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雨天決行  作者: 公星
12/12

1-12『綺羅星』


 南へ行こうと思った理由を、自分でもはっきりとは分かっていなかった。

ただ何となく、北は、もういい。そう思った。

南の主要都市である水鏡(すいきょう)は、文字通り水と共に生きる街だった。

大河から引き込まれた水路が縦横に走り、荷を積んだ小舟が行き交い、橋が人の流れを繋いでいる。朝から市は騒がしく、呼び声と笑い声、値切る声が重なって、空気そのものが動いているようだった。


 その中を、彼女は流れに従ってのろのろと歩いていた。すれ違う人と肩が触れ、肘が当たり、足を踏まれた。

「おい」「前見ろ」そんな声が飛んでくるが、彼女は振り返らない。謝らない。睨みもしない。

文句を言った商人は、怒鳴る準備をしたまま言葉を失う。ぶつかったはずの人間が、前を見ている筈なのに、何も見ていないのだ。まるでそこに居ないかのように、視線が空を切っていた。

乱れた白い結い髪は陽に晒されて妙に目立ち、上質な作りの笄や棍を身に付けているのに、その細腕で操れるのかと思う程にやつれている。

そのあまりにも生気の薄い顔に「……いや、いい」と小さく呟き、視線を逸らして身を引いた。

彼女は、そんな事が自分の身に起きている事にも気付かなかった。


 市を訪れたのは、慣習のようなものだった。足が前に出るのは、意志ではなくただの慣れ。止まろうと思えば止まれたはずなのに、その考えすら、どこか他人事だった。

賑わいの中、湿った空気が肌に絡みつく。

焼き物の油の匂い、魚の生臭さ、香草の甘さ。人の声は途切れることなく、誰もが何かを求めている。

活気がある。許安の整然とした賑わいとは違う。

守る事に長けた場所ではなく、流れ続けなければ沈む街だ。

彼女は無意識に、背負った棍の重さを確かめる。こういう場所では、武を見せれば自身の存在価値を示せる。そしてそれが金になるのだ。

けれど今日は、それをする気にならなかった。必要もないと思った。


 ここは以前、一度訪れた街だ。ふと、記憶が引き出される。

確か、水賊討伐の依頼だった。河を利用して逃げ回る連中で、追い詰めるのには骨が折れた。報酬を受け取った後、この市で何か買って食べたような気もする。

そう思い出した途端、腹が小さく鳴った。

無一文で出てきてしまった。ここに着くまで、どうやって飢えを凌いだのか、もうよく分からない。

市に漂う匂いが、先ほどよりも強く感じられるのは、そのせいだろう。

——昔も、こうだった。

ふと、どうでもいい記憶が浮かぶ。村の口減らしで捨てられ、行く先もなく歩いていた頃。

あの時は、腹が空いていることが、生きている証みたいだった。生きる為に、生きていたのだ。

それが、人として接してくれた人達がいて、彼女の生き方は変わった。


 彼女を変えたのは――。

でも、それさえ今は、違うのだ。

腹が鳴る。それが何だというのか。

生きる為の目的なんて、もう。


 そんな思考を断ち切るように、前方から小さな影が飛び込んできた。

走ることに夢中で、足元を見ていない。

次の瞬間、何かにつまずき、体が大きく前に投げ出された。

あのままでは――落ちる。

そう認識するより早く、彼女の身体は反応していた。

担いでいたはずの棍を差し込み、白蝋の柔らかい柄の先端で、幼い身体を受け止めながら衝撃を受け流す。そのまま、幼い体が地面に叩きつけられないよう、棍を回転させ力を空中に流すと、小さな影がふわりと舞い上がった。

そして、その影を抱き留める。その全てが一続きの動きで、音もなく起きた。

抱き留めてから、ほんの一瞬遅れて気付く。この身体はまだ、勝手に人を守るらしい。


「……大丈夫?」


 腕の中で、幼女がしきりに瞬きを繰り返す。

しまった、と思った。驚かせてしまっただろう。次の瞬間に泣き出しても可笑しくはない。

けれど次の瞬間、その丸い目がぱっと輝いた。


「くるん、てなった!なに、今の!」


 恐怖よりも先に、初めて味わう感覚に驚きと興奮が勝ったらしい。

彼女は思わず息を吐き、肩の力を抜いた。

舌足らずな言葉には何も返さず、幼い体を地面に下ろす。だが幼女は満足せず、「もう一回!」と裾にしがみついてきた。

笑って距離を取ろうとするが、今の自分が笑えているのか、分からない。なのに足元の幼女は、眩しい笑顔のままだ。

どうしたものか。そう思っていると、少し離れた場所から声がした。


「こら、(てい)。知らない人を困らせないの」


 振り向けば、足元の幼女とよく似た顔立ちの少女が立っていた。足元の幼女より、年上なのだろう。真っ直ぐ伸びた背筋と、幼いながらに姉妹を制する声音も落ち着いていた。


「でもお姉ちゃん!すごかったの!」

「だめ。知らない人でしょう」


 そのやり取りを見て、彼女の胸にちくりとしたものが走る。幼い姉妹の柔らかそうな頬と真っ直ぐな瞳。片方は大人ぶった仕草を。もう片方は見るもの全てに楽しみを見出だして輝いている。

懐かしさにも似た感覚だった。あんな過去が彼女にも――いや。やめよう。

姉は妹の手を引いて、彼女から離れた。そしてたどたどしくも頭を下げて見せる。幼いのに、教育が良いと感心する。

程なくして、乳母だろうか。少し年増の女性が駆け寄り、幼い姉妹達は連れられていく。

去り際、妹の方が何度も振り返るのを、彼女は黙って見送った。


 水鏡は人手に溢れている。水面に映る建物は揺れ、現実と虚像の境が曖昧になる。

あまり長居する理由は無いが、ぼんやりと水面を眺めた。

気付けば夕暮れ色に水面が染まり、波が揺れて輪郭が崩れる。月は、まだ登っていない。

けれどそのどれもが、掴めば消えそうだ。

――もう、此処でいい。飢えも渇きも、雨風を凌ぐ必要も無い。

そう思った、その時。


「あーっ!白いおねーちゃん!」


 聞き覚えのある声がして、顔を向けた。

綺羅星を宿したあの幼い影が、全力で彼女目掛けて駆けてきた。勢いのまま腕に抱きつかれ、彼女は思わず――かつて彼女の師がそうしたように、小さな体を受け止めていた。


「あのくるん!もう一回、やって!」


 朝と変わらぬ熱量に、無意識に苦笑が漏れた。

周囲を一瞥し、人通りを確かめる。そして諦めたようにゆっくりと棍を構えた。

今度は、より慎重に。小さなもみじに棍を掴ませると、その上からそっと棍を握り締め、軽く力を込める。

ふわりと、幼い影が宙に舞った。


「きゃー!」


 黄色い声と、弾ける笑顔。すぐそこまで夜がきているのに、そこだけが眩しく見えた。

幼女は地面に足が着くと、興奮が冷めやらぬまま再び彼女に抱き付く。

その拍子に――


 ぐう。


 小さく、しかし誤魔化せない音が鳴った。

それをしっかりと聞いた幼女は目を丸くして、彼女を見上げる。


「お腹すいてるの?」


 否定する意味もなく、彼女は肩をすくめた。

すると幼女は、凄い事を思い付いたと言わんばかりに笑う。


「じゃあ、汀のおうちに、おいでよ!」


 あまりにも無邪気な誘いに、言葉を失った。

夕暮れの水鏡で、河の流れる音だけが、静かに耳に響いた。

彼女は、その場に屈んで幼い瞳に目線を合わせる。


「……駄目だよ。世の中には、悪い人と、怖い人がいっぱい居るんだよ」

「ふぅん……?」


 正しいからいい人なのではない。悪いから優しくないのでも、ない。

そんな事は、彼女自身が一番よく知っていた。

だって、ずっと正しくあろうとしていた。守ろうとしていたから。

それでも、救えないものがある。それだけでは、届かないものが、あった。だから、選ばれなかったのだろう。

――こんな話、こんな幼い子供にしても、どうにもならないけれど。

彼女は、喉の奥で絡まったままの言葉ごと、口を噤んだ。


「でも、おねーちゃん格好いいもん!」


 残酷な程に無邪気な、屈託のない笑顔が花開く。

子供の理屈は無茶苦茶だ。彼女の口許が揺む。

幼い頭を、そっと撫でた。温もりは一瞬で、指先からするりと抜けていった。彼女はそれ以上は触れないまま、辺りを見回した。

向こうから、同じ面差しの少女が駆けてくる。そのさらに後ろで、乳母が息を切らしながら声を張り上げていた。

二人の少女が合流し、自然と手を取り合う。

その仕草があまりにも当たり前で、あまりにも眩しくて、彼女は一瞬だけ目を細めた。

彼女は、もうそこには戻れない。

でもせめて、あの幼い姉妹が彼女と同じ場所に辿り着かないように。

自分が手を伸ばす資格を持たないとしても、目を背ける理由にはならないのだから。


 ——もう少しだけ。

もう少しだけ、生きなければ。

そう思わせてくれた小さな綺羅星に、少しでも何かを返せるだろうか。

そんな想いで、彼女は手の中の棍を、軽く確かめるように回した。

棍が風を切る。

幼い姉妹の視線が、再び彼女に向けられた。

それは見せる為ではない。

ましてや教える為でも、誇る為でもない。ただ、まだ自分が此処に居ることを、確かめるように。

くるくると回る棍を片手で受け止めると、背へ流し、肩を越えて再び掌に戻る。

目は棍を追わない。次にそこへ来ると知っている。

身体は動かさない。棍は彼女の一部で、当たらないと分かっているから。


 手元に戻った棍の石突きが地面を滑る。滑ったその先で、石突きを地面に叩き付けた。

その勢いで、今度は彼女自身が宙に舞い上がる。身体を捻り、くるり、くるりと白い髪が尾を引いて、高く舞い上がった彼女は、棍を舞わせながら引き寄せる。

その軌道は滝の流れのように激しく、流れるままに彼女は華麗に着地した。

河が流れるように、再び棍が回る。

今度は後ろ向きに飛び上がった彼女が、背を反らして弧を描く。

その身体が落ちていくのを、棍で地面を叩けば再び宙に浮かび上がる。

不思議と彼女は、宙に浮かんだ――そう錯覚するような一瞬の停止は、棍が地面を叩く音で動きだす。

身体が再び回りながら流れ始め、最後には棍を脇に挟み、幼い姉妹の前に、跪くように着地した。

その姿はまるで、何かを差し出すようだ。


 時間でいえばほんの僅かな舞踏に、少女達は口を開けて見入っていたようだ。

彼女の白い髪が完全に肩に落ちると、妹は満開の笑顔を浮かべ、しっかりした姉も、目を輝かせた。


「すごい……」


 先に声にしたのは、少し意外だが姉だった。

妹は姉に得意気な顔を向けて激しく頷くと、その場にとび跳ねながら凄い凄いと連呼する。

彼女は、笑っていた。薄く息を整えて言葉を選ぶ。


世路如長河

抗之不可回

至親終有別

同舟亦分歸


願汝常安健

無逢此悲時

胸中有明月

長照未來枝


 祈るように、彼女の口から幼い二人に贈られたものは、まだ二人には届かない。分かる頃には、きっと忘れ去られているだろう。

せめて、彼女達の周りで悲しい事が起こらないように、彼女には出来る事がある。その為に、歩まされた道がまだ目の前に広がっている。

顔を上げた彼女に、白いおねーちゃん、と舌足らずな声が掛かる。


「汀も、沢山お勉強したら、おねーちゃんみたいになれる?」


 子供の夢に、彼女は成ろうとしていた。それを物語る瞳に、頷いて見せる。

破顔した妹と、少しだけ俯いた姉の二人の頭をもう一度撫でる。


 そして、立ち上がろうとした彼女は――


「おねーちゃん!」


 一瞬、視界の端が白く滲んだ。風の音が、ひどく遠い。

限界を迎えたのだと察した。彼女の身体は、そのまま前に倒れ込んだ。

いきなり倒れた彼女を見て、妹が泣き出してしまう。

乳母も狼狽える中、姉の幼い声が「お父様を呼んで」と鋭く響く。


「大丈夫、大丈夫よ、汀……お姉さんは、生きてる」

「うぅっ……ほん、ほんと……っ?」

「大丈夫」


 遠くで、そんな震える幼い声と舌足らずな会話が聞こえる。さぞ驚かせてしまった事だろう。幼い子供には、きっと怖いはずだ。早く起き上がらなくては。

そう思い、起き上がろうと彼女は腕や足に力を込めようとするが、力が入らない。手が痺れて開くことさえ出来ず、固まっているみたいだ。

これでは守ろうとした存在に、守られいる。そんな事ばかりだ。そんな感傷が頭を過る。

不意に、姉と視線がぶつかった。ゆっくりと瞬きをすると、今にも泣き出しそうな顔で、けれど唇を噛み締めた。そして近くを通る大人に向けて、声を上げたのだ。

水や医者といった、彼女に必要だろうものを分けてもらえないか、診てはもらえないか、と。

なんて勇ましいのだろう。こんな見ず知らずの他人なんて、放っておけば良いものを。自分だって震えているのに、妹を宥め、そんなに声を張り上げて。


 幼い声に触発されたように、人々が彼女の周りに集まりだした。

暫くすると、彼女の細い身体が抱き起こされる。何事か問われているようだが、耳鳴りが酷くて聞こえない。

ただ彼女が瞬きをすると、ゆっくりと口に水が流し込まれた。そういえば、水を飲むのはいつ振りだろう。

人影が多く感じる。人の気配も読めず、本当は此処に何人居るのか分からないが、ひときわ大きな影が彼女に掛かった。

全てが反響して聞こえる中で、再び幼い泣き声が聞こえた気がする。遠慮がなくなった泣き声は、安堵して甘えているみたいだ。

いよいよ身体が浮く感覚に、それが現実かどうかもよく分からない。

もう、抗う理由が見当たらなかった。


(ちょう)、汀。大丈夫だよ。帰ろう。……貴女もな……羅雨昕」


 大男の声が幼い姉妹を宥める頃、彼女の意識は既に途絶えていた。


なんでもない日だけどプリンタルトを食べた。

昔作ったプリンケーキが食べたくなった。また作ろうかな。

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