第1話ヤンキー、異界に落ちる
空が割れた。
――そうとしか言いようがなかった。
「……は?」
黒崎レンは、間抜けな声を漏らした。
夜空に、ひびが入っている。
ガラスのように、蜘蛛の巣状の亀裂が広がり、その中心が黒く歪んでいた。現実感が、ない。つい数秒前まで、ここは学校裏の駐車場だった。
レンは鼻の下をぬぐう。血がついている。
どうやら夢ではないらしい。
「……っつーか、まだ終わってねぇぞ」
足元には、男が三人転がっていた。
制服の上着を着崩した三年生。顔面は全員ボコボコだ。その周囲で、残りの連中が距離を取っている。
「黒崎……! てめぇ調子乗りすぎだろ!」
「十人で来といてその言い草かよ」
レンは肩を回した。
ゴキッ、と鈍い音が鳴る。
黒崎レン。
二年。喧嘩の強さだけで学校内の不良の頂点に立った男だ。別に、なりたかったわけじゃない。ただ、売られた喧嘩は全部買っていただけだ。
「まだやんの?」
レンが一歩前に出る。
それだけで、三年の一人が後ずさった。
「ち、調子乗んな!」
鉄パイプを振りかぶる。遅い。レンは身体をひねり、腕を払い落とす。鉄パイプが地面に転がった。
「うおっ——」
腹に拳を叩き込む。男が折れ曲がる。レンはそのまま肘を振り下ろした。ゴン、と鈍い音。男はそのまま崩れ落ちた。
残りは二人。
「……っ」
「ほら」
レンは手をひらひら振る。
「来いよ」
挑発だった。だが、その瞬間だった。
バキン。空から、そんな音がした。
「……?」
レンが顔を上げる。夜空が、割れていた。
まるで透明な天井に亀裂が走ったみたいに、空全体にひびが広がっている。
「なんだ……?」
次の瞬間、ドンと空が鳴った。
「うわっ!?」
三年の一人が叫ぶ。空の裂け目が、広がる。
黒い穴。その奥は、底のない闇だった。
レンは眉をひそめる。
「……CG?」
そう言った瞬間引っ張られた。
「は?」
身体が宙に浮く。
「ちょ——」
重力が消えた。足元の地面が遠ざかる。
いや、違う。自分が、吸い込まれている。
「ふざけんなぁ!?」
レンは手を伸ばす。だが、掴めるものはない。駐車場。倒れた不良たち。学校の校舎。すべてが遠ざかる。世界が、黒い穴に飲み込まれていく。
「おい待て!!」
落ちる。落ちる。落ちる。
レンは歯を食いしばった。
「っ……!」
怖くない。怖くないはずだ。
今までだって、危ない目はいくらでもあった。刃物を向けられたこともある。
だがこれは——
「意味わかんねぇだろ!!」
叫びが闇に吸い込まれる。視界がぐにゃりと歪んだ。その瞬間。ドンッ。
衝撃。
「がっ……!」
レンは地面に叩きつけられた。肺の空気が全部抜ける。数秒、呼吸ができない。
「……っ、げほっ……!」
やっと息を吸う。土の匂いがした。
「……?」
レンは顔を上げる。
そこは——森だった。
見たこともない森。月明かりが差し込む、巨大な木々。空気が妙に冷たい。
「……どこだよ」
レンは立ち上がる。周囲を見渡す。街灯も、建物も、道路もない。あるのは、木と、草と、闇。
「……山?」
いや、違う。山にしては木がデカすぎる。
幹の太さが、レンの身体より太い。
「……は?」
風が吹いた。葉がざわめく。その音がやけに大きく聞こえた。静かすぎる。虫の声すら、ない。
「……マジかよ」
レンは頭をかいた。とりあえず状況を整理する。
一、さっきまで学校にいた。
二、空が割れた。
三、吸い込まれた。
四、森にいる。
「……誘拐?」
いや、無理だ。
どう考えても説明がつかない。
「夢……」
レンは自分の頬を叩く。パシン。
「……痛ぇ」
夢じゃない。
「……最悪だ」
レンはため息をついたそのとき。
ガサ。
森の奥で、音がした。レンの目が細くなる。
「……誰だ」
返事はない。だが、気配がある。
人じゃない。そんな直感があった。
ガサ。また音。
木の陰から、何かが動いた。
「出てこいよ」
レンは拳を握る。喧嘩は慣れている。
相手が誰だろうと関係ない。
だが次の瞬間。それが現れた。
「……は?」
レンは固まった。それは、犬だった。
いや犬じゃない。
大きい。軽く牛くらいある。毛は灰色。
目が赤い。そして、牙。明らかに普通の動物じゃない。
「……狼?」
その瞬間。狼が唸った。
グルルルル……
「……マジ?」
レンは乾いた笑いを漏らす。
「ここ動物園じゃねぇよな」
狼が、地面を蹴った。速い。
「ちっ!」
レンは反射的に横に跳ぶ。ドン!!
さっきまで立っていた場所に、狼が突っこむ。地面がえぐれた。
「……おいおい」
レンは目を見開く。
「強すぎだろ」
狼が振り向く。赤い目。完全に獲物を見る目だった。レンは拳を握る。
「……まぁいい」
ニヤリと笑う。
「結局、やること同じじゃねぇか」
狼が飛びかかる。レンも踏み込む。
「来いよ!!」
拳が振り抜かれたその瞬間。
森の奥から、声がした。
「伏せろ」
低く、冷たい声だった。
次の瞬間。シュン。風が鳴る。
そして。ドスッ。狼の首に、剣が突き刺さった。血が飛び散る。狼が崩れ落ちる。
「……は?」
レンは固まった。木の上から、人影が降りてくる。白い衣。黒い長髪。そして狐の面。
男だった。男は剣を引き抜く。狼の死体が倒れる。静寂。やがて、男がレンを見た。
「……人間?」
その声は、驚いたようだった。
レンも言い返す。
「それ、こっちのセリフだ」
狐面の男。異様な格好。そして、さっきの剣の速さ。どう考えても普通じゃない。レンは眉をひそめた。
「なぁ」
男に聞く。
「ここ、どこだ?」
男は少し沈黙した。そして言った。
「……天から落ちたのか」
「は?」
「なるほど」
狐面の男は呟く。
「また来たか」
「何がだよ」
男はレンをじっと見た。
そして、静かに言った。
「異界人」
レンの眉がピクリと動く。
「……は?」
狐面の男は続ける。
「ここは、人の世界じゃない」
月が雲から出た。森が青く照らされる。
男の狐面が、不気味に光った。
「妖の国だ」
レンは沈黙した。数秒後。
「……はぁ?」
「妖の国だ」
狐面の男は、そう言った。レンはしばらく黙っていた。風が吹く。森の葉がざわめく。足元には、さっきまで自分を襲っていた巨大な狼の死体。赤い血が土に染み込んでいく。
「……」
レンはゆっくり口を開いた。
「もう一回言ってみろ」
「妖の国だ」
「……」
「人の世界ではない」
「……」
レンは頭を掻いた。ガシガシと強めに。
「なるほど」
ぽつりと言う。
「わかった」
狐面の男は静かに聞いている。
レンは続けた。
「お前、頭おかしいだろ」
沈黙。風だけが吹いた。狐面の男は、少しだけ首を傾けた。
「理解できないのも無理はない」
「いやそういう問題じゃねぇ」
レンは狼の死体を蹴る。ドス、と重い音。
「この犬デカすぎんだろ」
「妖狼だ」
「やっぱり犬じゃねぇか」
「妖だ」
「同じだろ」
狐面の男はしばらく黙った。
そして小さく息を吐く。
「……本当に異界人らしい」
「だからそれ何だよ」
「異なる世界から落ちてきた者」
「そんなわけあるか」
「さっき天から落ちてきただろう」
「それは……」
レンは言葉に詰まる。確かに落ちてきた。空が割れて穴に吸い込まれて気付いたら森。
「……」
レンは空を見る。普通の夜空だった。
「……」
もう一度、狼を見る。デカい。
どう見ても普通じゃない。
レンは深く息を吐いた。
「……マジかよ」
狐面の男は静かに頷いた。
「理解したか」
「いやしてねぇ」
「では?」
「理解したくねぇ」
狐面の男はまた少し沈黙した。
「面白い男だ」
「褒めてねぇだろそれ」
レンはポケットを探る。
スマホの画面は真っ暗。
「圏外かよ……」
電波マークがない。
「当たり前だ」
狐面の男が言う。
「ここは人の世界ではない」
「……だろうな」
レンはスマホをしまった。
そのときだった。遠くで。
――ォォォォン……
低い遠吠え。レンの背筋に、ぞくりと寒気が走る。
「……今の」
「群れだ」
狐面の男が答える。
「妖狼の」
「……おい」
「さっきのは斥候」
「斥候?」
「群れの前に出て、獲物を探す」
森の奥で、また遠吠え。
――ォォォン……
今度は、複数。
「……おい」
「本隊が来る」
「おい」
「十はいるな」
「おい」
「逃げるぞ」
狐面の男はそう言って、森の奥へ歩き出した。レンは動かない。
「……」
「来ないのか」
「いや待て」
レンは狼の死体を指す。
「さっきあれ一匹でもヤバかったんだが」
「そうだな」
「それが十?」
「そうだ」
「……」
レンは数秒考える。
「逃げるぞ」
即答だった。狐面の男は少しだけ笑った気がした。気のせいかもしれない。二人は森を走る。枝が顔に当たる。地面はぬかるんでいる。
「くそっ」
レンは舌打ちした。
「走りにくい!」
「静かに」
狐面の男は軽い足取りで進む。まるで地面を滑るみたいだった。
「お前速すぎだろ!」
「鍛えている」
「俺もしてるわ!」
そのとき。背後で。ガサッ。
レンは振り向く。闇の中。赤い目。
一つ。
二つ。
三つ。
「……」
レンの背筋が冷えた。
「おい」
「見た」
「見たじゃねぇ」
赤い目が増える。
五。七。十。
森の闇の中で、狼たちがこちらを見ていた。
「……マジで十いるじゃねぇか」
「言っただろう」
狐面の男は足を止めた。
「ここまでだ」
「は?」
「囲まれる」
レンも止まる。周囲を見る。前。横。後ろ。すべて赤い目。
「……」
レンは拳を握る。
「……やるしかねぇか」
「無理だ」
狐面の男が言う。
「お前は死ぬ」
「言い方!」
「事実だ」
狼が一歩前に出る。牙が光る。
「……」
レンは構える。
「だったら一匹くらい道連れだ」
「やめろ」
「なんで」
「邪魔だ」
「は?」
狐面の男が剣を抜いた。細い剣。
月光を反射する。
「下がっていろ」
「いや十だろ?」
「問題ない」
「強がるなよ」
「強がってない」
狼たちが唸る。
グルルルル……
次の瞬間。一匹が飛びかかった。狐面の男は動かない。そして剣が消えた。
次の瞬間。狼の首が、宙を舞った。
「……は?」
レンは目を見開く。速すぎる。見えなかった。狼たちが一斉に飛びかかる。狐面の男が動いた。剣が走る。風が裂ける。血が舞う。ドン、ドサ、ドス。
狼が次々倒れていく。まるで舞っているみたいだった。
「……」
レンは呆然と見ていた。
五匹。六匹。七匹。
だが背後から飛びかかる。
「後ろ!」
レンが叫ぶ。狐面の男が振り向く。遅い。牙が迫る。
「っ!」
レンは走った。考える前に体が動いた。狼の横腹に拳を叩き込む。ドン!!
骨の感触。狼が横に吹っ飛ぶ。
地面を転がる。
「……」
狐面の男がレンを見る。
「……何している」
「助けただろ!」
「余計だ」
「はぁ!?」
そのとき。最後の狼が飛びかかった。
レンが振り向く。牙。目の前。
「やべ——」
その瞬間。狐面の男が踏み込む。剣が一閃。ドス。狼が地面に落ちた。静寂。森が静かになる。十匹の狼が倒れていた。
「……」
レンはしばらく黙る。そして言った。
「……お前」
「なんだ」
「強すぎだろ」
狐面の男は剣の血を払う。
「普通だ」
「普通じゃねぇ」
レンは笑った。
「いいな」
「何がだ」
「その強さ」
狐面の男は少し沈黙した。そして聞いた。
「……お前は」
「ん?」
「何者だ」
レンは肩を回す。
「ただのヤンキー」
「ヤンキー?」
「喧嘩屋だ」
狐面の男はレンを見つめた。
そして小さく言った。
「……妙な異界人だ」
レンはニヤッと笑う。
「そっちは?」
狐面の男は剣を納めた。そして言う。
「白蘭」
「?」
「私の名だ」
レンは少し驚いた顔をした。
「……名前あったのか」
「失礼だな」
レンは笑った。
「俺はレン」
「レン」
白蘭はその名を繰り返す。
そして。
「……厄介な男を拾った」
そう呟いた。レンは気付いていなかった。
森の奥から。もっと恐ろしい気配が近づいていることを。森が静まり返っていた。足元には十匹の妖狼の死体。月明かりの下で、血が黒く光っている。
「……」
黒崎レンは、その光景を見下ろしていた。
「……すげぇな」
ぽつりと呟く。
「全部お前がやったんだろ?」
狐面の男――白蘭は剣の血を布で拭っていた。
「半分だ」
「半分?」
「一匹はお前だ」
レンは笑う。
「確かに」
拳を握る。さっきの感触がまだ残っていた。 骨の硬さ。重さ。普通の動物じゃない。
「……ここマジでヤバい世界だな」
白蘭は何も言わない。
ただ森の奥を見ていた。
「どうした」
レンが聞く。
「……静かすぎる」
「さっき騒いだろ」
「それでもだ」
白蘭の声が低くなる。
「妖狼の群れは、本来もっと大きい」
「……」
「十匹で終わるはずがない」
その瞬間だった。森の奥から。
ズン。地面が揺れた。
「……おい」
レンの声が低くなる。
ズン。また揺れる。
何かが、歩いている。重い。大きい。
ズン。
木々の奥。巨大な影。
そしてそれが姿を現した。
「……は?」
レンは目を見開いた。
狼。だが、さっきのとは比べ物にならない。
大きさは、軽く二階建ての家くらい。体毛は黒。背中には骨のような突起。目は、血のように赤い。そして口からは黒い息が漏れている。
「……」
白蘭が呟く。
「妖狼王」
「王?」
「群れの主だ」
狼が口を開く。低い唸り声。空気が震えた。レンの背筋に寒気が走る。
「……マジでボスじゃねぇか」
妖狼王が一歩踏み出す。
ズン。地面が沈む。白蘭が剣を構える。
「下がれ」
「無理だろ」
「死ぬ」
「お前もな」
レンが言う。白蘭は答えない。妖狼王の目がレンを見た。その瞬間。
ドン!!
地面を蹴った。速い。
「っ!」
白蘭が踏み込む。剣が閃く。
ガンッ!!
硬い音。剣が弾かれる。
「……!」
白蘭の体が後ろへ飛ばされる。レンは目を見開く。
「おい!」
妖狼王が振り向く。レンを見た。
獲物を見る目。
「……」
レンは拳を握る。怖い。正直、今まで感じたことのない恐怖だった。
だが。
「……ちっ」
舌打ちする。
「知るかよ」
地面を蹴る。レンは突っ込んだ。
「来いよバケモン!!」
拳を振りかぶる。妖狼王の脚に叩き込む。
ドン!!
衝撃。骨のように硬い。だが妖狼王が少しだけ体勢を崩す。
「……効いた?」
次の瞬間。尾が振られた。
ドゴン!!
「がっ!」
レンの体が吹っ飛ぶ。木に叩きつけられる。呼吸が止まる。
「……っ」
視界が揺れる。妖狼王が近づく。
巨大な影。
「……やば」
レンは立とうとする。足が震える。妖狼王が口を開く。牙。レンの頭くらいある。
「……」
レンは笑った。
「……上等」
その瞬間。白い影が飛んだ。白蘭だった。剣が光る。
ドス。妖狼王の目に突き刺さる。
グォォォォ!!
咆哮。森が揺れる。妖狼王が暴れる。白蘭が弾き飛ばされる。レンが叫ぶ。
「おい!」
白蘭が地面に転がる。立ち上がる。息が荒い。
「……強い」
「今さら!?」
妖狼王が怒り狂う。黒い息を吐く。
木が枯れる。
「毒か!」
レンが叫ぶ。
白蘭がレンを見る。
「……逃げろ」
「は?」
「お前だけでも」
「ふざけんな」
「勝てない」
「やる前から決めんな」
レンは立ち上がる。足は震えている。
それでも笑う。
「俺さ」
「……」
「喧嘩で逃げたことねぇんだよ」
妖狼王が突進する。レンが走る。白蘭も動く。二人が同時に踏み込んだ。レンの拳。
白蘭の剣。同時に妖狼王へ。
「うおおおお!!」
剣が首に刺さる。レンの拳が顎に入る。
ドゴン!!
妖狼王がよろめく。白蘭が叫ぶ。
「今だ!」
レンが吠える。
「任せろ!」
レンは跳んだ。妖狼王の頭へ。
そして全力で拳を叩き込む。
ドンッ!!
骨が砕ける音。妖狼王の体が揺れる。
数秒の沈黙。そして。
ズン……
巨大な体が倒れた。
森が静かになる。
「……」
レンは地面に座り込む。
「……死ぬかと思った」
白蘭も膝をついていた。
「……私もだ」
二人はしばらく黙る。やがてレンが笑う。
「なぁ」
「……何だ」
「いいコンビじゃね?」
白蘭は少し沈黙した。そして言う。
「……妙な男だ」
「褒めてる?」
「半分」
レンは立ち上がる。
「じゃあ決まりだな」
「何がだ」
「しばらく世話になってやる」
「断る」
「もう遅い」
レンは笑う。
「俺、帰り方わかんねぇし」
「……」
「それに」
レンは白蘭を見る。
「お前面白い」
白蘭は小さく息を吐いた。
「……本当に厄介な男だ」
レンは笑う。
「よろしくな」
白蘭は少しだけ迷った。
そして。
「……好きにしろ」
そう言った。
こうして。異世界に落ちたヤンキーと狐面の剣士の旅が始まった。




