1話:ブルーバック
天候、晴れ。風弱し。上空はいつも氷点下。
清々しいまでにクリアな上空、1万メートル。
人間の目では眩しすぎる空の輝き。バイザーを上げては、目を細める。
操縦桿を横に倒してみる。ゆっくりと。機体は斜めに、翼と空が垂直に立ち、天地が逆さま、やがて元の位置に戻って来る。大柄な機体とは裏腹に、軽やかに360度ロールする。武装と増槽も積んでいるが、重量感を感じにくい軽さ。地上にいるときはあんなに重いのに、空へ上がって、高度1万メートル上空を飛べば、そんな重さはどこかへ行ってしまう。
余計なものは地上へ置いてくる。それがパイロット。それが飛ぶと言うこと。
空には不純物が無い。人ですら、それは持ち込み禁止。そう、空の戦いは空が起こすのではなく、人が起こすものだ。空が「戦いなさい」と言っているのではない。
そういう考えすらも余計なので、振り払うようにもう一度ロールする。今度は反時計回りに。楽しくなってくる。青い空間に包まれて、僕はこの時だけ自由だ。だからこそ飛び続ける。
「”ブルーバック”、どうした。何かトラブルか?」
友軍機からの声。目で見える距離にはいない。僕のことらしい。
「問題ない。というか、それ止めてくれませんか」
「はは。諦めるんだな、中尉」
飛行は順調。左脚に貼りつけた地図を確認して、だいたいの位置を照らし合わせた。もう十分だろう。
「護衛に感謝する。じゃあな、”ブルーバック”」
レーダーから離れて行く。小さな輸送機小隊。僕の任務は終わりだ。
「ステラー4、任務完了。帰投する」
僕は宣言する。許可も下りた。機体を翻して、ちょっとだけ早く帰ろうと思った。
地上に帰ってきた。
格納庫前で機体を止めて、機体を降りた。身体に纏いつくように吹く風がいつでも涼しいのが、隊の区画の好きなところ。
整備士に、よろしく、と言ってから機体を離れる。僕はそんなに整備に関して注文する方ではないと思う。パイロットとしてはした方が良いのだろうが、彼らは僕よりも愛機のことについて知っている。余計なことは言いたくなかった。もちろん、飛んでみてここが悪い、ここが良かったみたいな体感は伝えている。次飛ぶときは、必ず合わせてあるのだ。僕とイーグルの波長が合うように。
振り返ってトーイングカーで牽引されていく愛機を見つめた。F-15C。鷲の名を持ち、飛ぶのに一切の無駄がない造形に、無垢さを感じたくなってしまう。空の上で戦うことを知らなければ、どんな飛行機でいられただろう。その翼から引かれる飛行機雲は、きっと本当に自由の証かもしれない。
「中尉の機体に塗った青色ってどういう意味なのですか?」
いつの間にか隣に人が立っていた。見ると僕のイーグルに就いている整備士だ。僕と同い年か、いくらか若い印象を受ける。
少し前、僕はイーグルの尾翼を青く塗った。三角形状の垂直尾翼の前縁と頂点をなぞるように、青くしたのだ。普通はこんな塗装、絶対にしない。けど僕は頼み込んでしまった。
「絆だよ」
「絆・・・?でありますか」
あれは前回のオーバーホールの時だ。機体は限界にあった、とレポートには書かれていた。不時着をした時が一番堪えたかもしれない。僕自身確実に終わったと思っていたからだ。不死身の様に蘇っても、完全じゃない。少なくとも2回は、工場から新造機を持ってきた方が早いと言われた。不時着して地面に突き刺さった時と、オーバーホールの時。結局工場に持って行ったから、実質全部新しいことに変わりはない。僕が青く塗ってと言ったのはこの時だった。明後日には戻ると伝えられた後に。
「うん。それは、僕と空とイーグルのこと。お互い切り離せない関係にいる。そして僕らの上にはいつも青空がある。尾翼の色は空の色。繋がりってわけ」
空を見上げた。今日は雲がない。すっきりと吸い込まれそうな青空という壁紙がどこまで貼り付けられている。
「じゃあ、あの色は中尉そのものってことですね」
「そうなると良いね」
「なりますよ。中尉が飛べる限り。ずっと」
しばらくしてから、よろしくね。と言って僕は歩く。
離陸していく戦闘機の編隊を見送る。
彼らはどう思うだろうか。
あの青い色。
穢れを知らない、人の手では永遠に変えることができない色。
手を伸ばしても、その色との間には、1万メートルも離れている。でも1万メートル上ったところで、今度はガラスが隔てる。人間は青色から溶け出した空気という色のない形を吸うことしかできない。
ほら、今もこうやって。コックピットから手を伸ばしているんだ。
なのに。やはり手は届かない。触れることさえできない。空はそこにあるのに、空は逃げないのに。
キャノピーの開閉スイッチに手が伸びる。これさえなければ。自動的にロックがかかるから、絶対に開くことはない。けれど。
キャノピーが吹き飛んだ。飛び込んでくる冷たい空気。これだと言わんばかりに手を伸ばした。戦闘機として、パイロットとして失格だろうが、そんなことはどうでも良かった。空に触れることさえできれば。気分が良かった。
身体が揺れる。次の瞬間、感じた重力と草の香り。空にない感覚が身体を支配した。
身体を起こす。
近くで人影が見えた。クーパー隊長。ファントム乗り。
「隣座っても?」
良いですよ。と返事をして、軽く掃う。
「良いところだよな。基地から離れていないのに、そんなものは全く感じない。ジェットの匂いも、喧騒も、全部流してくれる。お前が知っていたのは意外だったな」
「僕もです。いつもここへ?」
「うん。朝のランニングが終わったらここへ来て、ひと眠りする」
隣で隊長が寝転んだ。大きく息を吸って、この空間を味わっている。
「なあ。レイ」
身体を起こしたまま、返事をする。なんです、と返す。
「青く塗るのを許可できたのは、何故だと思う?」
「分かりません。けれど、嬉しく思っています」
「空は好きか?」
「好きです」
「どんなところが?」
「青くて、広い。それに誰のものでもないような自由さというか、えっと・・・純粋さというか。空以外になにもない。というところが」
「難しいな。じゃあイーグルはどうだ」
「僕にはイーグルだけです。彼と以外は飛べない」
「それほど入れ込めるのなら、機体も本望だろうな。大好きなんだろう?」
僕は頷いた。
沈黙。今声を発しているのは、風と川のせせらぎだけ。空が時間を流す。クジラみたいな雲が、穏やかに身を任せて飛んでいる。
もう一度、レイ。と話しかけられる。
「空を飛ぶのが怖いと思ったことはあるか?」
僕と正反対の言葉が飛び込んで来て、思わず空から目を逸らす。
怖い。そんな言葉を抱いて飛んだことは一度もない。いつだって、空に行けることを至上としてきた。自分がそんな感情を出してしまえば、空が遠ざかる。そう思っている。だから考えないし、考える前に忘れている。
隊長の、クーパー大尉の硬く重い頬が、わずかに吊り上がった。
「俺は、あるよ」
「なぜ?」
「それは、人の手の届くものじゃないからだな」
「人の手・・・」
見た夢と似ている。手が届かない、感覚が。
「お前は、どうして降りない?上るだけか?」
「それは、ずっと飛んでいたいからです。降りるなんてあり得ません」
「飛べているのか?それは、飛ばされているだけじゃないのか?」
「自分で飛ぶ意志さえあれば、空は飛べます」
ギアダウンして、まさに着陸する機体が横切っていく。強くなびいた風が打ちつける。
「俺は、あのどこまでも浮かんでいる感覚が怖い。今でもだ。いつまでも飛べるように人間は出来ちゃいない。どこか降りる場所が必要なんだ。それは空が用意してくれるものじゃない。人間は、空を変えられない。恋い焦がれても振り向いてくれないように」
空にいながら、空を飛べないジレンマ。それは一体なんと言えば良いのだろう。
「なら、隊長はどうして飛ぶのですか」
失礼だと知りながら、尋ねてしまう。しかし彼の表情は穏やかに微笑んだ。
「さあ、どうしてだろうな」
レイは再び身体を横にする。
「レイ、前に話したことがあったよな。もうお前は”こっち側”のパイロットだって。今度は自分の想いとは逆を、空に向けてみるのも良いかもしれない。青く塗った尾翼には、好きだけじゃない意味もあると、俺は思っている。あれと対等になってみろ。それができれば、誰もお前を落とせない」
目線が基地に行った。ここからは、遠目だが僕らの区画が見えた。格納庫の前にはそれぞれの機体が並んでいる。当然、僕のイーグルも、青い尾翼もはっきりと目に映った。視界の斜め上には、その範囲まで降りて来た空という背景がある。
無機質な色を抜きにして、重なる色。尾翼の色と空の色は、同じだろうか?
スロットルを叩きこむ。
強力なエンジンのノズルが、しぼんだ状態から大きな円形に膨れ上がる。
コックピットを震わせて、勢い良く滑走。長い滑走路が短くなる。
操縦桿を引いた。前輪が浮いて、僕が浮き上がって、機体が音もなく地上を離れる。
ギア・アップ。
飛び上がって3秒。一呼吸置いて、操縦桿を強く引く。垂直に近い角度で、機体が上昇を始める。地上は一気に置いてけぼり。
遮るものはなにもない。けれど、見下ろしたい地上もない。
反射する光を、空に向けて放つ。
見せつけてやろう。だって、僕は”ブルーバック”だから。




