母と子(5)
ファラがそう口にした瞬間、殿下はファラを強く抱きしめられました。
その目には大粒の涙が今にも零れ落ちそうな程に溜まり、殿下の瞳を潤していました。
「ずっと……ずっとこうしたかった。」
ファラを抱きしめる殿下のお姿は、何処からどう見ても紛うことなき母親のそれでした。
「殿下がファラのお母さま……。で、でも、ファラのお母さまって確かファラが幼い頃に亡くなったんじゃ……。」
抱擁を解かれると、ファラは自身の記憶を整理しながら辿った。
〝 母さんはずっとずっと上でお前をいつも見守っている――。 〟
小さい時、寝付く際に父さんが毎回必ず言ってくれていたあの言葉。
「そうか……そうだったのか。何で今まで気づかなかったんだろう。俺はもっと父さんの言葉をそのまま受け取るべきだったんだ。」
ファラは懐かしむように、でも悲しそうな表情で小さく呟きました。
「ファラ?」
「ユナウ、前に俺が母さんの事を話したの、覚えてるよな?」
「う、うん。ファラが物心つく前に他界されたって、お父さまから聞いたんだったよね。星になって空から見守っているんだって。」
「ああ、そうだ。でも、実際に父さんは母さんが星になったとは言ってなかった。父さんの言葉から俺が勝手にそう解釈していただけなんだ。父さんは上界に詳しかったし、見た事は無くても空に星というものが浮かんでる、死んだ人に対してそう言った比喩を使うっていうのは知識として知ってたから、何も疑問に思わなかった。でも、違ったんだ。父さんが〝ずっとずっと上〟って言い方をしたのは、上界に母さんがいたからだったんだ。」
そこまで話すとファラは再びナスタシア殿下の方へ向き直りました。
「ファラ、本当によくぞここまで辿り着いてくれました。貴方が自力でここまで来てくれなければ、私はディアンヌ様達先代方の遺志を無駄にしてしまうところでした。」
「無駄?それはどういう……?」
ファラが問いかけたところで殿下は目を瞑られました。
暫しの沈黙が場を包み込んだ後、殿下ご自身がその沈黙を破られました。
「貴方の父であり、私の兄で夫でもあったヴォダ=レクロリクス――彼が死んでしまったのは私の所為なのです。」
「えっ――!?主教様の話では前王妃殿下との密会が見つかって下界落ちさせられたって。」
ここまでの話はあまりに衝撃的でしたから、もうこれ以上は何を言われても驚かないと思っていましたが、殿下の物憂げな表情に身構えていたにもかかわらず声を上げてしまいました。
「それは少し違います。密会していたのはその通りですが、その相手は母ではなく私だったのです。」
「ナスタシア殿下が?」
「はい。あれは今から十九年ほど前のことです。私は先代に倣い、母と前元老院長の手を借りて下界にいたヴォダを【影大使】として秘密裏に上界へ招きました。そこで初めて私とあの人は出会ったのです。」
もう会えない夫に思いを馳せる殿下のそのお姿は悲しくも魅力的で、その口から発せられる優しいお声に私は胸が熱くなるのを感じました。
「互いの宿命を理解していた私達は、互いのことを知るよりも先にその使命を全うしました。私は避妊薬の投与を止め、ヴォダと行為に及び、そして身籠ったのです。」
「みごっ――!?」
この時ばかりは自分のことを恥じました。
これまでの話からすれば筋の通った至って真面目な話です。
それなのに、どうしてそんな想像をしてしまったのでしょう。
「顔赤いけど大丈夫か?」
「えっ――!?あ、うん!全然大丈夫!」
思わずまじまじと見つめてしまっていたのがバレたようで、ファラに声をかけられた途端私は反射的に目を背けてしまいました。
「しかし、母と元老院長のお蔭で時間と場所を確保出来ているとはいえ、怪しまれることなくあの人を匿うのは精々三日が限度。妊娠した事実を知るよりも前にあの人は下界へと帰還しました。結びの階段で上界と下界を行き来するには片道でも約一年は掛かります。次に私があの人と会ったのはそれから二年後のことでした。」
「片道で一年ってことは往復で二年……。そうか、だから父さんは二年おきにしか帰って来なかったのか。」
殿下の話でファラは納得したように頷いていました。
ファラのお父さまは行商へと出かけられ、帰ってきても数日滞在するとまた行商に出かけられていた。
それが二年周期だったと、確か前に湖でファラはそう話していました。
今にして思えば、ファラのお父さまは行商ではなく、実際は結びの階段を登って上界にいる殿下へと会いに行っていた。
ゴールがあるのは分かっているとはいえ一年も掛けてひたすら階段を上り下りし続けるというのは、肉体的にも精神的も想像を絶するほどきついはず。
それを心折れず何度も繰り返したファラのお父さまには、それだけで尊敬の念を抱いてしまいます。
「二度目に会った時、私は既にファラを出産していました。その時あの人が一番に掛けてくれた言葉。それを聞いた時に私はあの人の心の深さを知り、そして惹かれました。」
「言葉……ファラのお父さまは何と?」
「ただ一言、『ありがとう』と――。」
殿下は胸に手を当てて微笑んでおられました。
それはありきたりなお礼の言葉。
挨拶のように日常的に使う普通の言葉。
それでも、宿命だからとお礼を言われるまでもなくそれが当たり前だと思っていた殿下にとっては、ファラのお父さまの純粋な感謝の言葉は他のどんな言葉にも代えがたいほど心に響いたことでしょう。
「そうしてあの人と話し、その心に触れて、私は益々彼に惹かれていきました。気づけば話していただけで時間は過ぎ、私はあの人にファラを託し、彼を見送りました。それからはあの人に会えるのが待ち遠しかった。彼と居られるのはたった三日だけ。それでも私にとってはあの人との時間が生きがいでした。」
殿下のお話――そのお気持ちは痛いほど共感できました。
ファラを見つけて、彼を助けて、彼が意識を取り戻して初めて会話した時、私はファラのことをもっと知りたいと思いました。
ファラの元を訪れる度にその気持ちはだんだんと強くなっていって、三日おきにしかファラの元へ行けないことがとてももどかしかった。
私は三日でしたが、殿下はそれを二年も待っていた。
そのお気持ちは私のものよりも何倍も強かったことでしょう。
「ですが八年前のあの日、私は自らの身勝手の為に重大なミスを犯してしまったのです。」
「重大なミス?」
殿下は先程自分の人生には後悔はないと仰っていましたが、その表情は何より苦しそうで、見ている私達も胸がキュッとなる思いでした。
「八年前のあの日――いつものようにあの人との別れの時が来ると、私は名残惜しさの余り刻限を過ぎてもあの人を引き留めてしまいました。彼からも、母からも、もう戻らなければならないと言われていたにもかかわらず、私は自らの我が儘でそれを拒んだのです。その所為であの人は見つかってしまった。」
殿下は目の周りを赤く染め、その唇は震えておられました。
好きになった人ほど手を離してはいけない――。
それはお母さまの教えで、それがあったから私はファラを失わずに済みました。
けれど、殿下は離さなかったばかりに愛した人を失ってしまった。
それはさぞお辛いことと思います。
全てにおいて完璧な答えは存在しない。
都合の良い答えなんてないことくらい理解しています。
ですが、それでもお母さまの教えで救われた私にとっては、殿下も救われて欲しかったと思わずにはいられませんでした。
「エリメラの前任者であったフレイヤ前主教に見つかった私達は直ぐに逃げました。しかし、あの森へ追い込まれ、最終的にあの人はレクロリクスの血が生きている事実をロースハイムの者達に知られぬ為に、自らの意志であの穴に落ちたのです。」
「そんな……。」
「父さんが……。」
ファラのお父さまは屈服して下界落ちに遭ったのではなく、未来のために自らの意志で死を選んだ――。
その胆力には最早頭が上がりません。
出来ることなら生きてお会いしてみたかったです。
きっとファラのように穏やかな心の持ち主だったのだろうと思います。
「その……失礼ながら殿下は何故ご無事だったのですか?」
クリスちゃんは控えめな姿勢で殿下に恐る恐る問いかけました。
「当時、私と母は酷似したドレスを着ていました。そして、辛うじて私の顔はフレイヤ主教には見られていなかったのです。そのため私と母の二人共が容疑者となり、母は私を守るために自ら嘘をついて名乗り出たのです。」
「レビィア殿下が……。」
「しかし、悪夢はそれだけに収まりませんでした。狡猾な前主教はヴォダが何者だったのかを聞き出すために母を拷問したのです。」
「拷問!?王妃殿下相手にそんなことが許されたんですか!?」
私達の驚き顔に殿下は最早見慣れた様子で顔色一つ変えずただ首を横に振りました。
「もちろん普通なら許されません。しかし、前主教はレクロリクスが関係している可能性を薄っすらとですが感づいていました。その事を前ロースハイム王に助言すると、王は忽ち拷問の許しを出したのです。」
「仮にも奥さんなのに……。」
ジークリフト陛下の物言いを思い返せば、そのお父さまで在らせられる前国王陛下の態度も頷けます。
ですが、やっぱりどうしても納得できません。
ナスタシア殿下のお母さまであるレビィア殿下もまた実際はレクロリクス王家の血を継ぐ人ではありましたが、ロースハイム王家はそれを知らなかったはず。
ロースハイム王家は破綻していたとはいえ純血思想を持っていました。
であれば、殿下達のことを身内と認識していたはずです。
血統を守るために嫌々結婚していたとしても、身内に粗末な扱いをすることに心を痛めなかったのでしょうか。
さっきからそんな事ばかりが頭から離れません。
「ロースハイム家の者達もまた先代達からの野望に支配され、いつしか人の心を失ってしまったのでしょう。」
人の想いが何十年、何百年と受け継がれていくというのは素晴らしいことだと思います。
ですが、強過ぎる想いは時として人の心を縛りつけ盲目にしてしまうのだと、レクロリクスとロースハイム両王家の歴史からこの時私は学びました。
「前王妃はそれで殺されたのか。」
「ええ。拷問を受けても母は自分の主張を曲げませんでした。そして、夫であった王自らの手によってその首を斬り落とされたのです。」
「もっと別の方法もあったでしょうに、酷な方法を選びますね。」
口を挟むガイラさん――。
口調は落ち着いていても、その表情から内心は怒っているのだと分かります。
「でも、その前主教はどうやってレクロリクスの関与に確信を持ったんだ?国王や母さんを刺した現主教も、父さんがレクロリクスの血を継ぐ人間だと知っていたし。父さんはそれを知られない為に自らの身を犠牲にしたんだろ?」
「それは……。」
ファラの問いに殿下は一瞬口を引っ込めて躊躇われましたが、直ぐに意を決したように口を開かれました。
「それもまた私の所為なのです。」
「母さんの?」
「先程も話したように、母は拷問を受けても自分だったと言い張りました。しかし、前主教は何か他に確信があったのでしょう。口を割らなければ目の前で私を殺すと母を脅したのです。」
「ゲス野郎かよ。」
その答えに、ファラは憎悪にも似た嫌悪感を露わにしました。
「母は私と先代の遺志を守るために、ヴォダの素性だけを話したのです。」
「そっか。それであいつらは父さんのことを知っていたのか。」
「私はあの人の死を無駄にしてしまった。自分自身の人生に後悔はなくとも、あの人の人生を奪ってしまったことだけは、今でも悔やんでも悔やみ切れません。」
「殿下……。」
自分の好きな人が自分の行いによって死んでしまったら、誰だって後悔します。
私だったら自分が許せず、一生自分を攻め続けてしまうかもしれない。
そう思ったら、殿下に掛ける言葉が浮かびませんでした。
「それは違うよ、母さん。」
皆が俯く中、ファラだけが顔を上げて殿下を見つめていました。
「父さんの死は無駄になんかなってない。」
「ファラ……ありがとう。ですが、気休めには及びません。」
「気休め何かじゃない。」
ファラの言葉に、殿下は潤んだその瞳でファラを見つめていました。
「母さんも知ってるだろ。父さんは誰よりも思慮深い人だった。そんな父さんが無駄になるような死に方なんてしないさ。」
そこでファラは再びあの手帳を取り出すと、それを見つめながら微笑みました。
「父さんはこの手記を残してた。さっきも少し言ったけど、これには母さんが今話してくれたことの要旨が大雑把に書かれてる。文量からして書いたのは死ぬよりもずっと前だ。たぶん父さんは自分がいつ死んでもおかしくないと分かっていたからこれを書いて、肌身離さず持っていたんだ。」
「確かにその手帳は私も何度か見た覚えがありますね。」
「母さんは同血の洞穴に追い詰められたって言ってたけど、俺が思うに父さんは自分から洞穴に向かったんだと思う。」
「自分から……?」
「ここで捕まったら先代の遺志がバレてすべてが無駄になる――母さんの言った通り確かにそれもあると思う。けど、父さんは俺にこの手帳を託すためにあの穴に落ちたんだって、俺はそう思う。」
「確かに、あの人ならあり得るかもしれません……。」
「それに、俺を産んでから二人目はまだ身籠ってなかったんだろ?子供を産むには体力もいるし、何より女の子を産まなきゃそもそも破綻するんだ。母さんに掛かる重圧は計り知れなかったと思う。それを少しでも緩和するために、父さんは俺が自力で上界を目指すよう仕向けようとしたんじゃないかな。俺はその頃まだレクロリクスの歴史を父さんからちゃんとは聞かされていなかったし。」
話すファラの手をよく見ると震えていました。
それは恐らく根拠はないから。
ファラが今話しているのはあくまで可能性。
そうあって欲しいと思う気持ちから生まれた仮説なのでしょう。
でも、私もファラの言う通りであって欲しいと心から思います。
「ヴォダ……。」
殿下は私達から顔を反らしました。
そのすすり声から、私達に見られないように泣いていらっしゃるようでした。
「父さんはきっと自分が死んだ時に、その事で母さんや俺が自分を攻めないよう何重にも保険を掛けていたんだと思う。父さんがそうしてくれたからこそ俺は今ここにいて、真実に辿り着いて、そして母さんと会えた。だから、父さんの死は無駄になんかなってないよ。」
その言葉を聞いたと同時に、殿下はファラを抱きしめられました。
「ありがとう……本当にありがとう、ファラ。」
「俺の方こそありがとう。母さんが生きていてくれて良かった。俺にもまだ家族がいてくれたんだって、安心したよ。ありがとう。」
ファラは上界で産まれて直ぐに下界へと連れられた。
物心つく前の話ですから当然お母さまの記憶はありません。
殿下もファラを産んですぐに離れ離れになってしまって、愛情を注ぐことが出来ていなかった。
母と子の無上の愛――注ぐはずだった、注がれるはずだった愛情を、今この二人は一心に送り、受け取っている。
それはこれまでのことで夫婦や親子、家族の在り方に不信感を抱いていた私の心のモヤモヤを一瞬にして晴らしてくれました。
これこそが本来のあるべき形だと私は思います。
「さて、これで全ての答え合わせが済みました。そろそろ戻りましょう。リべルド達も待っているはずです。」
「そうしましょう。私、もうへとへと。取りあえず早くシャワーを浴びたいわ。」
「そうだね。」
「私も父上に母上のことを早くお伝えしなければ。マルクスのことも。」
「俺も下界の皆に会いたいな。」
もちろん他にも思うことはありました。
でもそれは一度に飲み込めることではありませんから、今は置いておくことにします。
「ロースハイム王家が崩れた今、今回の件で王制そのものに疑問を抱く者も少なくないでしょう。まだもう少し時間は掛かるでしょうが、真の意味でレクロリクスの遺志が果たされる日もそう遠い未来のことではないでしょう。」
「そうだな。少なくともこれからは上界と下界で手を取り合っていけるはずだ。」
「そうなるように手配するのは私の役目ですね。そうと決まれば――」
殿下のお言葉と共に、私達は希望に満ちた笑みを浮かべながら石室を後にしました。
こうして千年の時を経て、ようやく二つの王家の因縁は決着を迎えたのです――。




