揺らめく光と、揺れる気持ち
「不思議な歌だね。深くて柔らかくて……。意味は分からないけど、素敵な歌だと思う」
「あの歌は、私たちの世界でずっと受け継がれてきた海の歓喜の歌で、生命の尊さを讃えている歌なの。みんな、あの歌を聴いて育つのよ」
そのとき森の奥から、しゃがれた声がミナトを呼んでいるのが聞こえてきた。
「じーちゃんだ。そろそろ帰らなきゃ。ミウ、オレは三日後にこの島を立つ。来年も必ず来るから……」
「うん、あたし待ってる。……それじゃ」
「さよなら」は言いたくない、そう思った。けれどあたしたちは小さな声で、その言葉を告げあって、それぞれの帰るべき方向に体を向けた。
灯台の灯りに背中を押されながら、ゆっくりと沖へ向かって泳ぐ。
胸の中に嵐がやってきたようだった。まるで重たい風が吹き荒れているように感じた。
……やっと話せたのに、ミナトがいなくなってしまうなんて……!
あたしのすぐ側で波が弾けて、顔にかかって口に入った。それはいつもの波よりも、ずっと苦く感じた。
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「ミーウ……?」
それからというもの、あたしは何をするにも集中出来ず、心にもやもやした気持ちを抱えて過ごしていた。
「ライラ姉さま……」
「どうしたの? 落ち込んでるじゃない。何かあったなら話してごらん。もちろん力になれるとは限らないけど、心は軽くなると思う。ね? ミウの話を聞かせて?」
ありがとう、ライラ姉さま。
あたしが生まれたとき、一番喜んでくれたのはライラ姉さまだったと聞いている。それからというもの、ライラ姉さまはいつも優しい。
あたしは思いきって、ミナトの話をした。
「そう、そんなことがあったんだね……」
暫く沈黙が訪れる。
「で、ミウは? どうしたい?」
「……分からない。ミナトが遠くへ行ってしまうって聞いて、もっとお喋りをしてみたかったって思った。あの笑顔を思い浮かべると、嬉しいような、ちょっと恥ずかしいような気持ちになるの……」
ああ、そうか。言葉にするとはっきりと分かる。あたしは、ミナトの笑顔が眩しかったんだ。まるで波の中から見上げる、太陽のように。
「でもね、やっぱりあたしはこの海が好きで、いつまでもこの波に揺られていたいとも思ってるの」
これも本当のこと。やわらかな波に揺られていると、"あたし"という人物が溶け出して、海と一体化していくみたい。こうして海の一部になって、何も考えずにいつまでも漂っていられたらいいのに……。
「そう……」
海の底にいるあたし達の上を、魚群が通った。太陽の光が遮られ、影が揺らめいた。
「……あのね、人間に恋をした人魚は、伝説の人魚だけじゃないんだよ」
ライラ姉さまはあたしが座っている岩礁の隣に、腰を下ろしながら話をした。
「そうなの?」
あたしはびっくりして、ライラ姉さまの顔を見上げる。
「そうだよ。こういう話って、積極的に話さないから、ミウが知らないのは当然だけど」
ライラ姉さまは尾ひれを優しく動かして、寄ってきたグッピーの稚魚たちに波を送り、遊ばせながら答えた。
「それでね、伝説の人魚の話に出てくる魔女がいたでしょ? あの魔女の魔法を研究してる人魚もいるんだよ」
きっと、あたしは間抜けな顔をしているに違いない。だって驚きすぎて、言葉も出ないんだもの。
「人間の男を好きになった人魚の為に、いろいろと調べている人魚たちがいるんだよ。もしミウが、その男の子のことをどうしても諦められないのなら、その人魚たちを紹介してもいい。だからミウ、もう一度自分の気持ちを考えてごらん? 素直な気持ちになって、心の深いところの声を聞いてごらん……」
それだけ言うとライラ姉さまは、「じゃあね」と去って行った。あたしは姉さまの、翻って広がった尾ひれをぼうっとしたまま見送った。
一人残されて、ライラ姉さまの話を反芻する。
……人間になる方法がある。それを研究している人魚たちがいる。
あたしは、伝説の人魚姫の話を丸々信じていた訳じゃなかった。そのことに今更気づいた。
……ううん、人魚が人間に恋をした、という部分は信じているのだけれど、人魚が人間になれるなんて、そんなことは到底ありえないと心のどこかで思っていた。
人間になってミナトのところへ行く。そう考えるだけで、胸の中の小さなアコヤガイが開いて、その奥のパールがそっと光ったようだった。
……けれどそれは、人魚の世界との別れを意味する。生まれ育ってきたこの海の底の、美しくて温かな世界との断絶。きっと二度と戻ってくることは出来ない。永遠に……。
「決められるわけないじゃない。そんなこと……!」
まるであたしの前に、激しい水流が二つあるみたいだ。あたしは、どちらを進めばいいの。どうしたら良いんだろう……。