8.行旅死亡人になる
知美が住んでいるという町は、周囲を柵で囲まれていたので、入口で名前を書いて、中に入る。
知美はさらさらと自分の名前を書いて、俺にペンを渡してきた。
「さ、お姉ちゃんも書いて」
笑顔でそんなこと言われても、知美のお姉ちゃんの名前なんか、俺は知らない。
名簿をじっとみて固まっていると、人間の体でイノシシの顔、そして全身に体毛が生えた、身長が3メートル以上ある門番にじろりとにらまれて、俺はたじろいた。
背中には投擲に適した槍、腰にはサーベルをぶら下げている。おまけに顔には牙も生えている。
これって、よくゲームで出てきた、オークって生物かな。こんな生き物がいるなんて、日本はどうなってしまったんだ。
ペンを持つ手が震える。
迷ったあげくに、俺は「マリ」と記載した。
これでいいよね、と伺うように知美を見る。
「…マリ姉ちゃん、行こう」
知美につられるようにして、仏頂面のオークの真横をすりぬけて、村に入っていった。
「あのイノシシの化け物は、なんなんだ? 着ぐるみか? とてもリアルだったけど」
胸がドキドキして、俺は思わず素がでてしまった。
「あれは、神の使いだよ。住人が逃げ出さないように、監視するのが役目。でも、町の外のモンスターから、村人を守ってくれてるんだ」
知美がさらりと言ったモンスターという言葉が気になった。
「モンスターってなに? 熊とか野犬とかが襲ってくるの」
「そうだねえ、このあたりは、ジャイアントラットに食い殺される被害が多いかな」
ジャイアントラット、食い殺される、その2つの情報は、俺に巨大で狂暴なネズミを想像させる。
そんな生物たちが繁殖し始めたことも、文明社会が荒廃した一因かもしれない。
知美の話だと、この辺りはまだ安全な方で、他所では、もっと危険な生物もうじゃうじゃいるということだった。
「なら、廃墟に一人で出かけたりして、危なかったんじゃないのか」
「ジャイアントラットはおとなしいの。こちらから危害を加えたり、巣に近づいたりしなければ、まず大丈夫」
自信あり気に答える知美が、頼もしく見える。
「ちょっと、どうしたの?」
知美は俺をじろりと見た。
俺は怖くなって、思わず知美の背中にしがみついたのだった。
町外れの一軒家のドアを開けて、知美は叫んだ。
「ただいま! ねえ、お母さん…」
知美の言葉をさえぎって、かっぽう着姿の女性が言い返した。どうやら、知美のお母さんのようだ。
「こんなに遅くまで! どれだけ心配してたかわかってるの!」
「だいじょうぶだよ、いつものところに行ってたたけだから、それよりも、お姉ちゃんが生きてたんだよ!」
知美の言葉に、母親は初めて、俺に気づいたようにこちらを見た。二人のやり取りを玄関の外で見ていた俺は、視線を感じて、かすかに会釈した。
母親はため息をついた。
「また人に迷惑をかけて…。知美は一人っ子で、もとから、お姉ちゃんなんていないでしょうに」
と、知美をたしなめると、申し訳ないといった感じで、俺を見て、
「本当にすみません。この子、なぜだかずっとお姉さんを欲しがってて、目に入った自分より年上で気に入った女性をこうして家まで連れてきちゃうんです。たいていは、相手に怒られたり、あきれられたりして、家までは連れてこれないんですけど…、あなたは優しいですね。この子の遊びに付き合ってくれて、ありがとうございました」
母親は俺に向かって丁寧にお辞儀した。つまり、もう出て行ってください、ということだ。
でも、俺はこの世界で、帰るべき場所を知らない。
知美の言ったことが事実なら、俺の家族も、知り合いも、だれひとりとして生きていないのだから。
思わず知美を見るが、後ろ姿を見せたまま、振り返ろうとしない。すねているのだろうか。
しかし、これ以上、迷惑をかけるわけにもいかない。
「失礼します」
俺は軽く頭をさげて、小さくつぶやいた。
それから、俺は行くあてもなく、町の中をふらついた。夜に町の外へ出るのは怖いので止めておいた。
すれ違う人たちは、高校の制服を着た俺を、いぶかしそうにチラリとみる。町の人たちは、中世ヨーロッパのような地味な服装を着ていたので、俺の服は余計に周囲から浮いて見えた。
そして、お腹が猛烈に空いていることに気が付いた。
直ちにエネルギーを補充しなさい、ということだろう。
スリープ状態だったとはいえ、300年も眠っていたのだから、エネルギーを使い果たしたのだろう。
いや、むしろよく300年も維持できたものだ。
マリからもらったこの体に感心している暇はない。
空腹のせいか、次第に頭がぼんやりとして、視界も歪んでぼやけていく。
町中には、赤ちょうちんを下げた居酒屋もあったし、ラーメンのいい匂いも漂っているが、お金がない。
臆病者の俺に、食い逃げという発想が浮かぶことはなかった。
この世界では、食い逃げ=即死刑かもしれないのだから。あの偉そうなオークに八つ裂きにされるのだろうか。
「うう…、お金さえあれば…」
制服のあちこちをまさぐってみたけれど、生徒手帳とピンクのハンカチが出てきただけで、お金はどこにも入っていない。
たとえお金があったとしても、それは俺の時代の通貨である。300年後の世界で、通用するとは思えない。
俺は力尽きて、地面に手をつき、四つん這いになった。そして、体を支えられなくなり、地面に倒れこんだ。
電池が切れる寸前のスマートフォンは、こんな気持ちなのかな、と考えているうちに、俺の意識はシャットダウンした。
(続く)
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なお、行旅死亡人とは、
日本において、本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指す言葉で、行き倒れている人の身分を表す法律上の呼称でもある。「行旅」とあるが、その定義から必ずしも旅行中の死者であるとは限らない。(出典:Wikipediaより)




