はあるけどよ。これは、鵑が気付いた事だ」
「……そう、ですけど」
「それに、万が一があれば、俺にとっても見逃せない話だ」
朱澤に答える声は低く、しかし迷いはなかった。
沈司朗は沈司朗で、父の役割が務まるのか試される立場だ。だからある意味で鵑は、彼の試金石なのだろう。
どこまで鵑が使える人物なのか、彼がどこまで鵑の力を使う事が出来るのか。そんな風に考えているのだろうと気付きながらも、鵑は人に使われる事を不快には思わなかった。
鵑は今まで、一人で何もかもやって来たつもりで、その実、いつも黎景や玄欒が後ろに居た。それがなくても信用してくれる沈司朗は、異質だ。
だから、難題を前にしても信じようとしてくれるその期待に、応えたいとも思う。
そうと決まれば、鵑に出来る事は何か、資料の山を見詰めながら考える。
今の段階では、自然現象で片付けられるだろう。水位の乱れも舟の詰まりも、沈烔堅の治めるこの水鏡では、珍しいが無い話でもない。今陳情を上げたとしても、いつも通りの対応で事務的に処理されて終わってしまうだろう。
沈司朗が、指先で徭役名簿の端を軽く叩く。
「親父殿や陳宜に回すなら、確実な証が要る。先にその材料を揃える」
短く断じる声音だった。
朱澤は沈司朗の顔をしばらく見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……分かりました。ではまずは、痕跡探しですね」
朱澤は、沈司朗の言葉を拒否しなかった。あれだけ何もないと言い張っていた割に、随分あっさりした反応だった。
考えてみれば、昨日だって断ると言いながらも水鏡案内に同行していたし、鵑を送り届け、沈司朗のしようとしていることを理解して李峻から話を聞いていた。
鵑は二人が乳兄弟と李峻が言っていた事を思い出し、自分にも兄弟がいたら、なんて思う。けれどその先は、意識的に目を逸らして、今すべき事を進めるため、静かに頷いた。
朱澤が現状を整理するべく、今の水鏡で何が起きているのかを羅列していく。
舟が詰まり、船底が擦る。水門の開閉は決められた規則のもと行われ、前回の浚渫は問題なく、極端な悪天候にも見舞われていない。
そこまでは、鵑も分かっている話だ。
「鵑。お前は何か気付いたか?」
「例えば、募兵や水利官が変わったなどの人の流れ、それから李峻殿の帳簿との差異がどれ程あるのか。この辺りはどうですか?」
朱澤に水を向けられた鵑は、確認したい事実を上げ連ねる。流石に人事までは鵑に教えてくれなくても、彼らが調べれば何かが分かるのではないか。
現に、朱澤が目を細めて資料の一部に目を遣り、沈司朗の指先が微かに揺れ動いた。既に調べが付いているのかもしれない。
鵑は続ける。
「夜警の巡回路が知られていないか、商家の収賄や不正をどこまで許したのか」
「……概ね、調べは付いてる」
「それなら後は、現場単位での調査と照らし合わせてみてどうか、ですね」
沈司朗が答えると鵑は首を傾げる。
確証を得るなら、当たり前だが軍議室に籠っていても見付かる訳がない。
けれど、周到な準備をしている相手だとするなら、こちらも軽々しく動くべきではないだろう。それはこの場の共通認識だったようで、沈司朗は指先で机を軽く叩いた。
「大きく動けば、悟られて逃げられる。それじゃあ意味がない」
鵑と朱澤は、同時に頷いた。
焦りよりも、静かな緊張が室内に満ちていく。
「調査対象をどこに絞るか、疑わしい部分を整理しましょう」
朱澤はそう言って、新しい紙を取り出す。乾いた音を立てて広げると、早速筆を取った。
昨晩李峻が口にした、数字が揃い過ぎている不審な日付。積み荷の数が合わない理由。水門の開閉と通行の記録。違和感の正体を探す為、目の前の膨大な情報に三人はただ目と筆を走らせる。
繰り返し繰り返し視線を往復させるうち、文字の輪郭が滲み、同じ文字が別の形に見えてくる。
正しいはずの記録が、いつしか仮面の列のように思えはじめ、鵑は一度だけ目を閉じて呼吸を整えた。
それでも手は止めない。竹簡の重なる音が静寂に落ちていた。
コンビニのバスク風チーズケーキ食べた。美味しかった。また買ってこよう。




