40話:エンド・オブ・ザ・レイン
翼が濡れる。
湿った空気を吸って、水蒸気の涙を流す。
空を、それも雲の下を飛ぶ意味。二度と空を見上げなくて良いように。
どれだけ高く上がっても手から零れ落ちる青空に蓋をした。自分は飛べていなかったのか?そうかもしれない。
今、遥か高い空から降りてくるのがいる。飛べなかった世界から。連れて行ってくれるだろうか。いや、行くとしたらそこはもう天国なのだろう。
白く灰色が混じる世界を一直線に上昇した。
エミリア大尉は離陸して脚を畳んでから、ロケットのように舞い上がった。機体そのものに対するブランクはあるとは思えない。背中がシートに張り付いて離れない。レイは身体を強張らせる。
古めかしい数字と針の計器と不釣り合いに設置された最新のレーダースクリーンには、既に3機の戦闘機をとらえている。いるとすれば、恐らく雲の中だろう。
来た。レーダーブリップの距離計が急速に縮まる。大尉は見えているのだろうか。
機体がふわりと上に跳ねあがる。弧を描くバレルロール。機関砲がきらりと輝く。回避したのだ。間髪入れずに急激なピッチアップ。瞬間、視界が上を向く。バレルロールで失った速度そのままに機体が減速して行くのを感じる。ストール・ターン。
振り子のように身体が水平に戻った。轟音。別の戦闘機が上方を通過した。敵機だ。操縦桿を握る手が動く。思わずガントリガーまで引く。
辺りは白灰に包まれているのに、真っ直ぐ飛んでいる。どちらが上でどちらが下なのかそんなことはどうでも良いかのように、大尉は突き進んで飛んでいた。
機体が揺れる。機関砲を放ったのだ。前方の世界に赤色が灯される。わずかな視界から敵機が火を噴いて急激に降下していくのが分かる。
「大尉、回避!」
「分かってる!」
右上方から急襲。残りは2機。右以外のは上から見ているつもりか。そうか、あいつか。
機体が再び上に持ちあがる。ピッチアップ。相変わらず白灰の世界には変わらない。目では一切変わらない世界が、計器では数字で変化を伝えてくる。僕らは確かに上昇している。
レーダー上で敵機とこちらが衝突コース。互いに減速はしない。スロットルを上げる音。
機体が震える。機関砲を撃った。向こうが撃ったかは分からない。すれ違ったらしい。大尉は上昇をやめない。灰色が抜けて白味がかっていく、トンネルの出口。
晴れた。
視界。
雲と別れを告げた空。
高度8000フィート。白い壁は彼方に。
青空と眩い太陽。世界本来の色彩。浮遊感。飛ぶと言う感覚。思わず細める眼。
視界が反転する。機体はループに。天地は逆さ。機首が下を向く。ダイブ。墜ちて行く、再びあの世界へ。彼は絶対に上がってこない。あの空は眩しすぎるだろう。
レーダーにはまだ2機。動いた。突っ込んでくる。回避機動。機体を180度ローリング、そのまま操縦桿を引いて降下。速度を稼いで再び上昇。
敵機が下に見える。大尉も捉えた。二機ともいる。雲を抜けた。今度は地上に近い世界。色彩を失った、高度1000フィート。雨だけが存在している。キャノピーを亜音速で濡らす。
二機がそれぞれ時計、反時計で旋回を始めた。2対1ならば、最も確実に敵を墜とす戦法だ。僕らはどちらか選ばなければならない。戦闘機にはミサイルを投げる腕はない。
「どちらへ?」
「右に行く」
そうか。翻る機体に合わせてレイも納得した。スクリーンに映る1機の動きが速い。旋回しきったところを、向こうは既に直進してきている。レーダー照射の警告音。イーグルとは違うベクトルのビーという音がヘルメットを通り過ぎていく。
そして、あの戦闘機からは彼女の名前を呼ぶ声がする。
すれ違う。今度は見える。ドラケンを数段鋭利にした現代機、ドラケンII。色は深緑からバンディッツの黒系統に変わっていた。
反転してシザース機動。ローリングが重く細かい切り返しが利かない。敵機が再び背後に。警告音。大尉、と思わず叫ぶ。
弾ける音。機体が揺れる。首を後ろに曲げて目視確認。翼と胴体の境目が無い滑らかなボディに、弾痕。わずかに黒煙が見えて来た。
右急旋回。加速して左に。雲へ逃げる。エミリア大尉の激しい息遣いが聞こえる。機体は上昇。ほぼ垂直に。
「レイ、聞こえる?」
「聞こえていますよ」
息遣いと咳込み。ここまでになるのは見たことがない。全く別の機体で、愛機通りの飛び方をしたのだ。だが、それよりももっと別に原因があるように見えた。
「くそ・・・」
しきりに手のひらを見ている。赤かった。
「大尉!」
「大丈夫、機銃弾を食らったわけじゃないわ」
「どうして言わなかったんですか。隠すことじゃない」
「じゃあ誰があいつを撃墜すの」
「僕がやります。僕に飛ばせてください」
青空に出た。この戦闘機がまだ戦えるという余地は、青空が与えてくれる。
「私のことは気にしないで、好きに飛びなさい。良い?」
水平飛行。真っ直ぐ照り返す機体。黒煙は見えない。
「ユーハブ!」
「アイハブ!」
アイ・ハブ・コントロール。
操縦権の委譲。握った操縦桿に重さが通う。そう、これだ。飛ぶ感覚が蘇る。
上ってこい。青空に別れを告げるなら、撃墜してやってみろ。
1機来た。真っ直ぐ上昇を仕掛けてくる。機体を翻してダイブ。斜めに敵機を捉える。機関砲の軸線にはずれる。トリガーを引く、発砲。敵機が回避して離脱。追撃で旋回、イーグルに比べて重いことは確かだった。だが翼がついてくる。半分を過ぎたところで引き切る。内側に巻き込む機首。
ロック。2発ある内の1発が放たれる。敵機の右翼が派手に吹き飛んだ。離脱。脱出したかどうかは見ない。ダイブ。雲めがけて。
あの時のように語りかけてこない。いや、語られているのかもしれない。けれど今の僕らには届かないまでのこと。敵機を見ろ、雲の中で舞う。あいつの軌跡を。
とうに左右上下の感覚は浮遊感にかき消されている。計器類を見ると自分は逆さま。ローリング。加速。
こんな空で戦うなんて、正気じゃない。だがバンディッツの彼はここに自分の空を見出してしまった。僕にとっての青空は、今まさにここだ。
ロックされた。操縦桿を引いてブレイク。上を向いたようで高度は下がる。雲の中での浮遊感を脚で感じる。引き起こし。上昇旋回、続けてループ。敵機は離れない。
機体がスライドする。機首が斜めに向いている。失速。イーグルのようには飛ばせない。こいつはイーグルじゃない。スロットルをハイに。パワーで無理矢理押し込む。揺れる翼を抑えつつ姿勢を正す。
弾ける音。きっと被弾した。くそ。
「良く見て。敵はどこにいるの?」
左にブレイク。轟音。上を敵機が通り過ぎる。
反転、追える限りなんとか目を使う。翼が途切れ途切れに見えては消える。ようやく分かった。見える意味が。
薄くなるところ。
レイは加速して直線的に突っ込んだ。雲の中でも雲が薄くなるところ、それが読めさえすれば。上に上がらせれば見えてくる。
敵機が上昇。一呼吸おいて大回りに旋回。潜り込むように下降。レーダーでは前方斜め上方。排気煙で雲が灰色く濃い。見えた。僕らはそれほど移動していない。同じところを回り続けている。いつの間にか、煤けて黒くなった雲が僕らを支配してきている。
もう一度直線的に。ドラケンはロケットのように上昇する。単発のエンジンだがパワフルに応える。
撃つ。搭載された2門の機関砲がダダダとリズミカルに発する。
敵機が急降下。撃った感触は、五分五分。ループしてレイも降下する。墜ちるように。雨のように。きっと落ちる雨の気持ちとか感覚は、こんな感じなのだろうな。何も思わず真っ直ぐ落ちたいように落ちて行く。
引き起こし。雲を突き破って地上に。いた。左側、旋回している。僕が今同じことをしても間に合わない。加速する。アフターバーナーに点火。
首を後ろに。小さい点が後方に着く。上昇して雲の側へ。ローリング。雲の淵をなぞる様に翼で切りながら水平に戻して旋回。
アラート。ミサイルが来た。再び加速して上昇、雲の中に入った。気休めの火花を炊く。鳴り止まない。動き続けた。爆発音、衝撃。近接信管が作動したのだ。まだ動ける。確認している暇は無い。ダイブ。
敵機が付いてきた。
雲と地上の境目。軽く水平に戻す。速度はどっちも同じくらい。向こうがやや速いか。雲に逃げるか。それとも旋回に持ち込むべきか。後方占位を変えなくては。いや、一つ出来る気がする。大尉のやっていた、あれを。
速度よし。高度は、失敗したら撃墜される前に終わり。敵機との距離、これだけあれば足りるだろうか。分からない。
スロットルを一瞬絞る。減速、間髪入れずに操縦桿を引く。水平だった機体が上を向く。視界が上を向いて、雲と対面する。風に乗ったかのように、そのままふわりと機体が持ち上がる。雲の中へ。
警告。機体が尻から下がる。失速。ドラケンの持病。レイはそれを覚悟で行っていた。精一杯機首上げ、スロットル・ハイ。失速警告が鳴り止まない。ドリフトするようにスライドして行く機体。
機体が斜めに、エンジンが息を吹き返す。ローリング。水平飛行。わずか数秒の出来事。敵機がオーバーシュートしていく。
加速。敵機は下にいる。僕は雲の中。旋回しているのが見えた。突っ込む。武装選択は機関砲に。撃つ。
奴から僕は見えていない。レーダーを見ても、結局最後は肉眼だ。
機体が交差する。敵機が上昇。付いて行く。明るくなる。晴れてくる。薄くなる。見えた翼の端を、僕は機関砲で撃ち続ける。
雲を突き抜けた。青空と太陽。還る空に。
光さえ吸収しそうな、バンディッツの黒いカラーを纏った翼を散らしながら、ループしているところだった。だが、左の翼はもう半分以上無くなっていた。不規則に乱れる飛行機雲。力尽きたように、旋回が中断されて、墜ちて行く。青空に照らされて、きらきらと、全てがスローに捉えられる。
「なあ。どっちだ?」
ノイズ交じりで声が飛んで来る。レオナードとか言った彼の声だった。
「僕だ」
「そうか。やっぱり、そうか」
上から見ると、雲がいくつもの欠片に分解していくところが見えた。流れているのだ。
「最後に、飛んで見せてくれないか。俺が信じることが出来なかった空を背負うお前の、それを」
降下する。雲の中には既に光が差し込み始めた。光を雲が反射し合って、その光が分解させていくような様。きっと神様がいるなら、手を差し伸べられているに違いない。
雲の下もそうだった。色彩を帯び始めている。ああ、色を取り戻せば、こんなにも地上だって綺麗なのかと思った。
彼がどこにいるかは分からない。けれど飛んだ。真っ直ぐ。少しだけ、アフターバーナーの青白い炎を引いて。
「ああ・・・」
彼はため息をつく。そしてエミリア大尉、と呼びかけた。
「俺は、上手く飛べていましたか」
「ええ」
レーダーを見やる。既に機影はない。無線も、静かにぷつりと切れて、そのままだった。
エンジェル・ラダーを背にして、雨の代わりに振り始めた空の色に身を預けながら、友軍機がやってきたのは、それから少ししてからだった。
―――――――――――――
ぬかるみを歩く。
地面に刺さったパーツ。元々どこに付いていたものかは分からない。でも色は黒かった。
それを、僕の側にいる仲間が拾い上げる。
何に使うのかはどうでも良いことだった。僕らには関係が無い、けど彼女は拾うことに買って出た。僕はそのお付き。風が生暖かった。
「馬鹿ね」
彼女は拾い上げた中でも大きいパーツを、もう一度地面に突き刺した。
雲はもうまだら模様に青空へ解けていた。薄く引き伸ばされたものが、風の通る道に沿って波打つ。
「でも、本当の馬鹿は私。同じ馬鹿でも、貴方とは一緒に飛べないわ。空を見てみなさい。止まない雨は無い。それが全て」
彼女の言っていることは、僕には分からない。かつて共に飛んできた仲間くらいしか知る由が無かった。
「だから私の欠片と一緒に、ここに置いておく。そして時々、この上を飛んであげる」
しゃがんで、ポケットから取り出したものを突き刺した欠片の側に置いた。それが何であるか、僕は敢えて見ないようにした。
上空でジェット音が聞こえる。数はたくさんいるようだ。機種は戦闘機じゃない。
行きましょう。と声かけられた。
「もう良いのですか」
「うん。済んだわ」
「大尉は、向こうへ戻らなくて良いのですか?貴女にはそれができる」
少し空を見上げた後、静かに彼女は微笑んだ。
「だってあの時見せてくれたじゃない。私の空を」
水たまりの空にも、もう雨は上がっていた。
3章:ネバーエンディング・レイン。完




